16
怪物の動きが、止んだ。
闇の圧が抜けたように、気配が希薄となる。
(……気づかれたか)
逆さに宙へ立ったまま、ショウは舌の奥でそう呟いた。
あの距離で、この暗闇で、槍を怪物に当てた。
狙ったのは“姿”ではない。闇が収束する、その瞬間の歪みだ。
それを恐らくは気取られた。――そこまでは、いい。
(……にしても、動きがなさすぎる)
待てども、待てども、来ない。
気配は薄れたまま、攻撃の予兆すらない。
まるで、世界そのものから息を潜めているかのようだった。
黄金の瞳が、ゆっくりと瞬く。
内側から溢れていた光は、今や抑え込まれ、代わりに“捉える”ための鋭さを増していく。
闇の粒子。空気の歪み。黒の中の黒が陰となり、ほんの僅かな濃淡の差が、形として浮かび上がり始める。
それでも、まだ完璧じゃない。
輪郭は滲み、距離は曖昧だ。
解像度は上がっている。確実に。
それでも全てを見通すには、まだ足りない。
ショウは、視線を動かした。
怪物ではなく、戦場の“外縁”、少し離れた場所。
暗闇の奥に、巨大な影が、確かに“在る”。
黒い木。
夜を凝縮し闇を立ち上げたかのような、異様な巨木。
天へと伸びる幹の頂点には、毒々しいほどに歪な――巨大な黒い花が咲いている。
今のショウの目では、輪郭は霞む。
だが、見える。
この暗闇の中でも、確かに視認できる。
(……まだ、立ってるか)
戦闘の余波は、確実にそこへ及んでいた。
幹の表面には、裂け目や抉れた痕が幾つも走り、焼け焦げたような傷も残っている。
その傷跡の一つに、幹を貫通するほどの、大きな穴があった。
――だが。
その穴の内側から、細い根が、ぞろりと蠢いた。
一本、また一本。
無数の細根が絡み合い、縫い合わされるように集束していく。
やがてそれは、再び“幹”となり――空いていた穴を、完全に塞いだ。
(……あれはあれでダルそうだ…)
ショウは、短く溜息を吐く。
巨大な黒い木。頂点の毒々しい花。
あれが“良くないもの”であることは、考えるまでもない。
だが今は優先順位が違う。
(集中しろ。まずは怪物だ)
意識を引き戻す、闇へ溶けた気配へと。
いつ、どこから来るか分からない一撃に備え、全神経を張り詰めようとした、その時。
ーー違和感。
胸の奥に、微かな引っ掛かりが生まれる。
理屈ではない。戦場で何度も命を拾ってきた、嫌な“感覚”。
(……待て)
ショウは、思考をほんの少しだけ――巻き戻した。
黒い木、穴が空いていた。それを、細い根が絡み合い、塞いだ。
再生。補填。
失われた部位を、無かったことにする動き。
(……再生能力)
思考が、自然と次へ進む。
自分は、確かに見た。
闇の中でも、はっきりと確認できた。
光の槍を二本投げ、そのうち一本が――怪物の左の首を、貫いた。
喉元を穿ち、黒い血を噴き上げさせた。
あの瞬間、光は消えていない。
闇に呑まれず、槍自身が周囲を照らしていた。
だから断言できる。確実に、穴は空いていた。
(……もし)
脳裏に、黒い木の映像が重なる。
穴。根。塞がれる幹。
(もし、あれと同じことが――)
怪物の首、貫通した喉、それもまた再生して、塞がれたとしたら。
ショウの背筋を、冷たいものが這った。
(……予想通りなら、待ちは悪手だ)
ショウは、即座に結論を出した。
もしあの怪物が再生するのだとしたら、動きのないこの状況にも納得がいく。
ーーだとしたら
時間を与えれば与えるほど、不利になる。
ならば動くと、ショウは、逆さに宙へ立ったまま片腕を振った。
暗闇に包まれた宙へ、下方から一本の光の槍が射出された。
一直線に駆け上がり、何もないはずの空間へ突き刺さる。
ドン、と低い音。
そこを起点に、光が走る。
線が広がり、円を描き、領域が形成されていく。
直径、およそ五メートル。
ーーこれまでなら、それで完成していた。
だが今回の領域はそこで止まらない。
速度こそ緩やかだが、確実に外縁が、じわじわと押し広げられていく。
六メートル。七。八。
輝きこそ弱々しいものの、光は消える事なく広がり続ける。
まるで、暗黒の空間そのものを侵食するように、規模だけが増大していく。
それを――
ある場所から、怪物が見上げていた。
闇に沈み、輪郭を殺し、息を殺し、気配を殺し。
三つの首のうち、傷を負った左は、未だ完全には再生していない。しかしその傷は徐々に、確かに癒えている。
このまま全快するまで、待ちに徹していればいい。そう考えていた。
ーーだが
暗闇の宙で今も規模を拡大し続ける領域へと目をやる。
人間があれ程の余力を残していたのは想定外だった。
このまま放置すれば――何が起こるか分からない。
判断は、早かった。
再生は不完全。それでも、二つの首が同時に大きく開く。
喉奥へと、闇が収束する。
黒の奔流。
次の瞬間、二本の濁流が宙を裂き、拡大を続ける領域へ叩きつけられた。
衝突。光が、悲鳴を上げるように歪む。
だが今回は今までと様子が違った。
砕け散ることはない、光の粒子へ分解されることもない。
領域は、残滓すら残さず――すっと、消滅した。
再び、完全な暗闇になったのも束の間。
暗黒の中に光が走り、新たな領域が描き出される
――そこに、いた。
宙で二本の光の槍を、引き絞り、構えたまま。
ショウは、黄金の瞳で怪物を見下ろし――
口の端を、僅かに吊り上げた。
「ハッタリだよ、バカ野郎」
ーー誘き出された。
その事実を悟った瞬間、怪物は即応した。
輪郭が闇に溶け、存在感が削ぎ落とされ、完全に“消える”。
距離があったこともあり、ショウは再びその姿を見失う。
黄金の瞳が、静かに細まった。
(……いいぜ)
完璧な視認は、まだ出来ない。
(……構わねぇ)
それでも
(大体の“場所”は、掴んだ)
闇の流れ、気配の逃げ道、先ほどまで怪物が立っていた、不自然な“空白”。
(……終わらせる)
身体に、魔法に、これまで以上の力を叩き込む。
肺が軋み、視界の縁が白く滲む。
それに応えるように、領域の光が強く輝きを増した。
最初に――
手にしていた二本の光の槍を、怪物がいた“その方角”へ、躊躇なく投げ放つ。
二本の槍は空を切り、暗闇を裂き、宙へと、深く突き刺さった。
ドス。ドス。
次の瞬間。
二つの起点から、光が走り出し幾何学模様を描き出す。
光の円環、二つの領域が、宙に展開される。
だが、これまでとは向きが違う。地面に伏せる円ではない。
ショウへ向けて、縦に立ち上がる“壁”のように、紋様が輝いた。
次の動作は、ほぼ同時。
ショウは足を強く踏み鳴らす。
衝撃が伝わるより早く、両手に光が収束した。
新たに形成される、二本の光の槍。
それらを間髪入れず、闇に投げる。
続く二本は、それぞれ別々に、先ほど展開された領域の中心を正確に貫いた。
境界を越えた、その瞬間――
一本が、二本へ。光の槍が増える。計、四本。
バリバリ、と空気を焼き裂く音を立て、一気に加速する。
四本の槍は、そのまま宙へ突き刺さり――
今度は、それぞれが“起点”となった。
新たな領域が別々に、独立して展開される。
瞬く間に、宙には合計――六つの領域。
光の円環が闇の中に浮かぶ。逃げ道を削り取る、檻のように。
ショウは、再び――
二本の槍を作り出す。
肩で息をしながら、それでも強く足を踏み込み、腰を回し、肩を引き絞り、力を限界まで溜める。
ーーそして、解き放つ。
「――――いっけぇぇえええッ!!!」
叫び、全力で投げ放つ。
凄まじい威力で放たれた二本の槍は、領域を通過した瞬間に四本に増え、バリバリッ、と音を立て、さらに加速する。
そしてそれらは勢いを増し次の領域へ。
分裂。加速。また、次。
また、分裂。また、加速。
それが五回、繰り返された。
闇を裂き、輝きを放つ光の槍。
分裂と加速を繰り返し、最終的にその数はーー六十四。
一本一本は、正確無比な狙いとは言えない。
闇の中を無作為に突き進むそれは、必中とはほど遠い。
だが数が、理屈を叩き潰す。
逃げる怪物の背へ、光が降り注ぐ。
背を向け、闇を割るように疾走する巨大な影は、背後から迫る無数の光に照らされ、その影を、長く、歪に、地へと引き延ばしていた。
最初に、怪物を捉えた一撃は――
右の腕。
直撃ではない。
だが、掠めるように走った一本が、爪先を焼き切った。
黒い肉が焦げ、一本の爪が、音もなく崩れ落ちる。
すぐに次が来る。
左の首。
光の槍が喉元へと突き刺さり、再生しかけていたその部位に、再び穴を穿つ。
後方からの衝撃に、怪物は前へと体勢を崩した。
巨体が宙を舞い、地面を転がりながら吹き飛ばされる。
土と闇が、巻き上がった。
それでも――
怪物は、立ち上がる。
本能に近い執念で、無理やり体勢を立て直し、脚へと力を込めた、その瞬間。
右脚。
光が膝を穿ち、根元から吹き飛ばす。
身体を支えていた脚が消し飛び、岩を砕きながら、巨体が再び転がった。
今度こそ、と。
怪物は翼を大きく広げ、闇へ逃げるために跳び上がろうとする。
――だが。
片翼。
広げきる前に、一本が突き刺さり、膜を裂き骨を貫通する。
翼は役目を果たせず、怪物は、再び地へと叩き落とされた。
もはや、走ることも、飛ぶことも叶わない。
両腕を地へ突き、這うように、必死に距離を取ろうとする。
這い、赤子の様に地面に手をつき、ひたすら逃げる。
ただ、生き延びるためだけに。
そして――
右の首が、背後を確かめようと、僅かに振り向く。
その瞳に映った眩い輝きに、目を瞑る間もなく。
右の顔面。
そこに光の槍が、一直線に突き刺さった。
ーーーーー
光が静かに失われていく。
宙に浮かんでいた六つの領域は役目を終え、輪郭から崩れ、ほどけるように光の粒子となり、やがて闇へ溶けた。
その中心。
消えゆく領域の中で、ショウは槍を投げ終えた姿勢のまま、微動だにせず立ち尽くしていた。
肩で、荒く息をする。
胸の奥が焼けるように痛み、視界の端は、まだ白く瞬いている。
光の槍の雨、それに照らされていた戦場が、再び闇へ沈んでいく。
(……少なくとも二本。……二本は、当たった)
首、そして、翼。命中は確かに確認している。
だが――
(……まだ、だ)
殺しきったという確信はない。あの怪物は再生する。
それを先ほどの一連で、身をもって理解した。
ショウは、ゆっくりと――
槍を投げた地点へと歩み出た。
地面に降り立ち、周囲を見渡す。光が消え、闇が支配する中でも、黄金の瞳は確かに“痕跡”を拾い上げる。
焼け焦げた地面、抉れた岩。槍が突き刺さり消えた跡。
そして――
黒い血が数カ所、地面に飛び散り、乾きかけたそれを、はっきりと捉える。
そのうちの一箇所、量が明らかに多い。
そこから――
血が、引きずられたように伸びていた。
地に延びる一本の黒い線。
視線を辿る、闇の奥へ、戦場の外縁へ。――巨大な、黒い木の方へ。
怪物の血は、確かにそこへと続いていた。
「……今行くぜ、ニコ」




