幸福刑
男は、死刑執行室の扉を初めて見た日のことを思い出していた。
だが、あのときよりも、今日の方がよほど緊張している。
理由は単純だった。
今日は――幸福になると、告げられていた日だからだ。
「新制度の適用が決定しました」
無機質な声が告げる。
「執行日までの間、VR空間にて仮想人生を送っていただきます。
あなたが望む、最も幸福な人生です」
男は一瞬、聞き間違いかと思った。
死刑囚に与えられるのは、恐怖と後悔と孤独。そのはずだった。
男は笑った。乾いた笑いが、喉の奥から漏れる。
罪を犯した自分に、そんなものを与える理由が分からなかった。
理解できないまま、笑うしかなかった。
だが、拒否権はなかった。
*
VRの中で、男は目覚めた。
柔らかな朝の光が差し込み、隣には妻がいる。
穏やかな寝息。廊下の向こうから、小さな足音が近づいてくる。
「パパ、起きて」
胸が詰まった。涙が自然に溢れた。なぜ泣いているのかは分からない。
ただ、この光景が失われてはいけないものだと、直感していた。
日々は穏やかに流れた。
働き、疲れ、帰宅し、食卓を囲む。
子どもは成長し、反抗期を迎え、やがて照れながら感謝を口にするようになる。
長い年月を生きた。苦労もあった。後悔もあった。
それでも、人生は幸福だった。
ただ、時折、説明のつかない違和感があった。
洗面所の鏡に映る自分の顔を、長く見られない。
理由は分からない。
目を合わせると、戻れなくなる何かを踏み越えてしまう気がした。
「ねえ。私、パパの子どもでよかった」
娘はそう言って笑った。
「パパは、何があっても私たちを守ってくれるでしょ」
胸の奥が、強く締めつけられる。
「ああ。守るよ」
その言葉に、迷いはなかった。
*
白い光が世界を塗りつぶした。
男は椅子に縛りつけられていた。
視界が定まると、そこは執行室だった。
VRヘッドセットが外される。
「体験は終了しました」
看守の声は淡々としている。
「……ふざけるな」
声が荒れるのを、男自身が感じた。
「これが新制度か。幸せな映像を見せて、
最後に突き落とす。そういう嫌がらせか」
怒りが込み上げる。あまりにも鮮明だった人生。
あまりにも確かな家族。それを奪われた直後だった。
「趣味の悪い制度だな」
男は吐き捨てた。
「死刑より、よほど性格が悪い」
看守は答えない。
ただ、手順通りに機器を片づけている。
「戻りたくなかったんだ」
男は続けた。
「あの人生に。それが狙いなんだろ」
沈黙が返ってきた。
その無言が、肯定のように思えた。
「あなたが体験したのは、仮想の幸福ではありません」
看守が言った。
「記録を元に再構成された、実在した人生です」
男は、ゆっくりと首を振った。
「違う……あれは、俺の人生だ」
「いいえ」
看守は遮る。
「被害者の人生です」
言葉が、すぐには意味を結ばなかった。
「あなたが殺害した人物が、本来歩むはずだった人生。
その全期間を、主観として追体験していただきました」
記憶が、連なって蘇る。
ニュース映像。床に広がる血。自分の手。
そして、幸福な人生の中で、何度も胸を刺した正体不明の嫌悪。
「あ……」
喉から、掠れた音が漏れた。
「感情移入は完全でした。人格変容も想定内です」
看守は続ける。
「現在のあなたの自己認識は、被害者側に固定されています」
男は理解してしまった。
自分は、あの人生を奪った存在を、心の底から憎んでいる。
「……やめてくれ」
誰に向けた言葉かも分からない。
看守は扉を開けた。
「執行の時間です」
男は立ち上がった。
逃げようとは思わない。
逃げたい“自分”が、もうどこにもいなかった。
視線の先に、処刑台が見える。
そこに向かうのは、愛する家族の人生を奪った男だ。
許せるはずがなかった。
男は泣きながら、前へ進んだ。
自分自身を、終わらせるために。




