19
――眩しい。
瞼の裏に差し込む白光に、ニコは思わず顔をしかめる。
ゆっくりと、ぎこちなく目を開けた。
飛び込んできたのは、澄み切った青空だ。
高く、どこまでも高く。
雲がゆるやかに流れ、鳥の影が横切る。
耳に届くのは、甲高いさえずりと、葉擦れの音。
風が吹く。
湿った土と、若葉と、咲き誇る花の匂い。
身体に力が入らない。
砕けたはずの肢体は鈍く重く、けれど――壊れてはいない。
狭くなった視界で、ゆっくりと周囲を見渡す。
生き返った森に、陽が差している。
若芽が揺れ、花々が色を競い、獣たちが駆け回る。
命が、命を謳歌している。
ニコは、巨大な幹に背を預ける形で座り込んでいた。
その大樹は、黒くもなければ、輝いてもいない。
かつて闇を纏っていた面影をわずかに残しながらも、今は深い滋養に満ちた緑を湛えている。
闇も光も、争いも憎しみも――すべてを養分へと変えたかのような、静かな威厳。
ざ、と葉が鳴る。
「よお、目は覚めたかよ」
横からの聞き慣れた声に、ゆっくりと視線を動かす。
そこには、同じように大樹へ身を預けて座るショウの姿があった。
泥と乾いた血で汚れた服。包帯代わりに裂かれた布。
だが、その黄金の瞳はもう穏やかで、戦場の狂気はない。
「おはよう。いい天気だね」
その言葉は、驚くほど自然に口に出た。
身体は代償でボロボロのはずなのに、不思議と声はよく通る。
ショウは小さく鼻で笑う。
「皮肉か?」
「本音だよ」
少しの沈黙。
風が、二人の間を通り抜ける。
ニコは、ゆっくりと空を見上げた。
「……何もかも元通りって訳だ」
その声音に、悔しさはなかった。
ただ、確かめるような響き。
ショウは空を仰ぎ、しばらくしてから答える。
「元通り、かどうかは知らねぇけどな」
黄金の光はもう、彼の足元からは溢れていない。
代わりに、ただ人間の鼓動だけがある。
「森は戻った。命も戻った。……お前も、俺も、生きてる」
ぽん、と。
ショウは自分の胸を軽く叩いた。
「俺の勝ちだな!」
ニカッ、と。
歯を見せて笑うショウの顔には、翳りがなかった。
打算も、罪悪感も、憐憫もない。
ただ純粋に――勝った。そう言い切る少年の顔。
その無邪気、無防備に、ニコはわずかに目を細める。
「……いや、まだだよ」
静かに、しかしはっきりと。
「まだ、俺は生きてる。殺さなければ、ただ同じ事の繰り返しだ」
森の風が止まった気がした。ショウは数秒、ぽかんとしたあと――
「かぁーっ!」
額を押さえ、大袈裟に天を仰ぐ。
「お前もしつこいヤツだな! この話、またするかよ?」
やれやれ、と大樹に後頭部を打ちつける。
構わず、ニコは淡々と続けた。
「俺を閉じ込めるっていったっけ? そんな事しなくても、干渉の魔法で俺は俺自身を変えられる。ショウの望む俺にだって、魔法が使えるようになればすぐになれるさ」
風が枝を揺らし、木漏れ日が、ニコの横顔を照らす。
「でも」
一拍。
「それは嫌だ。前もいったけど、それは自殺と同じで――」
「逆だ」
遮るように、ショウが言った。
声に迷いはない。
「それさえ使わなきゃ、お前はその内正気に戻る」
確信を孕んだ声音に、ニコは、じろりと横を見る。
「……ショウに、何がわかんのさ」
少し拗ねたような、年相応の声。
ショウは鼻を鳴らす。
「言ったろ? 俺はお前よりお前を知ってる」
「……好きな食べ物は?」
間髪入れず。
「ハンバーガー」
即答。
「……嫌いな食べ物は?」
「味噌汁」
これも即答。
「……気持ち悪」
ニコがうげぇ、と露骨に顔をしかめる。
「そんなどうでもいいことをピンポイントで……」
「お前、駅前のバーガー屋で食いすぎて吐いただろ?」
「知らなくていいよそんなの!」
森に、小さな笑いが混じる。
ショウは真顔に戻る。
「なあニコ。お前が何回同じ事を言おうが、俺も何回でも同じ事を返す」
一瞬だけ、視線がまっすぐに交わる。
「お前を閉じ込めて、お前が正気に戻るまでそこで俺も一緒に待つ。何日でも何年でも構わねぇ。お前が正気に戻るか、俺かお前が死ぬまで一緒にいてやるよ」
ニヤリ、と笑う。
「ま、俺はお前より長生きするがな!」
ガハハ、と豪快に笑う声が森に響き、鳥が一斉に飛び立つ。
「……あっ……待って……そういう感じ?」
ニコが、何かを察した顔でそろりと身を引く。
「ごめん。ショウ、お前の気持ちには答えられない。価値観は人それぞれで、否定する気はないけど、俺にそっちの気はない」
「ばっ、バカヤロー!!」
ショウが真っ赤になって立ち上がりかけ、すぐに傷に響いてうずくまる。
「ち、違ぇ!! そんなんじゃねぇ!!」
指をびしっと突きつける。
「俺は女の子が大好きだ!!」
森にショウの声が響き渡る。枝に止まっていた鳥が再び飛び立ち、遠くで鹿が驚いて駆け出す。
ニコは数秒、真顔で見つめ、それなら、と続けた。
「……胸とお尻、どっち派?」
ショウの眉がぴくりと跳ねた。
「はっ! その二択が素人丸出しだな!」
腕を組み、どこか得意げに鼻で笑う。
「足。脚だ」
断言。
「女の子の魅力は足にある! 足とは人間の身体で最も筋肉量が多い部位――だが! 彼女達の脚は力強くもしなやかで、同じ人間、性別が違うだけでこうも曲線と重心の在り方が――」
いつの間にか立ち上がり、身振り手振りまで交えて熱弁するショウ。
「太腿から膝、膝から脛へのライン! そして足首の細さ! あのコントラストこそが――」
「……やっぱり気持ち悪いな」
ニコが、心底呆れた顔で言い、ショウの動きがぴたりと止まる。
「なんでだよ! 今めちゃくちゃ真面目な話してただろ!?」
「それを真面目って言い張れるのが怖い」
森に、穏やかな風が吹く。
大樹の前に流れる空気は温かい。
つい先ほどまで、血みどろの戦いを繰り広げていたとは思えないほど、ありふれている。
年頃の青年二人が、駅のホームでくだらない話をしているような。
どこにでもある、平凡で、だからこそ尊い時間。
ひとしきり笑ったあと。
ふう、と。
ニコが小さく息を吐き、その音に、ショウは視線を戻す。
「もう一度だけ言うよ」
声の温度が、変わる。
「ショウが俺に干渉する限り、俺が生きている限り、俺はお前を殺す」
先ほどまでの軽さはなく、揺るぎのない、静かな宣告。
「だから今ここで俺を殺しておかないと、ショウは必ず後悔することになる」
木漏れ日が、ニコの顔にまだらな影を落とす。
「これは絶対だ」
森が、わずかに静まる。
ショウは数秒、ニコを見つめ――
「そうか」
肩をすくめた。
「殺さねぇ」
やはり即答。迷いは、ひとかけらもない。
ニコの片眉がわずかに動く。
「……警告はしたからね」
風が、止む。
森のざわめきが、すっと遠のいたように感じられた。
ショウは笑ったまま、しかし目だけは細める。
大樹が風に吹かれ、木漏れ日が揺れる。
枝。その先の緑の葉に、ポツリと、桃色の蕾が混じっていた。




