17
黒い木。
幹は異様なまでに太く、表皮は生皮のように湿り、ところどころに脈打つ筋が浮かんでいた。
まるで、それ自体が巨大な生命体であるかのように。
その幹に――
怪物が、いた。
もはや、原型と呼べるものは少ない。
三つあった首のうち、左の首は喉から胸にかけて大穴が穿たれ、内部は焼け焦げ、再生の兆しすら見えない。
右の首は、首元から上が完全に消失している。
骨も、肉も、存在していない。
片翼は根元から裂け、大穴が空き、膜は垂れ下がった皮の残骸と化していた。
右脚は、存在しない。
膝から下が消し飛び、無理に再生しようとした痕跡だけが、歪な肉塊として揺れている。
それでも――
怪物は、生きていた。
残された二本の腕で、黒い木の幹に爪を突き立て、這い上がっている。
血と粘液を垂らしながら、呻き声とも、呼吸音ともつかぬ低い音を漏らしながら。
目指す先は、ただ一つ、黒い木の頂点、そこに咲く、漆黒の花。
右腕、光の槍が最初に掠めた部位。
焦げた肉と砕けた骨が、無理に再生し、脆く歪んだ爪を形成していた。
その爪が――黒い幹に、深く食い込む。
一歩。また一歩、頂点は、近い、あと、数メートル。
だが――
パキリ、と。
乾いた、嫌な音がして、右腕の爪が、根元から折れた。
耐えきれなかったのだ、再生しかけの骨も、焼けた筋肉も、その重さと執念を支えきれず、崩れ落ちる。
怪物の巨体が、宙に投げ出される。
「――!」
音にならない怒りの咆哮を上げ、落下する。
闇へと、真っ逆さまに――
その直前。
黒い木の幹から、異様な動きが生じた。ずるり、と、濡れた音を立てて、枝が伸びる。
いや――
枝ではない、血管のように脈打つ、肉の延長。
それが、落下する怪物の胴を、絡め取った。
ぎしり、と不快な音を立て、怪物の身体が宙で停止する。
折れた右腕が、ぶら下がり、黒い血が滴り落ちる。
枝――否、黒い木の一部が、怪物を抱え込むように包み込み、ゆっくりと、上へと引き上げていく。
頂点へと運ばれた怪物は、やがて枝の拘束を解かれ、
黒い花の咲く足元へ――静かに、降ろされた。
漆黒の花。
幾重にも重なった花弁は、光を拒むように閉じかけており、中心では、闇が脈打っている。
その前に――一人の男が、立っている。
ニコだった。
怪物は、反射的に身を起こそうとする。敵を睨み、最後の力を振り絞るために。
だが――
次の瞬間、巨体は、前のめりに崩れ落ちた。
脚が、ない。
その事実を、ほんの一瞬、忘れていた。
重い音を立てて地に倒れ伏す怪物を、ニコは見下ろす。
その表情には、侮蔑も、嘲笑もない。
「見てたよ」
静かな声だった。
怪物の、残された片目が、わずかに動きニコを見上げる。
ニコの力ではこの怪物を操る事はできない。
あまりにも、存在としての格が違いすぎる
しかし、干渉することで、視界や思考、記憶を、共有することはできた。
冥府の王。
その名を持つ怪物がもたらす闇は、視覚だけではない。
嗅覚も、聴覚も、触覚も、五感のすべてを、等しく黒く塗り潰す。
「……だっていうのに」
ニコは、くつりと笑った。
「あいつさ」
笑みの奥に、信じられないものを見るような色が浮かぶ。
「視覚すら適応し始めてる」
首を振る。
「もう、めちゃくちゃだ」
声には、呆れと、諦観が混じっていた。
だが――
次の瞬間、その表情は、一転する。
笑みが消え、真っ直ぐな黒い瞳が、怪物を射抜いた。
「お前は凄いよ」
嘘や皮肉ではなく、心からの賞賛だった。
「俺や、この森の生命が」
ニコは、足元の黒い幹に、軽く触れる。
「傷一つ、つけられなかったあいつを」
視線を戻す。
「お前は、あそこまで追い詰めたんだ」
怪物は、静かに見つめ返す。怒りも、憎しみもない。ただ、己の終わりを受け入れ、それでも誇りを失わない、王の眼差し。
「お前は、よくやった」
だから――
ニコは、一歩、前に出る。
「後は、俺に任せて」
そう言って、手を差し伸ばした。
「お前にだけ、全部寄越せなんて言わない」
声は低く、揺るがない。
「俺もだ。俺も、全てをかける」
黒い瞳の奥に映る、折れることのない覚悟。
小さく、脆い、弱者、しかしその瞳は、まるで鏡を眺めているかのような。
それを見て、怪物は――
ゆっくりと、巨大な手を持ち上げた。
焼け、砕け、再生に失敗した、歪な手、その指先が、ニコの伸ばした手に、そっと触れる。
次の瞬間。
怪物の身体が、崩れた。肉が溶け、骨が崩れ、闇が液体のように流れ出す。
どろどろと、音もなく。それは、侵食ではなく委譲。
王が王座を譲るように、意思と命が流れ込む。
黒い闇が、腕を、胸を、全身を覆う。冷たいはずのそれは、奇妙なほど穏やかだった。
ニコは目を閉じる。
個としての輪郭が溶け、境界が曖昧になり、魂と魂が、重なり合う。
やがて――闇は収束した。
そこに立っているのは、一人のニコ。
彼は、静かに胸に手を当てた。ドクン、ドクンと、奥で、鼓動が二重に鳴っている。
重く、深く、冥府の底から響くような心音。
(……一緒にいこう、ハデス)
ハデス。それが怪物の、王の名前。
(……一緒に、あいつを――)
黄金の瞳を思い浮かべる。
(ぶっ殺してやろう)
黒い花が、ゆっくりと、完全に開いた。
黒い木の外縁。
崩れかけた領域の中で、ショウはそれを見上げていた。
「……っ!」
視線の先、黒い幹の頂点へ急ぎ飛ぼうとする。
(…間に合え!)
意思と同時に光が応え、領域の内側で編まれた輝きが、収束し――
「行けッ……!」
光の槍が放たれようとした、その刹那。
――噴き上がった。
黒い花の中心から、赤黒い“血”が。
噴水のように、天へと吹き上がり、宙で弾け、拡がり、
やがて――形を成す。
それは、円、重なり合う線。配置も、比率も、構造も。
ショウの“領域”によく似ていた。
だが、決定的に違う。光ではない。赤黒く、禍々しく、
生き物のように脈動する、まるで、生きた臓腑で編まれた巨大な魔法陣。
それが――発光した。
次の瞬間、
ショウの領域が、音もなく、掻き消えた。
「――っ!?」
世界が裏返り、重力が落ちてくる。
上からではない、前後左右、あらゆる方向から。
逃げ場はなく、即座に叩きつけられた。
ショウの身体が地面へと縫い止められ、肺から空気が強制的に吐き出される。
「がっ……!」
内部で、軋む音がした。骨が、臓器が、血管が。
さらに――熱。
体温が、常識を裏切る速度で上昇していき、血が沸騰する。水分が泡立ち、喉が焼け、視界が揺らぐ。
「――ぐ、ぁ……っ」
吐血、鮮赤が土を濡らす。
腕が上がらない、脚が動かない。
全身に、見えない天蓋が押し潰している。
今やニコの干渉は生命ではなく、世界そのものにまで及んでいた。
重力。熱。
本来、意思を持たぬはずの法則が、暴力として語りかけてくる。
――死ね、と。
何度も立とうとするが、その度に圧が増し、押し返される。
叩き伏せられるたび、筋肉が裂け、骨に亀裂が走る。
力を込めるたび、血が煮え、臓器が焦げ、脳が煮立つ。
瞳の奥が灼け、視界の端から、血の涙が零れ落ちた。
立てない。立ち上がれない。
「……くそ……」
地に指を食い込ませ、土を抉り、石を掻き毟る。
それでも――身体は一ミリも上がらない。
脳裏をよぎる、千切れた記憶の断片。
見慣れた空。安っぽいハンバーガーの味。踏切の警報音。無機質なコンクリート。拳についた誰かの血。
そして――泣き叫ぶ、“あいつ”。
殺意と暴力に満ちた世界の只中で、その情景だけが、やけに鮮明だった。
(……ごめんな)
胸の奥で、言葉が滲み、今の無力と、あの日の記憶が、重なる。
視界が暗転し、意識が、遠のきかけた――
その時。
『――立ちなさい』
背後から、凛とした女の声。
何度も、何度も。
この言葉を、死の縁で聞かされてきた。
――焦げた脂の匂い。
――甘い花の香り。
朝の森。
腹が鳴って、横であいつが同じように腹を押さえていた気がする。
『何度見ても、とんでもないな……万能かよ……』
呆れた声。
隣から返る、少し乾いた笑い。
『だね……記憶がないとはいえ……これは流石に異常だと思う……』
視界の端で、赤い花が回る、炎を孕みながら、燃えない花弁。
『おはよう。朝食を作るから、そこで待っていて』
穏やかな声。
だが、その直後――
地面が爆ぜる。内臓を直接殴られるような衝撃に、息が詰まり、世界が裏返る。
『立ちなさい』
淡々と、慈悲も、躊躇もなく、折れた骨が花に絡め取られ、“正しい形”に戻される感覚。
『治療よ。痛いのは当然でしょう?』
――そうだ。
ここまで来たのは、あの女に、何度も殺されかけたからだ。
『死にかけるだけよ。死ぬわけじゃないわ』
(……そうだったな)
現実が、引き戻される。焼け付く熱、潰れそうな臓器、
血の味。
それでも――
この感覚を、ショウは知っている。
死の淵でしか、掴めない“流れ”。
「……あんたは……」
掠れた声が、漏れる。
記憶の中で、あの女が指を鳴らし、根が跳ね、炎が走り、水が叩きつけられる。
『感じなさい』
鮮明な声。
『魔法は外から来るものじゃない。世界に満ちている命の流れに、自分を重ねるの』
(……わかってる)
ショウは、歯を食いしばる。
(死ぬほど……教え込まれた)
隣で誰かが立ち上がる気配、震える足、それでも前に出る背中。置いていかれたくない、そう思った。
――大丈夫。死にかけているだけ、死んでない。あの時と同じだ。
「……相変わらず…」
ショウは、重圧に逆らい、震える腕を前に出す。
「スパルタだな――ッ!」
這うように伸ばした掌を、地面へ叩きつけた瞬間、その一点から、光が迸る。
地を裂くように、線が伸び、交わり、意味を持つ。
――見える。――繋がる。――照らされる。
消されたはずの輝きが、再び息を吹き返す。
ショウを中心に、光が、広がっていく。
それはかつて、何度も死にかけながら掴んだ感覚。
ーー後は身体だけ
歯を食いしばり、ショウは膝に、力を込めた。
震えて、折れそうになるが、それでも、止めない。
血が滴り、地面に落ちた赤が、光に照らされて滲む。
(……立て)
誰に言うでもなく、自分自身に命じる。
膝が伸びる。腰が、持ち上がる。世界が、ほんの少しだけ――高くなる。
足は不安定で息は荒く、視界も揺れている。
それでも、ショウは、立った。
重力はなおも押し潰さんとし、上昇する体温は血液を今にも噴き出そうとする。
だが、倒れていない。
(……まだ、やれる)
光が、それに応えるように、激しく脈打った。
『……ほら』
どこかで、女の声がした気がした。
『立てるじゃない』
顔は見えない。
だが――その声は、確かに誇らしげだった。




