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黒い木。

幹は異様なまでに太く、表皮は生皮のように湿り、ところどころに脈打つ筋が浮かんでいた。

まるで、それ自体が巨大な生命体であるかのように。

その幹に――

怪物が、いた。

もはや、原型と呼べるものは少ない。

三つあった首のうち、左の首は喉から胸にかけて大穴が穿たれ、内部は焼け焦げ、再生の兆しすら見えない。

右の首は、首元から上が完全に消失している。

骨も、肉も、存在していない。

片翼は根元から裂け、大穴が空き、膜は垂れ下がった皮の残骸と化していた。

右脚は、存在しない。

膝から下が消し飛び、無理に再生しようとした痕跡だけが、歪な肉塊として揺れている。

それでも――

怪物は、生きていた。

残された二本の腕で、黒い木の幹に爪を突き立て、這い上がっている。

血と粘液を垂らしながら、呻き声とも、呼吸音ともつかぬ低い音を漏らしながら。

目指す先は、ただ一つ、黒い木の頂点、そこに咲く、漆黒の花。

右腕、光の槍が最初に掠めた部位。

焦げた肉と砕けた骨が、無理に再生し、脆く歪んだ爪を形成していた。

その爪が――黒い幹に、深く食い込む。

一歩。また一歩、頂点は、近い、あと、数メートル。

だが――

パキリ、と。

乾いた、嫌な音がして、右腕の爪が、根元から折れた。

耐えきれなかったのだ、再生しかけの骨も、焼けた筋肉も、その重さと執念を支えきれず、崩れ落ちる。

怪物の巨体が、宙に投げ出される。

「――!」

音にならない怒りの咆哮を上げ、落下する。

闇へと、真っ逆さまに――

その直前。

黒い木の幹から、異様な動きが生じた。ずるり、と、濡れた音を立てて、枝が伸びる。

いや――

枝ではない、血管のように脈打つ、肉の延長。

それが、落下する怪物の胴を、絡め取った。

ぎしり、と不快な音を立て、怪物の身体が宙で停止する。

折れた右腕が、ぶら下がり、黒い血が滴り落ちる。

枝――否、黒い木の一部が、怪物を抱え込むように包み込み、ゆっくりと、上へと引き上げていく。


頂点へと運ばれた怪物は、やがて枝の拘束を解かれ、

黒い花の咲く足元へ――静かに、降ろされた。

漆黒の花。

幾重にも重なった花弁は、光を拒むように閉じかけており、中心では、闇が脈打っている。

その前に――一人の男が、立っている。

ニコだった。

怪物は、反射的に身を起こそうとする。敵を睨み、最後の力を振り絞るために。

だが――

次の瞬間、巨体は、前のめりに崩れ落ちた。

脚が、ない。

その事実を、ほんの一瞬、忘れていた。

重い音を立てて地に倒れ伏す怪物を、ニコは見下ろす。

その表情には、侮蔑も、嘲笑もない。

「見てたよ」

静かな声だった。

怪物の、残された片目が、わずかに動きニコを見上げる。

ニコの力ではこの怪物を操る事はできない。

あまりにも、存在としての格が違いすぎる

しかし、干渉することで、視界や思考、記憶を、共有することはできた。

冥府の王。

その名を持つ怪物がもたらす闇は、視覚だけではない。

嗅覚も、聴覚も、触覚も、五感のすべてを、等しく黒く塗り潰す。

「……だっていうのに」

ニコは、くつりと笑った。

「あいつさ」

笑みの奥に、信じられないものを見るような色が浮かぶ。

「視覚すら適応し始めてる」

首を振る。

「もう、めちゃくちゃだ」

声には、呆れと、諦観が混じっていた。

だが――

次の瞬間、その表情は、一転する。

笑みが消え、真っ直ぐな黒い瞳が、怪物を射抜いた。

「お前は凄いよ」

嘘や皮肉ではなく、心からの賞賛だった。

「俺や、この森の生命が」

ニコは、足元の黒い幹に、軽く触れる。

「傷一つ、つけられなかったあいつを」

視線を戻す。

「お前は、あそこまで追い詰めたんだ」

怪物は、静かに見つめ返す。怒りも、憎しみもない。ただ、己の終わりを受け入れ、それでも誇りを失わない、王の眼差し。

「お前は、よくやった」

だから――

ニコは、一歩、前に出る。

「後は、俺に任せて」

そう言って、手を差し伸ばした。

「お前にだけ、全部寄越せなんて言わない」

声は低く、揺るがない。

「俺もだ。俺も、全てをかける」

黒い瞳の奥に映る、折れることのない覚悟。

小さく、脆い、弱者、しかしその瞳は、まるで鏡を眺めているかのような。

それを見て、怪物は――

ゆっくりと、巨大な手を持ち上げた。

焼け、砕け、再生に失敗した、歪な手、その指先が、ニコの伸ばした手に、そっと触れる。

次の瞬間。

怪物の身体が、崩れた。肉が溶け、骨が崩れ、闇が液体のように流れ出す。

どろどろと、音もなく。それは、侵食ではなく委譲。

王が王座を譲るように、意思と命が流れ込む。

黒い闇が、腕を、胸を、全身を覆う。冷たいはずのそれは、奇妙なほど穏やかだった。

ニコは目を閉じる。

個としての輪郭が溶け、境界が曖昧になり、魂と魂が、重なり合う。


やがて――闇は収束した。


そこに立っているのは、一人のニコ。

彼は、静かに胸に手を当てた。ドクン、ドクンと、奥で、鼓動が二重に鳴っている。

重く、深く、冥府の底から響くような心音。

(……一緒にいこう、ハデス)

ハデス。それが怪物の、王の名前。

(……一緒に、あいつ(正義)を――)

黄金の瞳を思い浮かべる。

(ぶっ殺してやろう)


黒い花が、ゆっくりと、完全に開いた。


黒い木の外縁。

崩れかけた領域の中で、ショウはそれを見上げていた。

「……っ!」

視線の先、黒い幹の頂点へ急ぎ飛ぼうとする。

(…間に合え!)

意思と同時に光が応え、領域の内側で編まれた輝きが、収束し――

「行けッ……!」

光の槍が放たれようとした、その刹那。

――噴き上がった。

黒い花の中心から、赤黒い“血”が。

噴水のように、天へと吹き上がり、宙で弾け、拡がり、

やがて――形を成す。

それは、円、重なり合う線。配置も、比率も、構造も。

ショウの“領域”によく似ていた。

だが、決定的に違う。光ではない。赤黒く、禍々しく、

生き物のように脈動する、まるで、生きた臓腑で編まれた巨大な魔法陣。

それが――発光した。

次の瞬間、

ショウの領域が、音もなく、掻き消えた。

「――っ!?」

世界が裏返り、重力が落ちてくる。

上からではない、前後左右、あらゆる方向から。

逃げ場はなく、即座に叩きつけられた。

ショウの身体が地面へと縫い止められ、肺から空気が強制的に吐き出される。

「がっ……!」

内部で、軋む音がした。骨が、臓器が、血管が。

さらに――熱。

体温が、常識を裏切る速度で上昇していき、血が沸騰する。水分が泡立ち、喉が焼け、視界が揺らぐ。

「――ぐ、ぁ……っ」

吐血、鮮赤が土を濡らす。

腕が上がらない、脚が動かない。

全身に、見えない天蓋が押し潰している。

今やニコの干渉は生命ではなく、世界そのものにまで及んでいた。

重力。熱。

本来、意思を持たぬはずの法則が、暴力として語りかけてくる。

――死ね、と。

何度も立とうとするが、その度に圧が増し、押し返される。

叩き伏せられるたび、筋肉が裂け、骨に亀裂が走る。

力を込めるたび、血が煮え、臓器が焦げ、脳が煮立つ。

瞳の奥が灼け、視界の端から、血の涙が零れ落ちた。

立てない。立ち上がれない。

「……くそ……」

地に指を食い込ませ、土を抉り、石を掻き毟る。

それでも――身体は一ミリも上がらない。

脳裏をよぎる、千切れた記憶の断片。

見慣れた空。安っぽいハンバーガーの味。踏切の警報音。無機質なコンクリート。拳についた誰かの血。


そして――泣き叫ぶ、“あいつ”。


殺意と暴力に満ちた世界の只中で、その情景だけが、やけに鮮明だった。

(……ごめんな)

胸の奥で、言葉が滲み、今の無力と、あの日の記憶が、重なる。

視界が暗転し、意識が、遠のきかけた――

その時。


『――立ちなさい』


背後から、凛とした女の声。

何度も、何度も。

この言葉を、死の縁で聞かされてきた。


――焦げた脂の匂い。

――甘い花の香り。

朝の森。

腹が鳴って、横であいつが同じように腹を押さえていた気がする。

『何度見ても、とんでもないな……万能かよ……』

呆れた声。

隣から返る、少し乾いた笑い。

『だね……記憶がないとはいえ……これは流石に異常だと思う……』

視界の端で、赤い花が回る、炎を孕みながら、燃えない花弁。

『おはよう。朝食を作るから、そこで待っていて』

穏やかな声。

だが、その直後――

地面が爆ぜる。内臓を直接殴られるような衝撃に、息が詰まり、世界が裏返る。

『立ちなさい』

淡々と、慈悲も、躊躇もなく、折れた骨が花に絡め取られ、“正しい形”に戻される感覚。

『治療よ。痛いのは当然でしょう?』

――そうだ。

ここまで来たのは、あの女に、何度も殺されかけたからだ。

『死にかけるだけよ。死ぬわけじゃないわ』


(……そうだったな)

現実が、引き戻される。焼け付く熱、潰れそうな臓器、

血の味。

それでも――

この感覚を、ショウは知っている。

死の淵でしか、掴めない“流れ”。


「……あんたは……」


掠れた声が、漏れる。

記憶の中で、あの女が指を鳴らし、根が跳ね、炎が走り、水が叩きつけられる。

『感じなさい』

鮮明な声。

『魔法は外から来るものじゃない。世界に満ちている命の流れに、自分を重ねるの』

(……わかってる)

ショウは、歯を食いしばる。

(死ぬほど……教え込まれた)

隣で誰かが立ち上がる気配、震える足、それでも前に出る背中。置いていかれたくない、そう思った。

――大丈夫。死にかけているだけ、死んでない。あの時と同じだ。


「……相変わらず…」


ショウは、重圧に逆らい、震える腕を前に出す。


「スパルタだな――ッ!」


這うように伸ばした掌を、地面へ叩きつけた瞬間、その一点から、光が迸る。

地を裂くように、線が伸び、交わり、意味を持つ。

――見える。――繋がる。――照らされる。

消されたはずの輝きが、再び息を吹き返す。

ショウを中心に、光が、広がっていく。

それはかつて、何度も死にかけながら掴んだ感覚。


ーー後は身体だけ


歯を食いしばり、ショウは膝に、力を込めた。

震えて、折れそうになるが、それでも、止めない。

血が滴り、地面に落ちた赤が、光に照らされて滲む。

(……立て)

誰に言うでもなく、自分自身に命じる。

膝が伸びる。腰が、持ち上がる。世界が、ほんの少しだけ――高くなる。

足は不安定で息は荒く、視界も揺れている。

それでも、ショウは、立った。

重力はなおも押し潰さんとし、上昇する体温は血液を今にも噴き出そうとする。

だが、倒れていない。

(……まだ、やれる)

光が、それに応えるように、激しく脈打った。


『……ほら』


どこかで、女の声がした気がした。


『立てるじゃない』


顔は見えない。

だが――その声は、確かに誇らしげだった。

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