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幸福刑

作者: 浅水那月

男は、死刑執行室の扉を初めて見た日のことを思い出していた。

だが、あのときよりも、今日の方がよほど緊張している。


理由は単純だった。

今日は――幸福になると、告げられていた日だからだ。


「新制度の適用が決定しました」


無機質な声が告げる。


「執行日までの間、VR空間にて仮想人生を送っていただきます。

あなたが望む、最も幸福な人生です」


男は一瞬、聞き間違いかと思った。

死刑囚に与えられるのは、恐怖と後悔と孤独。そのはずだった。


男は笑った。乾いた笑いが、喉の奥から漏れる。

罪を犯した自分に、そんなものを与える理由が分からなかった。

理解できないまま、笑うしかなかった。


だが、拒否権はなかった。



VRの中で、男は目覚めた。

柔らかな朝の光が差し込み、隣には妻がいる。

穏やかな寝息。廊下の向こうから、小さな足音が近づいてくる。


「パパ、起きて」


胸が詰まった。涙が自然に溢れた。なぜ泣いているのかは分からない。

ただ、この光景が失われてはいけないものだと、直感していた。


日々は穏やかに流れた。

働き、疲れ、帰宅し、食卓を囲む。

子どもは成長し、反抗期を迎え、やがて照れながら感謝を口にするようになる。


長い年月を生きた。苦労もあった。後悔もあった。

それでも、人生は幸福だった。


ただ、時折、説明のつかない違和感があった。

洗面所の鏡に映る自分の顔を、長く見られない。

理由は分からない。

目を合わせると、戻れなくなる何かを踏み越えてしまう気がした。


「ねえ。私、パパの子どもでよかった」


娘はそう言って笑った。


「パパは、何があっても私たちを守ってくれるでしょ」


胸の奥が、強く締めつけられる。


「ああ。守るよ」


その言葉に、迷いはなかった。



白い光が世界を塗りつぶした。

男は椅子に縛りつけられていた。

視界が定まると、そこは執行室だった。

VRヘッドセットが外される。


「体験は終了しました」


看守の声は淡々としている。


「……ふざけるな」


声が荒れるのを、男自身が感じた。


「これが新制度か。幸せな映像を見せて、

最後に突き落とす。そういう嫌がらせか」


怒りが込み上げる。あまりにも鮮明だった人生。

あまりにも確かな家族。それを奪われた直後だった。


「趣味の悪い制度だな」


男は吐き捨てた。


「死刑より、よほど性格が悪い」


看守は答えない。

ただ、手順通りに機器を片づけている。


「戻りたくなかったんだ」


男は続けた。


「あの人生に。それが狙いなんだろ」


沈黙が返ってきた。

その無言が、肯定のように思えた。


「あなたが体験したのは、仮想の幸福ではありません」


看守が言った。


「記録を元に再構成された、実在した人生です」


男は、ゆっくりと首を振った。


「違う……あれは、俺の人生だ」


「いいえ」


看守は遮る。


「被害者の人生です」


言葉が、すぐには意味を結ばなかった。


「あなたが殺害した人物が、本来歩むはずだった人生。

その全期間を、主観として追体験していただきました」


記憶が、連なって蘇る。

ニュース映像。床に広がる血。自分の手。

そして、幸福な人生の中で、何度も胸を刺した正体不明の嫌悪。


「あ……」


喉から、掠れた音が漏れた。


「感情移入は完全でした。人格変容も想定内です」


看守は続ける。


「現在のあなたの自己認識は、被害者側に固定されています」


男は理解してしまった。

自分は、あの人生を奪った存在を、心の底から憎んでいる。


「……やめてくれ」


誰に向けた言葉かも分からない。

看守は扉を開けた。


「執行の時間です」


男は立ち上がった。

逃げようとは思わない。

逃げたい“自分”が、もうどこにもいなかった。


視線の先に、処刑台が見える。

そこに向かうのは、愛する家族の人生を奪った男だ。


許せるはずがなかった。

男は泣きながら、前へ進んだ。


自分自身を、終わらせるために。

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