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10

月は雲の波間に沈み、森は輪郭だけを残して黙していた。

風は止み、葉擦れも虫の声も、まるで世界そのものが息を殺したかのように消え失せている。

その静寂の中心で、ニコはゆっくりと息を吸った。

花の魔女から奪い取った力は、まだ完全には身体に馴染んでいない。脈打つたび、異物が血管を撫でるような違和感が走る。

それでも――悪くない。

むしろ増幅され、歪められ、より単純で、より“使いやすい”形へと変質していた。

「……さて」

ショウから視線を逸らさぬまま、ニコは意識を森へと伸ばす。

干渉。

本来なら生命の在り方そのものを書き換えるはずの魔法は、ショウに触れた瞬間、拒絶された。弾かれる。否定される。

まるで“世界そのもの”が、彼を守っているかのように。

「ショウが特別なのは分かってたよ。なら――」

視線を、横へ。

闇の奥へ。

「やり方を変えるだけだ」

空気が、ざわりと揺れた。

干渉の糸が地を這い、根の隙間へ、土の下へ、樹皮の裏へ――闇に溶けた無数の命へと広がっていく。

まず、獣の気配が増えた。

鹿の踏みしめる足音、狐の低い唸り、梟の羽ばたき名も知らぬ小動物たちの、せわしない心拍。

森が、ざわめく。

ショウは目を細めた。

――来る。

ニコは手の甲を広げ、月光に翳す。

白い指。細く、整った、人の手。

「一つ」

親指を、折る。

瞬間――悲鳴が上がった。

鹿の群れの一体が、内部から破裂する。皮膚を突き破って飛び出したのは赤黒い骨。血は霧となって夜に散り、肉は引き延ばされ、無理やり“別の形”に縫い直されていく。

脚は増え、関節は逆向きに折れ、眼は頭部から溢れ落ちて、胴の至る所に穿たれた穴へと押し込まれる。

それはもはや鹿ではない。

ただ“動く塊”だった。

「二つ」

人差し指。

今度は、木の上。

梟が空中で痙攣し、羽毛が硬質化して刃のように弾け飛ぶ。骨格はねじれ、首は異様に伸び、嘴は裂け、露出した喉が啼く。

啼く。啼く。啼く。

意味を持たない叫びが、夜を切り裂いた。

「三つ」

中指。

地面が盛り上がる。

鼠、蛇、虫――小さな命が引き寄せられ、圧縮され、混ざり合う。血と鱗と毛皮が層を成し、最後に“核”として心臓だけが据えられた。

脈打つたび、地面が呼吸する。

ニコは淡々と、指を折り続ける。

数を数えるように。

遊びの続きを楽しむ子供のように。

「四つ」

薬指。

森の奥から、重い足音。

かつて熊だったものが、木々を薙ぎ倒しながら姿を現す。筋肉は異様に膨れ、皮膚は花弁のように裂け、その隙間から覗く内臓が夜露を吸って妖しく光っていた。

花の魔女マリーの結界により、この森の周辺から、ショウとニコの命を脅かす存在は排されていた。

つまり――教会で二人を襲ったような化け物は、ここには存在しない。

存在しない。

――はずだった。

「いないのなら、作ればいい」

小指。

最後の折れる音が、やけに大きく響いた。

森が、完成する。

それは数であり、群れであり、意思だ。

ただ殺意だけを形にした存在が、ショウを囲む。地上、樹上、地中――逃げ場は、ない。

ニコは一歩も動かず、満足げにそれを眺めた。

「うん。悪くない」

視線が、再びショウへ向く。

「さあ、どうする?」

化け物たちが、一斉に動き出す。

殺意が、吠えた。

その中心で、ショウは静かに息を吸う。

胸の奥で、あの“思い出した”光が、確かに燃えていた。


最初に動いたのは、地を這う“塊”だった。

心臓を核にした歪な集合体が、地面を裂きながらショウの足元へ迫る。血と土を巻き上げ、触れれば即座に呑み込む速度。

ショウは、動かない。

視線だけを、わずかに落とす。

「…一番、めんどくせぇのは下」

呟きと同時に、光が生まれた。

剣ではない、線だ。

足元に落ちた月光が、糸のように細く引き伸ばされ、地面へと縫い込まれる。光は土を切らない。ただ、境界を定める。

次の瞬間。

地面が、止まった。

呼吸していた“塊”が、境界線を越えられず、内部から震え、軋み始める。心臓だけが脈打ち、だがそれ以外の肉が、光に触れた部分から静かに崩壊していく。

燃えない、爆ぜない、分解されている。

数秒後、そこにあったのは、ただの土だった。

その背後。

樹上から、梟だったものが急降下する。刃の羽毛が月光を反射し、空気を裂く音が重なる。

ショウは一歩、前へ出た。

右手を振る。

光が、剣の形を取る。だがそれは振り抜かれない。

“置かれる”。

空中に固定された光の刃へ、怪物が自ら突っ込む形になる。

羽毛が、触れた瞬間に消失した。

切断ではない。存在そのものが削ぎ落とされ、勢いだけが空を滑る。

首から上が、消える。

残った胴が地に落ちるより早く、ショウはもう次を見ていた。

左右から、脚の増えた鹿の成れ果て。

正面から、熊。距離、速度、質量――一瞬で測る。

「まとめて、いくぜ」

光が、脈打つ、今度は面に。

ショウの前方、扇状に広がった光が、空間そのものを“明るく”する。

夜が後退し、影が薄れる。

影を足場にしていた鹿が、光に脚を滑らせ踏み外す。

多脚が絡まり、姿勢を崩した瞬間、ショウは踏み込んだ。

光の剣が、一閃。振りは最小。狙いは、首でも胴でもない。

“繋ぎ目”。

無理やり縫い合わされた関節、異なる命が交差する接合部だけを正確に断つ。

鹿だったものは、音もなく解体され、部品のように、命が落ちていく。

残るは、熊。

巨体が吠え、腕を振り下ろす。大気が歪み、地面が砕ける。

ショウは、避けない。

拳が振り下ろされる軌道上に、光の柱を一本、立てる。ぶつかる。

次の瞬間、熊の腕が、内側から崩れた。

光は防いだのではない。

受け止め、流し、質量を反射した。

力を返された筋肉が自壊し、熊は一歩、よろめく。

その額に、ショウは光の剣を突き立てた。

深くは、刺さない。

光が、内部で静かに広がる。

花弁のように裂けていた皮膚が、今度は内側から剥がれ落ち、異形を保っていた魔法の“縫い目”から光が吹き出す。

最後に残ったのは、ただの骸だった。

森が、少し静まる。

ショウは息を吐き、剣を消す。衣服に血はついていない。呼吸も乱れていない。

ただ、目だけが――わずかに鋭く、ニコを見る。

「うんうん」

ニコが頷く。

——それで?

拍手もしない。 感心した素振りすら見せず、ただ小さく首を傾げた。

「確かに、前とは違う」

声音は軽い。だが、その奥にあるものは、冷ややかだった。

「でもさ」

一歩も動かぬまま、視線だけを森へ戻す。

「今のって、数千……いや、数万分の一だよ?」

夜の闇が、粘度を持って揺れた。

「害獣を何匹か駆除したくらいで、森の生命全てが滅ぶと思う?」

口角が、僅かに上がる。

「ここからだ」

黒々とした森の陰が、蠢いた。

最初に現れたのは、輪郭だけを保った影。 次いで、そこから“顔”が浮かび上がる。 獣でも、人でも、植物でもない。 骨と蔓、肉と樹皮、花弁と牙が、無秩序に縫い合わされた異形。

一体、二体ではない。数百、数千、 森そのものが、口を開ける。

「さっきのは、様子見」

ニコは淡々と告げる。

その言葉を合図にしたかのように―― 空気が、沈んだ。

ニコは再び、森へ意識を伸ばす。 今度は“獣”ではない。 根。 蔓。 幹。 花。

干渉。

奪い取った花の魔法が、完全に解放される。

地面を割って、巨大な茎が噴き上がる。 薔薇に似た花弁は刃のように硬化し、開くたびに血色の胞子を撒き散らす。 樹木は節を増やし、関節を持ち、歩き出す。 葉は重なり合って装甲となり、蔓は蛇のように鎌首をもたげる。

かつて美しかった花の力は、ここでは別物だった。 増殖。 侵食。 支配。

森が、禍々しく巨大化していく。

「森は、命の数で出来てる」

ニコは楽しげに語る。

「動物も、植物も、虫も、菌も。全部まとめて“リソース”」

化け物たちが、道を開く。 その隙間から、植物の異形が前に出る。 肉と木が絡み合った腕。 花弁の内側に並ぶ歯。 根を引きずりながら、地を砕いて迫る巨体。

「だから――」

ニコは、指を鳴らした。

一斉に、来る。

地上を埋め尽くす異形。 樹上から降り注ぐ蔓と花。 地中から突き上がる根の槍。 上下左右、逃げ場は完全に封じられていた。

「次は森ごと、相手してみろよ」

殺意が、波のように押し寄せる。

その中心で、ショウは動かない。

光は、まだ剣にも、盾にもならない。 ただ、胸の奥で静かに脈打っている。

彼は深く息を吸った。 夜気と、血と、花の腐臭を、肺いっぱいに取り込む。

――これは“戦闘”じゃない。 ――殲滅でも、防衛でもない。

“耐久”であり。 “持久”だ。 あいつを、ニコを理解らせる為の。

ショウは、ゆっくりと目を細めた。

「いくぜ」

足元に、光が描かれる。 一本の線。 次に、もう一本。 それはやがて円となり、模様となり、不可侵の領域となった。

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