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薄い光が、色を失ったステンドグラスをすり抜けて床に落ちていた。

それは朝なのか夕暮れなのかすら判別できない、時間という概念だけが曖昧に溶けた光。

石造りの床に、二人の青年が倒れている。

一人は仰向けで、天井の亀裂をぼんやりと見つめていた。

胸に手を当て、呼吸を確かめるように何度か浅く息を吸い、そして呟く。


「……ニコだ」


それが名前だと、なぜか確信できた。

それ以外は何ひとつ、思い出せない。

少し離れた場所で、もう一人がうめき声を上げて身を起こした。

長椅子に手をつき、額を押さえながら、低く息を吐く。


「ショウ……俺は、ショウ」


声に出した瞬間、その名前だけが輪郭を持って世界に固定された。

年齢も、過去も、ここへ来た理由も、すべてが霧の向こう側にある。

二人は互いに視線を向ける。

初対面のはずなのに、妙な既視感が胸の奥に引っかかっていた。

知っているような、知らないような――確かめる術のない違和感。

「ここ……教会だよな」

ショウが言う。

祭壇、十字架、崩れかけた聖像。

だが祈りの気配はなく、静寂だけが重く積もっている。

「見覚えは?」

ニコが首を振る。

「名前以外、全部空っぽだ」

風がどこからか吹き込み、蝋燭台がかすかに鳴った。

その音に呼応するように、天井の奥で何かが軋む。

天井の軋みは、やがて“音”ではなく“破壊”へと変わった。


――バキリ、と。


乾いた破裂音と同時に、聖堂の天井が内側から盛り上がる。

石と木材が悲鳴を上げ、次の瞬間、巨大な影がそれらを突き破った。

崩落、粉塵。

祈りの場だった空間が、一瞬で瓦礫の雨に変わる。

「伏せろッ!」

ショウが叫ぶより早く、黒い何かが床に叩きつけられた。

衝撃で二人の身体が跳ね、内臓が揺さぶられる。

それは――化け物だった。

天井の穴から半身を垂らし、異様に長い腕で床を掴んでいる。

関節の位置は狂い、皮膚は石のように硬く、ところどころに歪んだ“顔”のような隆起が浮かんでいた。

口らしき裂け目が開き、祈祷文を逆再生したような、不快な音を吐き出す。

ニコの喉が、ひくりと鳴った。

「……あれ、どう見ても……」

「人間じゃないな」

ショウは近くに落ちていた鉄製の燭台を掴む。

重い。武器としては心許ない。

だが、他に選択肢はなかった。

化け物が、ずるり、と身体を引きずり出す。

天井の穴がさらに広がり、石像の腕が落ちて砕けた。

次の瞬間。

“それ”は跳んだ。

床を砕き、あり得ない速度で距離を詰める。

ニコは反射的に横へ転がった。

さっきまで立っていた場所に、巨大な腕が叩きつけられ、床が陥没する。

「クソッ……!」

ショウが燭台を振り下ろす。

金属が硬い皮膚に当たり、鈍い音だけが返ってきた。

刃もない、衝撃も足りない。武器として力として、あまりに弱い。

化け物は気にした様子もなく、腕を振り払う。

ショウの身体が、軽々と吹き飛ばされた。

「ショウ!」

柱に叩きつけられ、咳と共に血が滲む。

視界が揺れる中でも、化け物は止まらない。

今度は、ニコに狙いを定めた。

逃げ場はない。

背後は祭壇、左右は瓦礫の山。

――終わる。

そう思った瞬間、ニコの胸の奥で、何かが“軋んだ”。

理由は分からない。

記憶も、理屈もない。

だが身体だけが、確かに覚えている。

「……来いよ」

ニコは拾った石片を構え、震える足で前に出た。

恐怖で視界が滲む。それでも退かなかった。

化け物の腕が振り下ろされる。

その瞬間――

聖堂の奥、崩れかけた聖像が、微かに光った。

光は、最初は錯覚のように淡かった。

粉塵に満ちた聖堂の空気の中で、白い何かが、ふわりと舞ったのだ。

――花弁。

一枚、また一枚と、崩れた天井の穴から降り注ぐ。

季節外れの、名も知らぬ花の花弁が。

「……花?」

ニコが呆然と呟いた、その直後だった。

床に根が“生えた”。

石の隙間を砕き、絡み合うように伸びる蔦。

一瞬で聖堂全体を覆い尽くす勢いで、緑が爆発的に増殖する。

化け物が動きを止めた。

いや――止められた。

その脚、その胴、その歪な腕に、無数の花が咲いたのだ。

赤、白、紫。

美しいほどに鮮やかな花々が、肉を突き破り、骨に絡みつく。

裂け目の口から、耳を裂くような咆哮が溢れた。

だが次の瞬間。


「――静かに」


凛とした女の声が、聖堂に響いた。

祭壇の前。

いつの間にか、そこに一人の女性が立っていた。

長い髪は花の色を映したかのように淡く、衣は蔦と花弁で編まれたように揺れている。

足元には、踏み荒らされたはずの床から、可憐な花が咲き誇っていた。

花の魔女

彼女は名乗らなかった。

だが、その存在そのものが魔女であるということを雄弁に語っていた。

彼女が指先を、ほんの僅かに動かす。

すると、化け物の身体に咲いた花々が、一斉に“開いた”。

内側から。

肉が裂け、骨が砕け、内臓を貫いて、花の茎が突き抜ける。

生命を育むはずの花が、命を奪う刃へと変わった。

最後に残った頭部が、叫ぶ暇すらなく――

音もなく、崩れ落ちた。

花に喰われるようにして。

静寂。

さきほどまでの地獄が嘘のように、聖堂には花の香りだけが漂っている。

ショウとニコは、言葉を失って立ち尽くしていた。

魔女は二人に視線を向ける。

その瞳は優しくもあり、どこか冷たくもあった。

「無事ね。……まだ、名前しか残っていない顔だわ」

「……助けて、くれたのか」

ショウがかすれた声で言う。

魔女は小さく笑った。

「ええ。死なれると困るもの」

彼女の足元で、一輪の花が咲く。

それは、ニコとショウの足元へと、ゆっくり蔦を伸ばした。

「ここは、忘却の教会。名前だけを残した者が、選別される場所よ」

二人の背筋を、冷たいものが走る。

「あなたたちが選ばれたのか、それとも――」

彼女は振り返り、崩れた聖堂の奥へと歩き出した。

「生きたいなら、ついてきなさい。次は、私が必ず助けるとは限らないわ。貴方達は二人だもの」

花弁が舞い、道を作る。

ショウとニコは顔を見合わせ、

そして何も言わず、その背を追った。

それが、

彼らの運命が本格的に動き出した、最初の一歩だった


花弁の道は、聖堂の奥で闇に溶けていた。

その闇は単なる影ではない。湿り気を帯び、息を吸うたびに胸の奥へ沈殿する――忘却そのもののような闇だった。

魔女は迷いなく歩く。

蔦が彼女の足運びに合わせて床を補強し、崩れた石を避けるように道を編み直していく。

ニコとショウは、半歩遅れてその背を追った。

「……その、あんた、何者なんだ」

ショウが堪えきれずに問いかける。

マリーは振り返らない。

「さっき言ったでしょう。花の魔女マリー。それ以上でも、それ以下でもないわ」

その声は穏やかだが、どこか“遠い”。

血の匂いが残る聖堂で、あまりにも場違いなほど静かな声だった。

「じゃあ、さっき言ってた“選別”って……」

ニコが続ける。

一瞬だけ、マリーの歩みが止まった。

「この教会で目を覚ます人間にはね、いくつか“役割”があるの。剣になる者、盾になる者、祈りになる者……そして、選定者」

彼女はようやく二人を振り返った。

その瞳に宿る感情は、憐れみと警戒が複雑に絡み合っている。

「邪悪なる存在に、唯一抗えると予言された者」

空気が、わずかに重くなる。

「……それが、俺たち?」

ショウが自嘲気味に笑う。

「冗談だろ。記憶もない、武器もない、さっきは化け物に一撃で――」

「それでも、生き残った」

マリーは即座に言った。

「忘却の教会は、無作為に人を拾わない。迎え入れない。“価値がある何か”を持つ者だけを、名前だけ残して放り込む」

ニコは胸に手を当てた。

さっき、確かにそこが“軋んだ”。

「……でも、唯一、なんだろ?」

ニコが言う。

「なのに、二人いるのは……おかしい」

その問いに、マリーは答えなかった。

代わりに、闇の奥にぽっかりと開いた小部屋へと二人を導く。

そこは、かつて司祭の私室だったのだろう。

壁一面に蔦が這いながらも、中央の机だけは不自然なほど原形を保っていた。

机の上に、一冊の古い手記が置かれている。

革表紙は擦り切れ、角は血のように黒ずんでいた。

マリーは、その手記にそっと触れる。

「……私が、ここへ来た理由よ」

彼女の声が、ほんのわずかに揺れた。

「予言の魔女。私の、友だった女のもの」

――予言の魔女。

その名を聞いた瞬間、ニコの脳裏に一瞬、知らないはずの光景がよぎる。

星図、燭台、血で描かれた円陣。

だが掴む前に、霧散した。

マリーは手記を開く。

「彼女は、聡明で、優しくて……人を導く魔女だった。

 邪悪なる悦虐者が世界を滅ぼすと予言するまでは」

ページをめくる音が、やけに大きく響く。

「予言をした日から、少しずつ変わっていったわ。疑心暗鬼、攻撃性、そして――傲慢」

マリーの指が、ある一頁で止まる。

「やがて彼女は言い出した。悦虐者の忠実な下僕、自分こそが災厄の魔女だと」

ショウが息を呑む。

「……それで?」

「多くの人を殺したわ。友、恋人、家族、自らが愛していたであろう悉くを、カサンドラ、予言の魔女はその手に掛けた」

彼女は、静かに言った。

「だから私は……止めた」

その言葉の裏にある意味を、二人はすぐに理解した。

それ以上、誰も口にしなかった。

マリーは手記の、最後に近い頁を開く。

そこには、震えるような筆跡で、こう書かれていた。

――――――――

◼︎◼︎日 ◼︎◼︎時

星位、完全に一致。

花は逆に咲き、名は失われる。

邪悪に対抗できる唯一の選定者が、

忘却の教会に現れる。

それは一であり、

一であってはならない。

――――――――

沈黙。

ニコとショウは、同時にその一文を見つめていた。

「……一であり、一であってはならない?」

ニコが呟く。

マリーは、ゆっくりと手記を閉じた。

「私も、ずっと分からなかった」

そして、二人を見る。

「今日、この時刻。その“唯一”が現れると知って、私はここへ来た」

花の魔女の瞳に、初めて僅かな困惑が浮かぶ。

「……でも」

彼女は、はっきりと言った。

「二人いるなんて、聞いていない」

紫陽花を思わせる紫色の瞳で魔女が二人を暫く眺める。

やがて結論が出たとマリーは話を再開した。

「貴方達のどちらかが選定者かは分からない。だからどちらも守り、どちらも育てる事にしたわ。簡単な話よ。少ない分には困るけど、多い分には別に困らない。それだけ」

二人は目を合わせる

「守るって、何から?」

「さっきみたいな化け物。明らかに貴方達を狙っていたでしょう?」

「育てるって、俺達をか?俺もニコもあんたより身長高いんだけど…」

「馬鹿ね。育てるというのは貴方達二人に選定者として力をつけてもらうという意味よ」

「どちらかが選定者でなかった場合は?」

「さあ?好きにするといいわ」

話は終わりと、マリーが手を合わせると花弁が舞い再び道を作る。

「どちらせよ、記憶もない力もない貴方達には選択肢もないわ。死にたいのなら別だけどね」



花弁の道は、いつの間にか石の床を離れ、湿った土へと変わっていた。

最後のアーチをくぐった瞬間、空気が一変する。 黴と血の匂いに満ちていた聖堂の残滓は、背後でふつりと途切れ、代わりに鼻腔を満たしたのは、濃密な緑の匂いだった。

――森だ。

夜の月や星々の薄明の中、無数の木々が空へと伸びている。 幹は太く、苔と蔦に覆われ、葉の隙間から差し込む光は淡く拡散していた。 風が吹くたび、枝葉が擦れ合い、低く長いざわめきを生む。 それは歓迎にも、警告にも聞こえた。

「……教会、消えたな」

ショウが振り返る。

そこにはもう、崩れた聖堂はない。 霧のような闇と、絡み合う木々があるだけで、入口らしきものすら見当たらなかった。

ニコは無言で森を見回した。 どこを見ても、逃げ場も、道標もない。 それなのに、不思議と絶望は湧かなかった。 代わりに胸の奥で、またあの“軋み”が、微かに鳴っている。

「……で、ここからどうするんだ」

ショウが肩をすくめる。

「森で野宿?俺、記憶ないけどサバイバル能力とかないぞ、多分」

「安心なさい」

マリーは立ち止まり、周囲を一瞥した。

「今日の寝床くらいは用意するわ」

彼女は、一本の若い木の前に歩み出る。 幹はまだ細く、葉も柔らかい。 その足元には、白い小さな花が群れて咲いていた。

マリーは地面に膝をつき、そっと掌を当てる。

「――少し、借りるわね」

囁くような声と同時に、空気が脈打った。

最初に動いたのは、根だった。 土の下で何かが目覚めたかのように、地面が盛り上がる。 木の根が這い出し、絡み合い、まるで意思を持つ指のように形を作っていく。

次に、幹。 軋む音を立てながら、木は横へと伸び、枝を分け、骨組みのような構造を形作った。 折れることはない。 むしろ、成長している。

「……家、作ってないか?」

ショウが目を見開く。

「急造だけどね」

マリーは立ち上がり、指先を弾いた。

その瞬間、花が爆発的に咲いた。

壁となる枝に蔦が絡み、無数の花弁が重なり合って隙間を埋める。 屋根には大きな葉が幾重にも重なり、雨を弾くように角度を変えて落ち着いた。 床には、踏みしめても崩れないほど密に編まれた根が広がる。

数十秒。 それだけの時間で、そこには“家”があった。

木と花でできた、小さな家。 歪ではあるが、不思議と温もりを感じさせる佇まいだった。

「……魔法、便利すぎだろ」 ショウが呆然と呟く。

ニコは、言葉を失っていた。 ただ、胸の奥が少しだけ軽くなるのを感じていた。 ここなら、少なくとも、すぐに死ぬことはなさそうだ。

マリーは扉代わりの蔦を払い、振り返る。

「今夜はここで休みなさい」

その声は、命令ではなく、事実の告知だった。

「明日から、本当に“育てる”わ」

「スパルタ?」

ショウが半笑いで聞く。

「ええ」

マリーは即答した。

「死なない程度に」

ニコとショウは顔を見合わせ、同時にため息をついた。

選択肢は、最初から一つしかない。 それでも――

森の奥で、家を包む花々が、静かに揺れた。 それは、歓迎の拍手のようにも、これから始まる試練を知る者の嘲笑のようにも見えた。

忘却の教会を後にし、 花の魔女と共に森へ踏み込んだその夜。

彼らはまだ知らない。 この小さな木と花の家が、二人の運命を分かつ揺籃になることを。

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