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幸福刑

作者: 浅水那月
掲載日:2026/01/27

男は、死刑執行室の扉を初めて目にした日のことを思い出していた。

無機質なスチールの冷たさ。鼻をつく消毒液の匂い。

だが、あの時よりも、今日の方がよほど胸が高鳴っている。


理由は単純だった。

今日は――幸福になると、告げられていた日だからだ。


「これより、新制度に基づく刑を執行する」


スピーカーから響く声は、感情を削ぎ落としたように平坦だった。

男は、手錠をかけられた手首をさすりながら、乾いた唇を舐める。

死刑囚に与えられるのは、恐怖と後悔、そして底なしの孤独であるはずだった。


「執行日までの間、VR空間にて仮想人生を送っていただく。

――あなたが望む、最も幸福な人生だ」


男は笑った。喉の奥から、錆びついた空気が漏れるような音だった。

人を殺した自分に、幸福だと?

皮肉にしては上出来すぎる。

だが、拒否権などあるはずもなかった。

視界が、ヘルメットのような重い闇に覆われる。



鼻をくすぐる匂いで目を覚ました。

出汁の香りだ。味噌と、少し焦げたトーストの匂いが混じっている。

目を開けると、そこは柔らかな光に満ちていた。

隣に手を伸ばしたが、指先が触れたのは温かなシーツの感触だけだった。

男は身を起こし、匂いの元へと向かう。

キッチンに、女性の後ろ姿があった。

エプロン越しの背中は華奢で、長くしなやかな髪が揺れている。

男は恐る恐る手を伸ばし、その背に触れる。

体温。

確かな生身の熱が、指先から伝わってきた。


「……あら、起きたの?」


女性が振り返り、男を見た。

その瞳に映る自分を見るのが怖くて、男は目を逸らしかけた。

けれど、彼女はふわりと笑ったのだ。


「おはよう、あなた」


胸の奥が、じんわりとした温かさで満たされる。

涙が溢れた。なぜ泣いているのか分からない。

ただ、この光景こそが、自分がずっと求めていたものだと、魂が叫んでいた。



日々は、驚くほど静かに、そして豊かに流れた。

朝、妻とコーヒーを飲む時間。

満員電車に揺られる疲労感さえ、生きている証のように思えた。

数年後、娘が生まれた。

壊れそうなほど小さな指が、男の指を握り返してきた時の力強さ。

柔らかく温かい、生命の重み。

夜泣きに疲れ果てた深夜、不意に見せる天使のような寝顔。

その全てが愛おしかった。


娘は成長した。

初めて立った日、初めて「パパ」と呼んでくれた日。

反抗期に「うざい」と言われ、本気で落ち込んだ夜。

卒業式で、照れくさそうに「ありがとう」と言ってくれた時の、潤んだ瞳。


男は老いた。

白髪が増え、腰が痛むようになった。

妻と共に縁側で茶を啜りながら、庭の古木を眺める。

そんな何気ない瞬間が、かけがえのない宝物のように感じられた。


ただ、時折。

本当に稀に、説明のつかない「ノイズ」が走ることがあった。

洗面所の鏡に向かった時、

そこに映るシワの増えた顔が、ふと他人に見えるのだ。

けれど、妻が「どうしたの?」と声をかけてくれれば、その悪夢は霧散した。

私は幸せだ。

この人生こそが、私の全てだ。


「ねえ、あなた」

病床に伏した妻が、シワだらけの手を伸ばしてくる。

「私、あなたと結婚できて、本当に幸せだった」


男は涙を流しながら、その手を強く握り返した。

「俺もだ……俺もだよ。これ以上の人生なんて、あり得なかった」


妻の瞳が静かに閉じられる。

男もまた、その生涯を終えようとしていた。

満ち足りた、幸福な最期だった。



ブツン、と。

世界の電源が落ちたように、光が消えた。


ざらついた感触。

硬い椅子。拘束具の食い込む痛み。

ヘルメットが荒っぽく引き剥がされた。

男は呻き声を上げ、光を求めて空を掴もうとした。

だが、そこにあるのは無機質な天井と、冷たい蛍光灯の光だけだった。


「体験は終了しました」


事務的な声。

男は激しく嘔吐した。胃液しか出なかったが、魂まで吐き出しそうだった。


「返せ……!」

男は叫んだ。声は枯れ、獣の咆哮のようだった。

「あそこへ戻せ! あれが俺の人生だ! 妻が、娘が待っているんだ!」


冷ややかな沈黙。

看守たちは、淡々と装置を片付けていく。


「酷すぎる……これが刑罰か。

幸せを見せておいて、最後にそれを奪う。そんな理不尽が許されるか!」


涙と鼻水にまみれて喚く男を、看守の一人が見下ろした。

その目には、憐憫も侮蔑もなく、ただ事実を確認するような冷徹さがあった。


「勘違いなさらないでください」


看守が静かに言った。


「あなたが体験したのは、架空の幸福ではありません。

記録を元に再現された、実在した人生です」


男の思考が凍りついた。

「……なにを、言って」


「あれは、被害者の人生です」


言葉の意味が、脳に浸透するのに時間がかかった。

被害者。

自分が殺した、あの男。


「あなたが殺害した人物が、本来歩むはずだった五十年。

それを、被害者の主観と同調シンクロし、追体験していただきました」


ドクン、と心臓が跳ねた。

記憶が、泥水のように逆流してくる。

路地裏。金目当て。ナイフの感触。

恐怖に歪む男の顔。

その顔は――鏡の中で、何千回も見た「自分」の顔だった。


「あ、あ、ああ……」


男の口から、引きつった悲鳴が漏れる。

男が愛した妻は、被害者の妻だった。

目に入れても痛くないほど愛した娘は、被害者の娘だった。

あの日々、あの温もり、あの輝かしい人生。

その全てを奪ったのは、誰だ?


自分だ。

自分が、あの幸福な家庭を破壊したのだ。

あの優しい妻から夫を奪い、あの健気な娘から父を奪ったのだ。


「感情移入率は計測史上最高値でした。人格の同化も完了しています」


看守の声が遠くに聞こえる。

男の中で、二つの人格が悲鳴を上げていた。

殺した男と、殺された男。

加害者としての記憶と、被害者としての五十年。


被害者としての自分が、加害者である自分を睨みつけている。

許さない。絶対に許さない。

私の幸せを、私の家族を、私の人生を奪ったこの男を。

殺してやる。今すぐに、八つ裂きにしてやる。


「――執行の時間です」


扉が開かれた。

男は、ふらりと立ち上がった。

足取りは覚束ないが、迷いはなかった。

恐怖もなかった。あるのは、燃えるような憎悪と、使命感だけだった。


目の前に、処刑台がある。

あそこで死ぬ男は、極悪人だ。

世界で一番、死ぬべき人間だ。


男は涙を流しながら、笑った。

これでやっと、復讐ができる。


「さあ、行こう」


男は自ら進んで、死の座席へと歩き出した。

自分自身という、許されざる仇を葬るために。

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