13
「……いやだね」
その手を、振り払った。
一瞬、指先が触れ合い――そして、離れる。
ショウはその場で立ち尽くし、差し出したままの手を悔しそうに眺めた。
「……まだ……」
唇が、わずかに震える。
「……届かねぇ、か」
顔が歪む。
悲しみを噛み殺すように、眉が寄り、視線が落ちた――その瞬間。
ぞくり、と。
背骨を撫で上げるような悪寒が、森全体から立ち上った。
ショウは弾かれたように顔を上げ、周囲を見渡す。
「……何だ、これ……」
空気が、冷たい。いや――冷たいのではない。
死んでいる。
森が、急速に色を失っていく。
干渉を逃れていたはずの木々が、内側から崩れるように枯れ、
葉は黒く縮れ、枝は音もなく折れ落ちる。
花は咲いた形のまま腐り、地面に触れる前に影へと溶けて消えた。
生き残った動物たちが、遅れて気づき、悲鳴を上げる――が、それも一瞬。
肉は腐敗し、溶け、地面に伸びる“影”へと吸い込まれていく。
残った骨が、かちり、と乾いた音を立てて倒れ――それきり、動かない。
異形の化け物の肉片も同じだった。
焼け残り、引き裂かれた残骸すら、影に呑まれ、完全に消える。
死して尚、美しく高潔であったマリーの骸もまた、肉が腐り、影へと溶け落ち、骨と杖のみが残る。
音が、消えた。
風も、虫の声も、葉擦れもない。
世界から“音”という概念だけが、丸ごと削ぎ落とされたかのように。
そこに残ったのは――
枯れ果てた荒野。
かつて森だった痕跡だけが、無言で横たわっている。
ショウは、歯を噛みしめる。
「……ニコ……これは……」
言葉の続きを紡ぐ前に。
ズ ン――――ッ
大地が、鳴った。
次の瞬間。
ニコの背後、地面が爆ぜる。
轟音と共に、巨大な黒い根が何本も突き出す。
太さは幹そのもの。
粘液を纏い、脈打ち、意思を持つかのように蠢く。
根は絡み合い、絡み合い、
互いを喰らうように結合し――
一本の、巨大な黒い樹へと変わっていく。
空を押し上げるように伸びた幹。
表皮は炭化した肉のようで、所々が裂け、内側から闇が滲んでいる。
そして、その頂点に
ゆっくりと、
あまりにも不自然な動きで――
花が、咲いた。
巨大で、毒々しい、漆黒の花弁。
脈動するように開き、中心には底の見えない暗闇が口を開けている。
それは美しさとは程遠い。
ただ――見る者の本能に、明確な拒絶と恐怖を刻み込む存在。
赤い月に照らされ、ニコは、その前に両腕を広げて立っていた。
振り返らない。
ただ、背後の“それ”を抱き締めるかのように、静かに立っている。
ショウは、息を呑む。
「……お前は……そこまで……」
胸の奥で、嫌な予感が確信へと変わる。
「…俺には善悪はない。倫理もない。道徳もない。
信じる神もいない。――ただ、誇りはある」
ニコは静かにそう語った。
声は低く、抑えられている。
だがその一言一言は、これまでにない重さを伴って、確かに空気を歪ませていた。
「たとえ、敵わないと分かっていても、それに膝をつきたくない」
正義とは、何だ。正しさとは、何だ。
例えば政治。右と左。
彼らは揃って、自分たちこそが正しいと疑わない。
自らの思想と相容れぬものを「間違い」と断じ、「愚か」と嘲り、躊躇なく攻撃する。
例えば宗教。神と人。
彼らもまた、自分たちこそが正しいと疑わない。
自らの信仰に背くものを「異端」と呼び、「罪」と呼び、正義の名の下に排除する。
「……そんなものは、認めない」
ニコは吐き捨てるように言った。
それは反論ではない。拒絶だ。
――自分は真実を知っている。
――自分は真理を知っている。
だから、自分と異なる、自分が許容できない全ては無知で、愚かで、醜い“悪”なのだ。
攻撃していい。踏み潰していい。
なぜなら、自分は正義で、彼らは悪なのだから。
くだらない、とニコは思う。
それは正義などではない。
ただの欲だ。
他者を攻撃したいという欲。特別でありたいという欲。
だが彼らは、それを欲だと認められない。
醜い自分自身を、直視できない。
なぜなら――自分は正しいと、自分には大義があると、信じているから。
自分は美しいと、高潔だと、疑いもしないから。
だから彼らは、
「正義」や「正しさ」といった恥知らずな言葉を盾にし、目を逸らし、身を守り、己の欲望を正当化する。
くだらない見栄。浅ましいハリボテ。
そもそもお前たちの正義とは、倫理とは、道徳とは、一体どこから湧いて出た?
この世に生まれ落ちた瞬間に神から授かった啓示か?
――違う。
教育だ。社会だ。環境だ。
都合よく刷り込まれ、都合よく形作られ、
人間の手で、人間の都合のために作られた、
曖昧で脆い概念に過ぎない。
そんなものはーー
「死んでも認めない」
ニコの覚悟が、夜に伝った――その瞬間。
ギィィ……、と。
空気そのものが、引き裂かれる音を立てた。
ニコの背後。巨大な黒い樹の、その頂点で咲いた漆黒の花が、びくりと震える。
花弁が、ゆっくりと――痙攣するように、開いた。
中心にあるのは、底なしの闇。
喉を鳴らすように、それが蠢く。
――ギャァァァァアアア……ッ
泣き声だった。
獣の咆哮でも、人の悲鳴でもない。
世界に拒絶された存在が、それでも無理矢理“ここに在る”ことを主張する――
悍ましく、歪んだ、存在証明の声。
音が、森の残骸を揺らす。
枯れ果てた大地に、ひびが走り、影が脈打つ。
ショウは、反射的に一歩、退いた。
(……来る)
理屈ではない。
身体の奥――もっと原始的な感覚が、そう告げていた。
この場所に、この“花”に。
何かが、引き寄せられている。
空気が歪み、視界の端が滲む。
遠く、森だったはずの地平線の向こうで――
“何か”が、動いた。
重い。
圧倒的に、重い“存在感”。
近づくほどに、世界そのものが軋む。
その気配が、確実に、こちらへ向かってきている。
ショウは歯を食いしばり、視線を黒い樹へと戻した。
「……ニコ……あれは……」
言い終わる前に、ニコが答える。
振り返らず、ただ黒い花を見上げたまま。
「“干渉”を世界に伸ばすための装置だ」
ショウの眉が、わずかに動く。
「装置……?」
「電波塔みたいなもんだよ」
淡々とした声。
感情の揺れは、そこにはない。
「世界に合図を送ってる。――ここに、“穴”があるぞ、ってね」
黒い花が、再び脈打つ。
「この近くで、ショウをどうこうできる存在はいない。俺も含めて」
ニコは、静かに言葉を重ねた。
「だから、伸ばす。深く。広く。この世界の果てまで――底にまで、根を張らせる」
ショウは、喉の奥が冷えるのを感じた。
「……じゃあ、さっきの“気配”は……」
「応答だよ」
ニコは、ようやく僅かに笑った。
勝利の笑みでも、狂気でもない。
ただ――覚悟を決めた者の顔だった。
「力を持った“何か”が、この電波を拾った」
遠くで、何かが吼える。
夜空を裂くような、低く、重い咆哮。
ニコは、夢の中で交わしたカサンドラとの会話を思い出す。
――選定者とは、この世界に害を成すとされた脅威に対抗するため、忘却の教会によって送り込まれる“ワクチン”である。
脅威が検知され、選定され、災いを退ける。
それは、幾度となく繰り返されてきた、この世界の歴史。
だが――
歴代の選定者たちでさえ、脅威のすべてを完全に討ち滅ぼせたわけではなかった。
力を削がれ、弱り果てた“脅威”は、眠り、傷を癒し、力を蓄え、再び牙を剥く時を待つ。
花の魔女と、森の生命すべての力を“干渉”で奪ったニコでさえ、彼を完全に制御することは難しい。
だから――釣り餌を垂らす。
『選定者が、お前を殺しに来たぞ』
次の瞬間、夜空の一部が割れた。
裂け目は一直線ではない。
ガラスに走る亀裂のように、不規則に広がり、そこから闇が滲み出す。
雲ではない。空そのものが、破られている。
裂け目の奥から、最初に現れたのは――翼だった。
左右に一対。
羽毛はなく、太い骨が露出し、その間を黒い膜が張り付いている。
膜は固定されておらず、風を受けるたびに粘つくように波打つ。
翼が一度、強く打たれる。
――ドン、と
重い衝撃音が荒野の地を鳴らし、胴体が姿を現す。
全長は十メートルを超える。
四肢は獣の形に近いが、関節の数が合わない。
二本の前脚は不自然に折れ曲がっている。
三本の首は、根元から絡み合いながら伸び、それぞれが別の方向を向いている。
一つは空を警戒するように左右へ揺れ、
一つは地面へ鼻先を近づけ、
最後の一つだけが――動かない。
その目が、ショウを捉えていた。
赤でも白でもない、濁った黄の瞳。
瞬きはせず、感情の変化もない。
ただ、距離と位置を測るように、静止している。
怪物は、羽ばたきを止めたが、落ちない。
翼を広げたまま、空中に“留まって”いる。
その下で、空気が歪み、風が地面へ押し付けられる。
枯れた土が舞い、砕けた枝が転がった。
ショウは、一歩踏み出そうとして――足を止めた。
(……重い)
陣を構える前から、腕が痺れる。
魔力を巡らせようとしただけで、呼吸が浅くなる。
目の前の存在は、
攻撃する前から、周囲を圧迫していた。
ニコは黒い樹の下で、それを見上げる。
「正式な名前はカサンドラも知らなかった」
声は低いが、震えてはいない。
「たしかーー」
怪物が、喉を鳴らした。
三つの首が同時に動き、短く、濁った不快な咆哮を放つ。
その瞬間、夜空全体が暗く沈んだ。
雲が増えたわけじゃない。
月が隠れたわけでもない。
単純に――光が、届かなくなった。
視界の端から端まで、均一な暗さ。
星は消え、月の位置も分からない。
空は、ただの黒い天井になっている。
瞼を開けているのか、閉じているのかさえ曖昧になる。
一切の光が差さない、完全な暗闇。
だがーー
ショウがその場で強く足を踏み鳴らすと、
そこから闇を裂くように光が走り、地に紋様を描き始める。
「……何が来ても」
低く呟く。
「やる事は同じだ」
余裕はない、死ぬかも知れない。でもーー
やるべき事は、何一つ変わらない。




