幸福刑
男は、死刑執行室の扉を初めて目にした日のことを思い出していた。
無機質なスチールの冷たさ。鼻をつく消毒液の匂い。
だが、あの時よりも、今日の方がよほど胸が高鳴っている。
理由は単純だった。
今日は――幸福になると、告げられていた日だからだ。
「これより、新制度に基づく刑を執行する」
スピーカーから響く声は、感情を削ぎ落としたように平坦だった。
男は、手錠をかけられた手首をさすりながら、乾いた唇を舐める。
死刑囚に与えられるのは、恐怖と後悔、そして底なしの孤独であるはずだった。
「執行日までの間、VR空間にて仮想人生を送っていただく。
――あなたが望む、最も幸福な人生だ」
男は笑った。喉の奥から、錆びついた空気が漏れるような音だった。
人を殺した自分に、幸福だと?
皮肉にしては上出来すぎる。
だが、拒否権などあるはずもなかった。
視界が、ヘルメットのような重い闇に覆われる。
*
鼻をくすぐる匂いで目を覚ました。
出汁の香りだ。味噌と、少し焦げたトーストの匂いが混じっている。
目を開けると、そこは柔らかな光に満ちていた。
隣に手を伸ばしたが、指先が触れたのは温かなシーツの感触だけだった。
男は身を起こし、匂いの元へと向かう。
キッチンに、女性の後ろ姿があった。
エプロン越しの背中は華奢で、長くしなやかな髪が揺れている。
男は恐る恐る手を伸ばし、その背に触れる。
体温。
確かな生身の熱が、指先から伝わってきた。
「……あら、起きたの?」
女性が振り返り、男を見た。
その瞳に映る自分を見るのが怖くて、男は目を逸らしかけた。
けれど、彼女はふわりと笑ったのだ。
「おはよう、あなた」
胸の奥が、じんわりとした温かさで満たされる。
涙が溢れた。なぜ泣いているのか分からない。
ただ、この光景こそが、自分がずっと求めていたものだと、魂が叫んでいた。
*
日々は、驚くほど静かに、そして豊かに流れた。
朝、妻とコーヒーを飲む時間。
満員電車に揺られる疲労感さえ、生きている証のように思えた。
数年後、娘が生まれた。
壊れそうなほど小さな指が、男の指を握り返してきた時の力強さ。
柔らかく温かい、生命の重み。
夜泣きに疲れ果てた深夜、不意に見せる天使のような寝顔。
その全てが愛おしかった。
娘は成長した。
初めて立った日、初めて「パパ」と呼んでくれた日。
反抗期に「うざい」と言われ、本気で落ち込んだ夜。
卒業式で、照れくさそうに「ありがとう」と言ってくれた時の、潤んだ瞳。
男は老いた。
白髪が増え、腰が痛むようになった。
妻と共に縁側で茶を啜りながら、庭の古木を眺める。
そんな何気ない瞬間が、かけがえのない宝物のように感じられた。
ただ、時折。
本当に稀に、説明のつかない「ノイズ」が走ることがあった。
洗面所の鏡に向かった時、
そこに映るシワの増えた顔が、ふと他人に見えるのだ。
けれど、妻が「どうしたの?」と声をかけてくれれば、その悪夢は霧散した。
私は幸せだ。
この人生こそが、私の全てだ。
「ねえ、あなた」
病床に伏した妻が、シワだらけの手を伸ばしてくる。
「私、あなたと結婚できて、本当に幸せだった」
男は涙を流しながら、その手を強く握り返した。
「俺もだ……俺もだよ。これ以上の人生なんて、あり得なかった」
妻の瞳が静かに閉じられる。
男もまた、その生涯を終えようとしていた。
満ち足りた、幸福な最期だった。
*
ブツン、と。
世界の電源が落ちたように、光が消えた。
ざらついた感触。
硬い椅子。拘束具の食い込む痛み。
ヘルメットが荒っぽく引き剥がされた。
男は呻き声を上げ、光を求めて空を掴もうとした。
だが、そこにあるのは無機質な天井と、冷たい蛍光灯の光だけだった。
「体験は終了しました」
事務的な声。
男は激しく嘔吐した。胃液しか出なかったが、魂まで吐き出しそうだった。
「返せ……!」
男は叫んだ。声は枯れ、獣の咆哮のようだった。
「あそこへ戻せ! あれが俺の人生だ! 妻が、娘が待っているんだ!」
冷ややかな沈黙。
看守たちは、淡々と装置を片付けていく。
「酷すぎる……これが刑罰か。
幸せを見せておいて、最後にそれを奪う。そんな理不尽が許されるか!」
涙と鼻水にまみれて喚く男を、看守の一人が見下ろした。
その目には、憐憫も侮蔑もなく、ただ事実を確認するような冷徹さがあった。
「勘違いなさらないでください」
看守が静かに言った。
「あなたが体験したのは、架空の幸福ではありません。
記録を元に再現された、実在した人生です」
男の思考が凍りついた。
「……なにを、言って」
「あれは、被害者の人生です」
言葉の意味が、脳に浸透するのに時間がかかった。
被害者。
自分が殺した、あの男。
「あなたが殺害した人物が、本来歩むはずだった五十年。
それを、被害者の主観と同調し、追体験していただきました」
ドクン、と心臓が跳ねた。
記憶が、泥水のように逆流してくる。
路地裏。金目当て。ナイフの感触。
恐怖に歪む男の顔。
その顔は――鏡の中で、何千回も見た「自分」の顔だった。
「あ、あ、ああ……」
男の口から、引きつった悲鳴が漏れる。
男が愛した妻は、被害者の妻だった。
目に入れても痛くないほど愛した娘は、被害者の娘だった。
あの日々、あの温もり、あの輝かしい人生。
その全てを奪ったのは、誰だ?
自分だ。
自分が、あの幸福な家庭を破壊したのだ。
あの優しい妻から夫を奪い、あの健気な娘から父を奪ったのだ。
「感情移入率は計測史上最高値でした。人格の同化も完了しています」
看守の声が遠くに聞こえる。
男の中で、二つの人格が悲鳴を上げていた。
殺した男と、殺された男。
加害者としての記憶と、被害者としての五十年。
被害者としての自分が、加害者である自分を睨みつけている。
許さない。絶対に許さない。
私の幸せを、私の家族を、私の人生を奪ったこの男を。
殺してやる。今すぐに、八つ裂きにしてやる。
「――執行の時間です」
扉が開かれた。
男は、ふらりと立ち上がった。
足取りは覚束ないが、迷いはなかった。
恐怖もなかった。あるのは、燃えるような憎悪と、使命感だけだった。
目の前に、処刑台がある。
あそこで死ぬ男は、極悪人だ。
世界で一番、死ぬべき人間だ。
男は涙を流しながら、笑った。
これでやっと、復讐ができる。
「さあ、行こう」
男は自ら進んで、死の座席へと歩き出した。
自分自身という、許されざる仇を葬るために。




