15
再び怪物との距離が開き、気配が、すっと薄まり、消えた。
「……めんどくせぇ野郎だ」
ショウは舌打ち混じりに吐き捨てる。
姿を消す。位置を悟らせない。
好きな場所、好きなタイミングで攻撃できる――その戦法が、理に適っているのは認めざるを得なかった。
こちらは、待つしかない。防ぐしかない。選択肢がない。
闇の底。何もないはずの空間が、歪む。
浮かび上がったのは、濃縮された夜そのもののような黒。
次の瞬間――怪物の三つの首が、同時に口を開いた。
吐き出される、黒い玉が三つ。
それぞれが上下左右でたらめな軌道を描き、ショウへと迫る。
暗闇の中、本来なら、視認することさえ不可能な速度と軌跡。
(見える)
ショウは、気づいていた。
少しずつ。ほんの僅かずつだが、見えてきている。
彼の目が、ほんの少しだけ、内側から溢れ出した光に照らされる。
まるで、内にある光が、外界へと滲み出したかのような黄金の瞳。
宙に立つショウへ、上・右・下。
三方向から黒い玉が迫る。
ショウは即座に、光の壁を展開する。衝突。
衝撃を受け止め、角度を変え、流し、処理する。
(……来るならここだろ)
その後の怪物の動きを即座に予測し、身構え、周囲を注意深く見渡す。
その直後、反応が僅かに遅れた。
怪物がいたのは、予想の外である真下。
宙に浮かぶショウの足元、そこに、闇が裂け、三本の首が大口を開けていた。
同時に放たれる――黒の奔流。
それは、今までの攻撃とは明らかに一線を画していた。
密度、圧力、質量。すべてが段違い。
怪物自身でさえ、その反動に耐えきれず、地面へ沈み込むほどの出力。翼と両腕を大きく広げ首からの反動を少しでも和らげようとする。
三本の黒い線は、中央の一本を軸に捻れ合い、絡み合いながら、大きな破壊の意思となって一直線に宙を貫く。
足元から迫りくるそれを確認すると、ショウは両腕を上段に構えた。
その手に、光の剣が生成され、一気に、足元へ――振り下ろす。
応えるように、領域が光を放ち、光は柱となり、天と地を貫く。
だがーー
拮抗は、ほんの一瞬だった。
黒の奔流は、光を呑み、押し潰し、
光の柱は、次第に歪み、細り――そして、完全に押し負けた。
上下の感覚さえ失われるほどの暗闇。
ショウは――落ちていた。
どこへ、という意識すら曖昧なまま、重力だけが確かな手応えとして身体を引きずり下ろす。
直撃だけは避けたが、魔法の代償はあまりにも重い。
肺が悲鳴を上げ、視界の奥で光が瞬く。限界が、近い。
それを、否応なく悟らされる。
背中から、地面へ叩きつけられ、思考が中断した。
衝撃が全身を貫き、骨が鳴る。声にすらならない痛み。
しかし休む間もなくーー
来る
その直感が、思考より先に首を僅かに右へ傾けさせた。
直後、彼の頭があったはずの場所を、怪物の爪が深く抉る。岩と土が砕け散り抉れ、闇に飲み込まれる。
ショウは、反射的に跳ね起きた。
次々と連続で振るわれる腕、容赦のない連撃、その一つ一つ、どれもが当たれば致命傷へとなり得る。
紙一重。
本当に、紙一枚分だけの差で、ショウはそれらを躱していく。
領域はない、世界は、完全な暗闇だ。
――それでも。
(…見える)
この距離なら。はっきりと。
ショウが身を翻すたび、暗闇の中で黄金の瞳が光の軌跡を描く。
しかし状況は悪い。――あまりにも距離が、近すぎる。
領域を構築しても、怪物がその内側にいたら意味がない。
壊れた領域の残滓を、手で手繰り寄せようとした瞬間。
怪物の狙いが、即座に変わる。
――腕。
両腕を中心に、執拗な攻撃。
(…俺のやりたい事を理解してやがる)
こちらの意図を把握し、妨害している。
一歩、下がり、かわす。
同時に――
足のつま先で、トンと地面を軽く叩いた。次の瞬間。
地面に、空き缶程度の大きさで光の楔が立つ。
それを見て、怪物が悟る。何かをする、と。
即座に追撃。だが、ショウは動じない。
地面に突き立った光の楔を、後ろ足の踵で折り――
そのまま、蹴り飛ばした。
楔は回転しながら、勢いよく後方上空へ飛び、何もない暗黒の虚空へ。
ドス、と鈍い音を立てて突き刺さる。
瞬間。
そこを起点に、光が走り、円環を型取り、領域を形成した。
怪物の攻撃が、空を切る。
ショウは、既にそこにいない。
少し離れた場所。
水平ではなく、斜めに構築された領域の中。
天と地を逆にしたかのように――顔を地に向け、足を天へ向け。
ショウは、逆さに宙に立っていた。
機を逃した――
そう判断したのだろう。
怪物の気配が、すっと闇に溶けていく。
(…離れやがった)
距離を取られ再び、あの位置取りとなる。
ショウから離れた場所で、三つの首が揃って大口を開いた。
喉元へと、闇が収束していく。
濃縮され、圧縮され、次の破壊を待つ“黒”。
だが――
「視えてんだよッ!!」
裂帛の声が、闇を打ち破る。
逆さに宙へ立つショウ。
その両腕に、瞬時に光が集束し形成される、二本の光の槍。
躊躇はない。狙いもぶれない。
投げ放たれた光の槍は、領域の外縁へと触れ、突き出た瞬間――
稲妻を走らせる。
空間が弾かれ、一気に加速。
常識的な速度域を踏み越え、光は一直線に怪物へと向かう。
この暗闇で、この距離で、自らが的にされる。その発想が、怪物にはなかったのだろう。
慌てて翼を返し、右の首に迫る一本を弾く。衝撃が、闇を震わせる。
だが投擲された槍は二本。
大口を開け、闇を溜め込んでいた左の首へ、光の槍は躊躇なく突き刺さり――そのまま、貫通した。
黒い血が噴き出し、刺された勢いのまま、怪物はバランスを失い、宙で巨大な身体が翻り、回転し、吹き飛んだ。
吹き飛ばされた怪物は、闇の中で幾度か宙を転がり――
やがて、重い衝撃音とともに体勢を立て直した。
三つの首が、ゆっくりと周囲を見渡す。
怪物は、思考し、計算し、結論へ辿り着く。
人間は、自分の姿をあの距離で完全に捉えたわけではない。
見えているのは自らが攻撃のために生成する、“闇の動き”。
黒が収束する瞬間。奔流となる、その直前の歪み。人間が見ているのはそれだ。
その証拠とばかりに、今、この場所には追撃が飛んでこない。
もし姿が見えているのならば、攻撃の手を緩める必要はない。
怪物は、低く静かに息を潜めながら、思考を続ける。
ならば、と
巨体が、音もなく闇へと沈む。輪郭が溶け、存在感が薄れ、完全に“隠れる”。
今は回復を優先する、と判断した。
貫かれた左の首、その喉元には、未だ大穴が空いたままだった。
だが、その傷の縁から音を立てて黒い煙が立ち上る。
肉が、蠢き、影が、絡み合う。
ゆっくりと。だが、確実に。
裂けた喉は徐々に塞がれ、欠けた組織は再構築されていく。
己には再生能力があり、人間は力を使い疲弊している。
怪物は、自分が今何をすべきかを
ーー的確に
理解していた。




