18
世界が軋む。
頭上を覆う赤黒い魔法陣から放たれるのは、もはや単なる力ではない。
それは「生」そのものを否定し、捻じ伏せようとする殺意に満ちた物理法則だった。
だが、ショウの足元で広がる黄金の光は、その重圧を跳ね除けるように輝きを増していく。
ミシミシと音を立てる骨、裂ける筋肉。体中の細胞が、この場に留まることを拒絶して悲鳴を上げている。
「……あ、が…………っ」
膝が震える。
肺は焼け付くような熱気を吸い込み、呼吸のたびに喉の奥から鉄の味が競り上がってくる。
それでも、ショウは顔を上げた。
視界の端々が真っ赤に染まり、網膜が熱で焼き切れそうになりながらも、その視線はただ一点――黒い木の頂点、漆黒の花の上に立つ影を見据えていた。
「ニコォーーッ!!」
裂帛の咆哮とともに、ショウの口から再び鮮血が溢れ出す。
それは地面に叩きつけられる重力への抗議であり、闇に沈んだ友の魂を強引に引き戻そうとする、血を吐くような呼びかけだった。
「お前が……っ、どうなろうと! 何をしようと……!」
一歩、踏み出す。
足が地面に触れるたび、そこから黄金の亀裂が走り、赤黒い魔法陣の陰を、光の領域に塗り替えていく。
ショウの体温はすでに生物の限界を超えていた。沸騰した血液が血管を内側から突き破り、黄金の瞳からは、涙に代わって赤い筋が伝い落ちる。
血の涙が頬を濡らし、黄金の光に照らされて、それはまるで燃える宝石のように輝いた。
「俺は絶対にお前を……諦めねぇッ!!」
絶望の淵から這い上がった、剥き出しの執念。
その瞳に宿る黄金の光には、微塵の曇りも、揺らぎもない。
ニコがすべてを賭けて「闇」へと堕ちるのなら、ショウもまた、すべてを賭けてその「光」で手を伸ばす。
「……それを傲慢だ、欲だと言いたきゃ好きにしやがれ」
掠れた、しかし芯の通った声が、重圧を押し返して響く。
ショウは震える右腕を上げ、焼けるような熱を持つ自らの胸へ、その掌を強く叩きつけた。
「けどなぁッ! 大事なのは言葉じゃねぇ、意味でもねぇ……!」
ドクン、と。
魔法陣の脈動を上書きするような、力強い鼓動が世界に響き渡る。
ショウは胸に当てた手に力を込め、指先が肉に食い込むほどに己の存在を主張した。
「テメーの、自分自身の心だろうがッ!!」
その言葉が放たれた瞬間、ショウを中心に黄金の光が爆ぜた。
重力による圧殺も、血を焼く熱量も、殺意の悉くを拒絶し、光の柱が天を突く。
それは理屈も、世界の法則も、冥府の王の格さえも飛び越えた、ただ一人の人間としての、醜く純粋なまでの「正義」だった。
漆黒の花弁が描く絶壁の端。そこに、ニコが立っていた。
ショウが放つ天を突く光柱は、冥府の王が作り出した「偽りの夜」を内側から食い破っている。
バキバキと音を立てて暗黒の天蓋に亀裂が走り、そこから零れ落ちるのは、夜明け――黄金色の朝日だった。
闇の世界に白光が差す中、ニコは数歩、花弁の先端へと歩み出る。
目と鼻の先には、世界を焼き尽くさんばかりの光の奔流。
その底。泥を舐め、血を吐きながらも屹立するショウの姿を見下ろし、ニコは静かに口を開いた。
「……そうだね。ショウの言う通り」
光の勢いは尚も増し、空間そのものに無数のヒビを刻んでいく。空に浮かぶ赤黒い魔法陣は、抗うように激しく、狂おしく明滅した。
「大事なのは心だ」
ニコは右手をゆっくりと空へ掲げる。
命を代償に捧げる魔法。それには四つの条件がある。
条件一:術者の自死の禁止
術者自身の命を代償にすることはできない。己を失えば魔法は「意思」を失い、指向性を失い、制御不能な力と化して霧散する。
条件二:代償となる命の「是」
代償となる命は、術者にすべてを捧げることを自ら肯定し、拒んではならない。魔法には「意志」が必要である。
条件三:代償となる命の「重量」
魔法的な価値、すなわち「重さ」のない命は代償になり得ない。奇跡を起こすには、それに相応する膨大な「力」が必要となる。
条件四:術者の魔法的技術「器」
たとえ強大な命と意志があっても、それを受け止め、形にする「器」が未熟であれば魔法は完成しない。精緻な魔導回路、あるいはそれに類する高い技術が求められる。
ニコは宙で脈動する赤黒い幾何学模様を見つめる。
条件一。代償は自分ではない。
条件二。ハデスは自らの意思でニコに命を託した。
条件三。冥府の王ハデス。その魂の重量は、この森の全生命を束ねてもなお届かぬほど、深く、重い。
そして――条件四。
ニコが振るう「生命への干渉」は、花の魔女や森の生命を奪うことで異常なまでの進化を遂げてきた。
ーーだが
それは、あくまで他者から奪い取った力。
強大な命を完璧な「魔法」へと変換し、一寸の狂いもなく発動させるための、「器」としての技術には、爆発的な成長を続けるニコでさえ、未だ手が届かない。
(……足りない)
巨大な魔力、最強の代償、揺るぎない殺意。
それらが揃っていながら、「技術」という一点のみが欠けている。
(でも――関係ない)
ニコの瞳に、黒い炎が宿る。
自分の中に流れる、ハデスの、そして森の命たちの意志が、理屈を超えて加速する。
技術が足りないのなら――
「それを補うのは心だ」
ニコは掲げた掌を、天に向けて大きく見開いた。
その瞬間。
パキッ、と。
硬質な、しかし生命の爆ぜる音が響く。
指。
掲げた右手の五指が、まるで目に見えない巨人に握り潰されたかのように、あらぬ方向に別々に曲がっていく。関節が弾け、皮を突き破らんばかりに骨が突出した。
(足りない)
右腕。
掲げていた肘の先が、乾燥した枝を折るように直角に曲がる。
だらりと力なく垂れ下がろうとするそれを、ニコは左手で無理やり掴み、支え、再び天へと突き立てる。
(足りない)
左足。
膝から先が、今その身にかかる重量を思い出したかのように、内側から粉砕された。
ニコは支えを失い、黒い花弁の上へ激しく膝をつく。
(足りない)
右目。
最後までショウを射抜いていた強い意志の宿る瞳が、内圧に耐えかねて唐突に潰れた。
「――っ」
声にならない呻きとともに、ニコの顔が赤い鮮血で濡れ、視界の半分が永遠の闇に包まれる。
(足りない……足りない……足りないッ!!)
黒い花弁の先端。
膝をつき、砕けた腕をもう片方の手で掲げ、血にまみれた顔で尚も天を仰ぐその姿は、神にすべてを捧げる殉教者のようであった。
その手の先にある魔法陣が、彼の代償に、捧げられた意思に、燃え盛る心に呼応するように、かつてないほど激しく脈打った。
ドクン、ドクン、と世界を揺らす心音を立て、禍々しい力は収束し、臨界へと近づく。
砕けた肢体を晒しながらも天へと腕を掲げ続けるニコ。その背に、冥府の王の魂が燃え上がり、赤黒い魔法陣は完成を目前にして狂喜のごとく明滅していた。
下から、それを見上げるショウの喉が、ひくりと震える。
「ニコ……お前はそこまで……」
あれが完成すれば――。
今度こそ確実に死ぬ。ニコもまた、無事では済まない。
技術の不足を、己の肉体そのものを代償にすることで無理やり埋める気だ。指も、腕も、足も、目も。足りない分を、削って、壊して、捧げて。
完成と引き換えに、術者は砕け散る。死にはしないが、生きてもいない。
(止めなきゃ、間に合わねぇ……!)
だが、膝は震え、血は尽きかけ、視界は滲む。光の柱を維持しているだけで、もはや奇跡だった。
そのとき――
『大丈夫』
凛とした、それでも柔らかな声が、耳朶を撫でた。
『私がここにいる』
はっと息を呑む。背後から、そっと抱き締められる感触。
温かい。花の香り。春の陽だまりのような、優しい気配。振り向かずともわかる。
「……マリー」
花の魔女の幻影が、ショウを守るように背から包み込んでいた。
血と焦げの匂いに満ちた戦場で、その影だけが、柔らかい春風のように穏やかに揺蕩う。
幻影は微笑み、やがて輪郭をほどき――無数の光の花弁となって、舞い上がる。
黄金に輝く花弁が、ショウの周囲を祝福するように旋回した。
「…そうか……そうだったな」
胸に叩きつけていた手の力を、ふっと緩める。
ゆっくりと、祈るように目を閉じる。
(借りる……いや、返すぜ、マリー)
鼓動が静まり、世界の騒音が遠のく。ただ、自分の中心だけが、静かに熱を帯びていく。
次の瞬間。
ショウは黄金の瞳を見開いた。そして自らの胸元へと、深く指を差し入れる。肉を裂くのではない。魂を掴む。
ぐ、と。胸の奥から、引き抜く。
光が迸った。柄も鍔もない。
ただ、純粋な光そのものが、剣の形を成している。
白金に輝く刃は揺らぎながらも確固として存在し、周囲には無数の光の花弁が舞っていた。
それは、マリーがニコへ振るった剣と、よく似ていた。
「……終わらせる」
戦場に祈りを捧げる。騎士が誓いをたてるように、剣を顔の前、正中に掲げ、再び目を閉じる。
祈り、願い。赦し。そして、返礼。
応えるように、剣の周囲を舞っていた光の花弁が、流星の群れのように、天へと駆け上った。
花弁は宙で散開し、蝶のようにひらめきながら、幾何学の軌跡を描いていく。
円、多重の円。交差する直線。比率と秩序。
ショウの領域によく似た、しかしどこか柔らかい曲線を帯びた、光の円環が空に象られた。
黄金の紋様が、赤黒い魔法陣と対峙する。
目を開く、血走った視界の先、砕けながらも天を仰ぐニコの姿。
「…何度殺されようと、何度手を払われようと――」
身体を、限界まで絞る。筋繊維が裂け、血管が軋む。
残っている力の一滴まで、掻き集める。
そして――
ショウは、宙に象られた光の花弁の円環、その中心へと。
光の剣を、全身全霊を込めて投げ入れた。
刃は一直線に駆け上がる。空気を裂き、闇を焼き、円環の中心へ到達した、その瞬間。
――閃光。
光輝く花弁が、爆発的に吹き荒れた。
「絶対、諦めねぇ」
爆ぜた光は、数多の花弁となって四散した。
それは拒絶の暴力ではなく、世界を包み込む慈愛の祝福。
無数の光の片が、重苦しい黒い天蓋へと突き刺さる。
――バキン、と。
凍り付いた暗黒が、断末魔のような音を立てて爆ぜた。二枚、三枚、十枚、百枚。止まることのない光の奔流。
それは黒を塗り潰すのではなく、内側から優しく、しかし抗いようのない力で押し広げていく。
ついに、偽りの天蓋は完全に瓦解した。
裂け目から差し込む陽光。眩いばかりの黄金色が、行き場を失った夜を焼き、溶かし、浄化していく。
大地に描かれた赤黒い魔法陣もまた、中心から白く侵食され、崩壊を始めた。
不吉な脈動は止まり、歪な幾何学は意味を失う。呪詛に満ちた紋様は、ただの塵となって空へと還っていった。
漆黒の残滓が舞う中心で、膝をつき、砕けた腕を掲げていたニコは、その光景をただ呆然と見上げていた。
残された片目、その狭い視界を埋め尽くす――あまりに鮮やかな、朝焼け。
光のカーテンの向こう、泥と返り血にまみれながらも、揺るぎなく立つショウのシルエットがあった。
「……そっか……」
血に濡れた口元が、わずかに綻ぶ。
「完敗だ」
乾いた笑いが、静かに零れた。
貫き続けた意志、支払った代償、そして王の魂。己の全てを賭してもなお、届かなかった。
「欲」が「欲」に食い破られ、己が敗北したのだと、魂の底から理解する。
視界が、白銀に染まっていく。
天から降り注ぐ光の花弁が、深い眠りを誘うようにニコの身体を包み込んだ。
それは温かく、柔らかな抱擁。責めるでも、裁くでもなく。
「……はは……」
最後に漏れたのは、安堵にも似た吐息。
(……それでも……俺は……)
次の瞬間、彼の意識は凪いだ海のように静かに途切れた。
――暗闇の世界は、もうどこにもなかった。
禍々しい魔法陣も、冥府の王の残響も、殺意に歪んだ法則も。
広大な青空からは、慈しむような陽光が降り注ぐ。
そこを、ゆらゆらと。はらり、はらりと。
光の花弁が、慈雨のように地上へと舞い落ちる。
一枚が、ひび割れた大地に触れた。
その瞬間、土が産声を上げるように震え、隙間から力強い若芽が顔を出した。
もう一枚。立ち枯れた枝に触れると、そこから新緑の爆発が始まった。
木々は天を目指して枝を伸ばし、葉を繁らせる。蕾は待ちかねたように膨らみ、瞬く間に森を色彩で埋め尽くしていく。
まるで、数百年の冬が一瞬で春へと転じたかのような、生命の蹂躙。
骸となって横たわっていた鹿の骨に、光の花弁が舞い降りた。
白濁した骨に溶け込むように浸透し、内側から淡い光を放つ。
失われた肉が芽吹き、筋肉が走り、脈動が血を送り、毛皮が再生していく。
やがて、閉じていた瞼が震え――。
ぱちり、と。
失われていた「時間」が、瞳の中に灯った。
鹿が立ち上がる。鳥が羽ばたく。小さな獣たちが土を踏みしめ、命を謳歌する。
どす黒く変色していた木に、花に、光が降り積もる。
それは侵食でも、干渉でもなかった。
黒は抗わず、委ねて、受け入れる。沈むように。溶け合うように。
光は静かに吸い込まれ、そこから柔らかな輝きが滲み出した。
漆黒の花は散り、幹は本来の健やかな色を取り戻す。
舞い落ちる漆黒の破片は、光の花弁に導かれるように、穏やかに空へと舞い上がった。
闇と光は争うことをやめ、手を取り合い、一対の蝶のように踊りながら、天の彼方へと消えていく。
森が、深く呼吸を始めた。
生命が溢れ、光が満ち、風は花の香りを乗せて野を駆ける。
空はどこまでも高く、鳥の声が響き、木々がさざめく。
死と闇に塗り潰された荒野は、今、あるべき姿へと回帰した。
光の花弁は、なおも空から降り続けている。
ゆらゆらと。
はらり、はらりと。
まるで、世界そのものが優しく微笑み、すべてを赦しているかのように。




