【三人の王子シリーズ】無能王子に婚約破棄されたので実家に帰ろうとしたら、王国のトップ3(全員仕事中毒の変態)に拉致されました。「私の書類を恋人のように撫で回すのはやめてください」
無能王子に婚約破棄されたので実家に帰ろうとしたら、王国のトップ3(全員仕事中毒の変態)に拉致されました。「私の書類を恋人のように撫で回すのはやめてください」今さら復縁?私の承認印がないと予算出ませんよ
「レイラ・ウェリントン! 貴様との婚約を破棄する!」
王宮の大広間。
第三王子オラントの声が響いた瞬間、私は心の中で小さく息を吐いた。
(……やっと、言質が取れた)
目の前には、顔を真っ赤にして私を指差すオラント。
周囲の貴族たちがざわめくが、私にとっては雑音でしかない。
私は扇を閉じ、静かに彼を見据えた。
「理由をお伺いしても?」
「貴様はいつも俺を否定する! 俺は王族だぞ? 俺の提案する『黄金のオラント像』建設計画を、予算の無駄だと切り捨てた時の冷めた目! あれが婚約者の俺に向ける目か!?」
くだらない。
実にくだらないが、これ以上の好機はない。
ウェリントン家と王家の間には、『王族側からの破棄でない限り、婚約は解消できない』という古い盟約がある。
この五年間、私は彼に嫌われるよう、徹底的に「無駄」を省き、彼の浪費を止め、尻拭いをしてきた。
そして、それは周囲の人間に対しても同じだ。
周りからの評価も下げるように悪役令嬢ムーブを徹底してきた。
全ては、彼の方から「お前なんて願い下げだ」と言わせるために。
「……左様でございますか。殿下の高尚な美意識を理解できず、申し訳ございません」
私は殊勝なふりをして、頭を下げた。
「では、謹んでお受けいたします。慰謝料等は結構ですので、早急に手続きを」
「ふん! 分かればいいのだ! さっさと出ていけ!」
「はい。二度と御前には現れません」
私は懐から、署名済みの『解消同意書』を取り出し、近くの従僕に押し付けた。
そして、優雅にカーテシーを決める。
顔を上げると、オラント殿下はせいせいした顔をしていた。
私もだ。
いや、私の方が数倍、晴れやかな気分だろう。
これでもう、明日から徹夜で彼の決裁書を偽造しなくて済む。
日本人だった前世の私でも、ここまでのブラック環境はなかなかお目にかかれなかっただろう。
清々しさある。これで、私は念願のブラック卒業ができるのだから。
「失礼いたします」
踵を返し、私は大広間を後にした。
背筋を伸ばして歩く。
廊下に出た瞬間、足取りが速くなるのを止められなかった。
終わった。
私の地獄の補佐官生活が、今終わったのだ。
さあ、荷物をまとめて実家に帰ろう。
領地でゆっくりと紅茶と焼き菓子を楽しみながら、静かに本を読んで暮らすんだ。
◇◆◇
翌朝。
私は旅装を整え、部屋を出ようとしていた。
机の上には、王宮への返却物を全て揃えてある。
未練はない。
あるのは、これから始まる自由への期待だけだ。
ガチャリ。
扉を開けた、その時だった。
「……早起きだな、レイラ」
目の前に、三人の男たちが立っていた。
それも、この国で最も顔を合わせてはいけない三人だ。
「……イグニス殿下?」
中央に立つ、銀髪に冷たい紅の瞳。
第一王子であり、王太子のイグニス殿下。
その右隣には、短く刈り込んだ赤髪に、琥珀色の瞳を光らせる偉丈夫。
第二王子、テオ殿下。
そして左側には、色素の薄い金髪に、知的な碧眼の少年。
第四王子、ウィル殿下。
(なぜ、ここに?)
能無しのオラントとは違い、この三人は優秀だ。
そして、私とは接点が薄かったはず。
三人が醸し出す凄まじいオーラに私は一歩、後ずさった。
「おはようございます。見送りには及びませんわ。私はこれにて……」
「帰すわけがないだろう」
イグニス殿下が、低い声で遮った。
彼は懐から一通の書状を取り出し、私に見せつけた。
そこには、父であるウェリントン公爵の署名があった。
『娘レイラの身柄は、王太子の管理下に置くことを了承する』
「な……っ!?」
なにこれ!?
お父様!? 娘を売ったのですか!?
「昨夜のうちに早馬を出した。公爵は泣いて喜んでいたぞ。『行き遅れの娘を引き取ってくれるとは』とな」
「……っ」
退路が断たれた。
私が呆然としていると、テオ殿下が堂々と入り込んできた。
彼は騎士団長を務めるだけあって、威圧感が凄まじい。
岩のような筋肉の塊が迫ってくるような圧迫感がある。
だが、私を見る目は、なぜか獲物を狙う肉食獣のように熱を帯びていた。
「レイラ。悪いな、強引で」
「テオ殿下……これは一体、どういう冗談ですか」
「冗談? 本気だぜ。俺はずっと狙ってたんだ」
テオ殿下は、私の荷物の中から、一冊のファイルを勝手に取り出した。
それは、私がオラント殿下のために作成した『兵站管理・最適化マニュアル』だった。
「これだよ、これ。半年前、オラントの名前で提出された補給計画。これを作ったのはお前だな?」
「……それが何か?」
「完璧だった。この計画のおかげで、北部の遠征部隊は餓死せずに済んだ。物資の分配、ルート選定、予備費の計上……あんな美しい書類、見たことがない」
テオ殿下は、まるで恋人の肌を愛でるような手つきで書類を撫で回した。
彼の大きな手が、繊細な紙の上を這う。
なんだか、見ているこちらの背中がむず痒くなるような手つきだ。
「オラントごときに、この才能は過ぎる。俺の騎士団に来い。お前がいれば、俺の部隊は最強になる」
「……私は書類屋ではありません」
「俺にとっては勝利の女神だ。断るなら、力ずくでも連れて行く。……担いで帰るのも悪くないな」
彼は私の腰回りをじろりと眺め、片腕で持ち上げられるか値踏みするような視線を向けた。
硬派な武人の、有無を言わせぬ断言。
背筋が寒くなった。
すると今度は、静かな声が響いた。
「テオ兄上、野蛮ですよ。彼女を怖がらせないでください」
ウィル殿下だ。
まだ14歳だが、その聡明さは王宮内でも有名だ。
彼は私の前に進み出ると、恭しく跪いた。
「おはようございます、レイラさん。突然の非礼、お許しください」
「ウィル殿下……」
「僕は、貴女の授業を受けたいのです」
「授業、ですか?」
「はい。以前、オラント兄上が外交会議で発言した『隣国との関税撤廃案』。あれも貴女の入れ知恵ですよね?」
ドキリとした。
あれは、オラント殿下が適当なことを言い出したのを、私が必死に裏で理論武装させて無理やり成立させた案件だ。
「あの論理構成は、今の王宮学者の誰も持ち得ない視点でした。……僕は、貴女から学びたい。この国の行く末を、貴女と共に描きたいのです」
ウィル殿下の瞳は、純粋な知識欲と、それ以上の熱量で私を射抜いていた。
彼は私の手を取り、そっと自身の頬に寄せた。
ひんやりとした肌の感触。
少年特有の体温の低さが、逆に恐ろしい。
「僕の専属家庭教師になってください。貴女の知識を、僕だけに注いでほしい。……貴女の脳みその中身を、全部僕に見せてくれますよね?」
「…………」
逃げ場がない。
武力のテオ殿下。
知略のウィル殿下。
そして。
「まだ選ぶ気か?」
最後に、イグニス殿下が私との距離を詰めた。
彼は私の顎を指で持ち上げ、強引に直視させた。
冷たい指先が、私の肌に食い込む。
「私は、お前がオラントの尻拭いをしているのを、ずっと見てきた」
「……そうですか……。お見苦しいところをお見せしてしまい申し訳ございません」
「いや。見事だった。無能を無能と悟らせず、国家運営に支障が出ないよう裏で手を回す手腕。……あれは芸術だ」
イグニス殿下の顔が近づく。
整いすぎた美貌が、今はただの捕食者のそれに見える。
「私の元に来い、レイラ。補佐官として、そして妃として」
「妃!? 殿下、それは……」
「オラントの元婚約者? 関係ない。私が欲しいのは『レイラ・ウェリントン』という個だ。……公務も、それ以外の時間も、全て俺に寄越せ」
三者三様の、重すぎる執着。
彼らは「恋」などというフワフワした理由で私を求めているのではない。
私の「能力」と「実績」を正確に把握し、その上で「独占」しようとしているのだ。
ある意味、オラント殿下の婚約破棄よりもタチが悪い。
「あの……皆様。私は、田舎でスローライフを……」
「却下だ」
「無理だな」
「ダメです」
三人の声が重なった。
イグニス殿下が、私の背後の扉を閉め、鍵をかける。
カチャリ、という音が、私の自由の終わる音に聞こえた。
「諦めろ。お前ほど優秀な『道具』兼『愛し子』を、私たちが手放すと思うか?」
私は天井を仰いだ。
――大変なことになった。
オラント。
貴方の「無能さ」が、私をこんな猛獣たちの檻に放り込んでしまったのですよ。
「……業務命令、ということでよろしいのでしょうか」
私が震える声で尋ねると、三人は獰猛な笑みを浮かべた。
「業務命令か」
イグニス殿下は、私の問いに冷ややかな笑みで答えた。
「半分はそうだ。だが、もう半分は――私個人の『渇望』だと思え」
渇望。
一国の王太子が使うには、あまりに重く、そして粘着質な響きだった。
私は背筋が粟立つのを感じながらも、必死に思考を回転させる。
ここで彼らの要求を呑めば、私は一生、王宮という名の牢獄で、書類という名の鎖に繋がれることになる。
オラントの尻拭いから解放されたと思ったら、今度は国のトップ3の「お気に入り」として酷使されるなど、笑えない冗談だ。
「……恐れながら申し上げます」
私は震える足をドレスの中で踏ん張り、彼らを直視した。
「私はウェリントン公爵家の娘として、相応の教育を受けてまいりました。ですが、王太子殿下の補佐官や、騎士団の兵站管理、あまつさえ王子の家庭教師など、荷が重すぎます。適材適所という言葉がございます。どうか、もっとふさわしい方をお探しください」
完璧な断り文句だと思った。
謙遜しつつ、やんわりと拒絶する。
貴族社会の常套句だ。
しかし、目の前の三人は、私の言葉を鼻で笑った。
「ふさわしい人材?」
テオ殿下が、琥珀色の瞳を細めて一歩踏み出す。
その威圧感に、部屋の空気が軋むようだ。
「おいおい、レイラ。自分の価値を分かってないのか? それとも、とぼけてるのか?」
「とぼけてなど……」
「先月。南部の国境付近で発生した、魔獣の大量発生。あの時、現場の指揮官だった俺が要請した『増援物資』が、どれだけの速さで届いたか知ってるか?」
「……存じ上げませんが」
嘘だ。
知っている。
なぜなら、その手配をしたのは私だからだ。
オラントが「兄上が困っているらしい。適当に何か送っておけ。俺の株が上がる」と鼻をほじりながら言ったのを、私が独断で全力支援に書き換えたのだ。
テオ殿下は、私の嘘を見透かしたようにニヤリと笑った。
「要請から、たったの二日だ。通常なら一週間はかかる距離を、二日で物資が届いた。しかも、中身は俺たちが必要としていた解毒ポーションと、矢の補充が完璧な比率でな」
彼は私の目の前まで顔を寄せると、熱っぽい吐息を漏らした。
獣のような匂いがする。
「あの完璧なパズルのような輸送計画。あれを組んだのがオラントなわけがない。……お前だろ、レイラ」
「…………」
「補給部隊の連中が言ってたぞ。『指示書の筆跡が、第三王子のものではない。女性のような繊細な字だが、内容は軍神の指示のようだった』とな」
バレている。
完全に、バレている。
私は視線を逸らそうとしたが、今度は左側からウィル殿下が回り込んできた。
「僕も同じですよ、レイラさん」
彼は先ほどまでの跪いた姿勢から立ち上がり、私の手を取った。
その手つきは優雅だが、決して離さないという強い意志が指先から伝わってくる。
「外交文書の草案。特に、東方諸国との『魔導石輸出協定』に関する条文。第14条の『不測の事態における免責特権』の書き回し……あれは、オラント兄上の知能では100年かかっても書けません」
ウィル殿下は、うっとりとした表情で私の手を見つめた。
まるで、稀覯本のページをめくるような視線だ。
「あの条文は美しい。相手国のプライドを傷つけず、かつ我が国の利益を最大限に守る、氷の刃のような論理構成。……読んだ瞬間、僕は震えました。こんな文章を書ける人が、この城に埋もれているなんて」
「……買い被りです」
「いいえ。貴女は天才だ。そして、その天才が『無能な婚約者の影』に隠れて、ひっそりと国を支えていた。……なんて唆るシチュエーションでしょう」
ウィル殿下の碧眼が、暗く濁る。
それは、未知の知識を前にした学者のような、あるいは美しい蝶を標本にしようとする子供のような狂気を含んでいた。
「もう隠れなくていいんです。僕が、貴女のその知性を暴いてあげる。骨の髄まで、僕のために使ってください」
ゾクリ、とした。
この子、怖い。
普段は猫をかぶっているが、中身は間違いなく王族の血筋だ。それも……とてつもなく冷徹で、優秀な。
そして、トドメとばかりに、正面のイグニス殿下が口を開く。
「理解したか、レイラ。お前が隠してきた爪は、あまりに鋭すぎた」
彼は私の肩に手を置き、逃げられないように拘束した。
その指が、私の鎖骨をなぞるように動く。
ぞわぞわと鳥肌が立つ。
「オラントという蓋が外れた今、お前の才能は隠しきれない。他国に引き抜かれるか、あるいは……私たちに飼われるか。二つに一つだ」
「飼う、という表現は訂正していただきたいのですが」
「ならば『愛でる』と言い換えよう。どちらにせよ、お前の所有権は私にある」
イグニス殿下は宣言した。
「公務に戻れとは言わん。お前には、より高次な領域で働いてもらう。……私の執務室に来い。専用の机を用意してある」
「俺の騎士団にも席はあるぞ? 鍛え抜かれた男たちに囲まれて仕事するのも悪くはないだろ」
「僕の図書室が一番静かで環境が良いですよ。お茶もお菓子も用意させますから」
三人が同時に私を見る。
その目は、「どこの部位から食べようか」と相談する猛獣そのものだった。
私は悟った。
この三人を相手に抵抗は無意味だ。
ウェリントン公爵家の当主である父が、すでに私を売った(差し出した)以上、私に帰る家はない。
そして、この国で王族の命令に逆らえる人間はいない。
(……詰んだ)
私のスローライフ計画は、開始からわずか数時間で崩壊した。
私は深いため息をつき、諦めの境地で口を開いた。
「……分かりました。同行いたします。ですが、一つだけ条件がございます」
「ほう。言ってみろ」
「私の睡眠時間は、最低でも六時間を確保してください。それと、休日。週に一日は、完全に業務から離れる時間を頂きます。これだけは譲れません」
私が提示した条件に、三人は顔を見合わせた。
そして、可笑しそうに笑った。
「なんだ、そんなことでいいのか。オラントの元では、それすら無かったのか?」
「はい。平均睡眠時間は三時間でしたので」
「……あの馬鹿。やはり処刑しておくべきだったか」
イグニス殿下の目に冗談の色はなく、本当にやりかねない雰囲気を醸し出していた。
「いいだろう。約束する。その代わり、起きている時間は全て私に捧げろ」
「俺にだ」
「僕にです」
こうして。
私の身柄は、王家によって厳重に「保護(拘束)」されることとなった。
◇◆◇
王宮、中央政務棟。
その最上階にあるのが、イグニス殿下の執務室だ。
広々とした室内には、壁一面の書架と、高級な調度品。
そして、部屋の中央には巨大な執務机が置かれている。
イグニス殿下は私をその部屋に通すと、部屋の隅にある、真新しいデスクを指差した。
「そこがお前の席だ」
「……殿下の席の、真横ですね」
「ああ。監視もしやすいし、すぐに指示も出せる。完璧な配置だ」
距離にして2メートルもない。
これでは息をする音さえ聞こえてしまいそうだ。
「さて。早速だが、これを見ろ」
イグニス殿下は、自分の机の上に積み上げられた書類の山から、一束を手に取り、私に渡した。
「これは……?」
「財務省から上がってきた、来年度の予算案だ。赤字が出ている。どこを削るべきか、お前の意見を聞きたい」
試されている。
私は直感した。
彼らは私の能力を評価していると言ったが、それはあくまで「オラントの影」としての実績だ。
実際に目の前で、どれだけのことができるのか。
それを見定めようとしているのだ。
私は書類を受け取り、パラパラとページをめくった。
王国の国家予算。
その膨大な数字の羅列。
普通なら、読み解くだけで数日はかかる代物だ。
だが。
(……甘い)
私の目には、その書類が穴だらけのザルに見えた。
オラントの滅茶苦茶な浪費を隠蔽するために、帳簿を操作し続けてきた私にとって、正規の役人が作った予算案など、教科書通りの綺麗なパズルに過ぎない。
そして、綺麗なパズルには、必ず「無駄」という名の隙間がある。
私はインク壺にペンを浸し、躊躇なく書類に赤線を引き始めた。
「ここと、ここ。予備費の計上が重複しています。各省庁で個別にリスクヘッジをしているようですが、王宮全体で一括管理すれば、この30%は削減できます」
サラサラと書き込む。
「それから、この『式典用装飾費』。例年の実績を見る限り、使用されずに倉庫で腐っている在庫が山ほどあるはずです。新規購入を停止し、在庫管理を徹底させれば、ここはゼロにできます」
「……ほう」
「最大の無駄はここです。第三騎士団の遠征費。テオ殿下の第二騎士団とルートが被っています。合同演習という名目で相乗りさせれば、輸送コストは半減します」
私はわずか10分で、数百ページに及ぶ予算案の「贅肉」を削ぎ落とし、スリムな筋肉質のプランへと書き換えた。
ペンを置き、顔を上げる。
「いかがでしょうか」
イグニス殿下は、私が書き込んだ書類を手に取り、黙って見つめていた。
いや、見つめているのではない。
彼の指先が、私が引いた赤線を、まるで女性の肌を愛撫するようにゆっくりとなぞっている。
その沈黙が、少し怖い。
やりすぎただろうか。
やはり、でしゃばりすぎだと怒られるだろうか。
「……ハッ」
不意に、イグニス殿下が短く笑った。
見ると、彼は書類を持った手の指先を、わななかせていた。
怒っているのではない。
「素晴らしい……」
彼は、熱に浮かされたような声で呟いた。
「私が1日かけて精査し、ようやく見つけた問題点を、たった10分で……。しかも、私の想定以上の解決策まで提示してくるとは」
イグニス殿下は、書類を机に置き、私の手を取った。
その手は熱く、湿っていた。
「レイラ。やはりお前は『至宝』だ。この頭脳、この処理速度……。私の隣に置く以外、考えられん」
彼が私の手を強く握りしめる。
指と指を絡ませるような、粘着質な握り方だ。
「……美しい。この無駄のない筆跡、論理の運び……まるで君の肌そのものだ」
そう言って私を見る瞳は、獲物を前にした爬虫類のようにねっとりと潤んでいた。
「殿下、手が痛いです。それに、少し気持ち悪いです」
「ああ、すまない。……興奮した」
王太子殿下が「興奮した」などと言わないでいただきたい。
書類を見て興奮する変態が、ここにもいた。
その時。
バァン!
執務室の扉が開いた。
「兄貴! レイラを独占するなと言ったよな!?」
テオ殿下だ。
「僕も混ぜてくださいよ! レイラさんに見てほしい外交資料があるんです!」
ウィル殿下も一緒だ。
二人は私の机に殺到すると、それぞれ持ってきた書類の山をドン! と置いた。
「レイラ、これを見てくれ。騎士団のシフト表だ。どう組んでも休みが取れない小隊が出る。お前のパズル脳で何とかしてくれ」
「レイラさん、こっちが先です。隣国からの親書なんですが、行間の皮肉が読み解けなくて……」
右から筋肉。
左から知性。
正面から権力。
私の机は一瞬で書類の要塞と化した。
「……あの、皆様。私の勤務条件に『適度な休憩』も入れたはずですが」
「休憩? ああ、そうだな」
テオ殿下が、私の腰に手を回し、自分の方へ引き寄せた。
「なら、俺の膝の上で休むか? 鍛え上げた大腿四頭筋だ、そこらの高級クッションより弾力があって座り心地いいぞ?」
言いながら、彼は服の上からでも分かる分厚い胸板に私の頭を押し付けた。
ドクン、ドクンと、心臓の音がうるさいほどに響いている。
筋肉が硬すぎて、逆に痛い。
「いいえ、僕が肩をお揉みします! その代わり、耳元で古代語の朗読をしてください」
ウィル殿下が背後から私の首筋に顔を埋めるように近づく。
スゥ、と深く鼻を鳴らす音が聞こえた。
「ん……インクと紙の匂いがする。最高の香りだ……。ねえレイラさん、耳元で朗読をしてください。その声で脳が溶けそうなんです」
「貴様ら、離れろ。レイラは私の補佐官だ。私のコーヒーを淹れる権利を行使させてやる」
……ヤバい。
ここは……ただの「高密度ブラック労働」であり、同時に「変態たちの巣窟」なのでは……。
私は遠い目をしながら、ペンのインクを補充した。
これが、私が望んだ未来だったのだろうか。
いや、違う。
絶対に違う。
だが、私の有能さが招いた結果だと言われれば、反論できないのが悔しいところだ。
◇◆◇
一方その頃。
レイラが去った後の「第三王子執務室」では、地獄の釜の蓋が開こうとしていた。
主であるオラントは、優雅にソファに寝そべり、ワインを傾けていた。
「あー、せいせいした! あの口うるさい女がいなくなって、空気が美味い!」
「そうですわね、オラント様。これで私たちの愛を邪魔するものは何もありませんわ」
新しい婚約者となった男爵令嬢リリナが、彼の胸に顔を埋める。
「ああ。これからは俺の思うがままだ。まずは例の『黄金の像』を作らせよう。設計図はどこだっけな」
「まあ素敵! 完成したら、毎日二人で眺めましょうね」
二人が甘い時間を過ごしていた、その時。
ノックもなしに、部屋の扉が開いた。
「失礼します」
入ってきたのは、財務省の役人だった。
無表情で、手には分厚い請求書の束を持っている。
「なんだ、貴様。今は俺とリリナの安らぎの時間だぞ。邪魔をするな」
「緊急の確認事項がございます、オラント殿下。……こちらの請求書ですが、決済が滞っております」
「請求書? そんなもの、レイラに回しておけ」
オラントは手で追い払う仕草をした。
今まで、面倒な手続きは全てレイラが処理していた。
彼はただ、最終的なサインをするだけで良かったのだ。
だが、役人は動かない。
冷ややかな目で、オラントを見下ろしている。
「レイラ・ウェリントン様は、昨日付で婚約破棄され、この部屋を出て行かれました。……殿下ご自身が、追い出されたのではありませんか」
「あ、ああ、そうだった。……チッ。とっとと持ってこい」
オラントは面倒くさそうにペンを取った。
どうせ、いつものような形式的なものだ。
しかし、役人が差し出した請求書の金額を見て、彼の目が飛び出た。
「な……っ!?」
「金貨、五万枚……!? なんだこれは!」
「先月の、殿下の個人的な遊興費、及び装飾品購入費、そしてリリナ嬢への贈答品代の合計です」
「ば、馬鹿な! いつもはこんな額にはならないぞ! 金貨五百枚程度のはずだ!」
「いいえ」
役人は淡々と告げた。
「いつもは、レイラ様が裏で業者と交渉し、値を切り詰め、あるいは公爵家の私財を投じて補填し、殿下の目に触れる金額を『殿下が理解できる範囲』まで圧縮していたのです」
「……は?」
「つまり、これが本来の金額です。支払期限は明日。……払えますね?」
オラントの顔色が、赤ワインから白ワインのように青ざめていく。
「は、払えるわけがないだろう! そんな金、どこにある!」
「払えなければ、王族費からの天引きとなります。……向こう十年間、殿下の小遣いはゼロですね」
「ゼロ……!?」
「それと、こちらの書類も」
役人はさらに、山のような書類をドサリと置いた。
「来週の視察計画書、再来週の夜会の招待客リスト、そして『黄金の像』建設に伴う環境影響評価書です。全て、本日中に決裁をお願いします」
「な、なんだその量は! レイラはいつも、一枚の紙にまとめて持ってきたぞ!」
「レイラ様は、この量の資料を全て読み込み、要点を一枚にまとめてくださっていたのです。……殿下には、それができませんか?」
役人の言葉には、隠しきれない侮蔑が含まれていた。
彼らはレイラがどれだけ優秀な人材だったか、レイラがどれほど身を粉にして働いていたか、一番理解している。
それ故、そのレイラをゴミのように捨て、見るからに脳のない顔だけの男爵令嬢へと即座に乗り換えた。
二人を見るに、その関係は昨日今日始まったばかりではない。
レイラには仕事を押し付け、自分は何年も前から、この『本命』の女と関係を持っていたのだろう。
役人は、どこまでも幼稚で無能なオラントに嫌気がさしていた。
「ぐ、ぬ……」
オラントは、目の前の書類の山を見た。
文字がびっしりと書かれている。
読もうとしただけで、頭痛がした。
「リ、リリナ! お前、手伝え!」
「ええ? 私、難しい字は読めませんわぁ。頭が痛くなっちゃう」
リリナ嬢はプイと顔を背けた。
彼女に実務能力などない。
あるのは、整った顔と男に媚びる甘ったれた能力だけだ。
「くそっ……くそっ! なんだこれは! どうなっているんだ!」
オラントは頭を抱えた。
レイラがいなくなって、せいせいしたはずなのに。
それなのに、彼の世界は音を立てて崩れ始めていた。
「レイラ……。あいつ、こんな面倒なことを一人でやっていたのか……?」
初めて湧き上がる、元婚約者への認識。
だが、それはあまりにも遅すぎた。
「失礼します」
役人は冷たく一礼し、部屋を出て行った。
残されたのは、絶望的な金額の請求書と、解読不能な書類の山。
そして、役に立たない浮気相手。
「……誰か、誰かいないのか! 俺を助ける奴は!」
オラントの悲痛な叫びが、虚しく響いた。
◇◆◇
私は王宮の最上層、王太子執務室にて、悲鳴を上げそうになっていた。
「ほら、レイラ、口を開けろって」
「……お断りします」
「最高級の焼き菓子だ。糖分は脳の働きを助けるぞ。ほら、あーん」
「テオ殿下、仕事の邪魔です。インクがずれます」
私の右側には、騎士団長であるテオ殿下が陣取っていた。
彼は先ほどから、執務机の横に椅子を持ってきて座り込み、頼んでもいないのに私にお菓子を食べさせようとしてくる。
あの硬派で武骨なテオ殿下が、まるで愛玩動物を餌付けするような目で私を見ているのだ。
時折、私の二の腕をぷにぷにと触ってくるのはやめていただきたい。
「テオ兄上、抜け駆けはずるいですよ。レイラさん、お茶が入りました。東方の茶葉です。香りが落ち着きますよ」
「ありがとうございます、ウィル殿下。ですが、そこに置くと書類が濡れるリスクが……」
「大丈夫、僕が飲ませてあげますから」
左側には、ウィル殿下。
彼は私の膝にブランケットを掛け、足元には温められた魔石を配置し、さらに紅茶を口元まで運んでくるという過保護ぶりだ。
隙あらば、私の髪の匂いを嗅ごうとするのは気のせいだろうか。
いや、気のせいではない。今もスンスンという音が聞こえた。
そして、正面。
「……ふむ」
イグニス殿下は、自分の仕事を放り出して、頬杖をつきながら私を凝視していた。
その視線は、私がペンを走らせるたびに熱を帯びていく。
まるで、ペンの動きに合わせて自分の指を動かしているようだ。
「レイラ。その書類、処理が終わったのか?」
「はい。先ほど渡された『地方税制の改革案』ですが、第3項の免税条件に抜け穴があります。修正しておきました」
私は赤いインクで修正した羊皮紙を差し出した。
イグニス殿下はそれを受け取ると、修正箇所を目で追い、深く満足げな吐息を漏らした。
「完璧だ……。私が意図していた修正案よりも、さらに一歩先を見据えている。この条文ならば、貴族院からの反発も最小限に抑えられるな」
「当然です。貴族院の古狸たちが何を懸念するかなど、オラント殿下の尻拭い時代に嫌というほど学習しましたから」
「ふっ……。やはりお前は良い。私の補佐官として、これ以上の人材はいない」
イグニス殿下は立ち上がり、私の背後に回った。
そして、私の肩に手を置き、耳元で囁く。
「どうだ、レイラ。このまま私の専属になれ。オラントの元では味わえなかった『正当な評価』と『報酬』を与えよう」
「報酬と申しましても、今はただの拘束労働ですが」
「拘束ではない。保護だ。……それに、お前も満更ではないはずだ。自分の能力が、何の阻害もなく十全に発揮できる環境が」
痛いところを突かれた。
確かに、ここでの仕事は快適だ。
オラントの時は、「なぜそれが必要なのか」を説明するだけで三日かかり、結局理解されずに却下されることも多々あった。
だが、ここでは違う。
私が「A」と言えば、イグニス殿下は即座に「B」まで理解し、テオ殿下が「実行部隊」を用意し、ウィル殿下が「法的根拠」を揃えてくる。
阿吽の呼吸。
ストレスフリーな意思疎通。
仕事人間として、これほど心地よい環境はない。
……周りの三人が、隙あらば私に触れようとしたり、重すぎる視線を向けてくることを除けば。
しかし……これだけ優秀な兄弟に挟まれて、よくあんな無能が生まれたものだ。
才能の全てを兄弟たちに吸い取られたんだろうか。
「さて、レイラ。そろそろ休憩は終わりだ」
イグニス殿下が時計を見た。
時刻は夕刻。
窓の外はすでに薄暗くなっている。
「今夜は、隣国との『通商条約調印式』がある。お前も来い」
「……はい?」
私は手を止めた。
「調印式への出席者は、王族と担当大臣のみのはずですが」
「本来ならな。だが、今回の担当者は誰だか覚えているか?」
「……オラント殿下、ですね」
嫌な予感がした。
この条約は、半年前から私が――形式上はオラントが――進めてきた重要案件だ。
隣国との関税を撤廃し、物流を活性化させる。
そのための膨大な資料作成、相手国との折衝、根回し。
全て私がやった。
オラントは、今日、サインをするだけの役回りだ。
「オラントの奴、どうせ条文の中身を一行も読んでいない。……大使の前で恥をかくぞ」
テオ殿下が呆れたように言った。
「恥をかくのは勝手ですが、国益を損なうのは困ります。……分かりました、同行します。私が裏でフォローすれば……」
「いや」
イグニス殿下は、私の言葉を遮った。
彼は壁際のクローゼットを開け、そこから一着のドレスを取り出した。
深紅のベルベットに、金糸の刺繍が施されたイブニングドレス。
ウェリントン公爵家の家紋ではなく、王家の紋章がさりげなくあしらわれている。
「裏方ではない。……今夜、お前は私の『パートナー』として出席しろ」
「はいぃ!?」
「これは命令だ。着替えろ。ウィル、髪を整えてやれ。テオ、護衛の準備を」
「了解」
「お任せください。レイラさんを世界一美しくしてみせます」
拒否権など、最初からなかった。
私は三人の王子によって、着せ替え人形のように飾り立てられることになった。
◇◆◇
王宮、『鏡の間』。
煌びやかなシャンデリアの下、国内外の有力者たちが集っていた。
今夜の主役は、隣国から訪れた特命全権大使と、第三王子オラントだ。
しかし、会場の空気は妙に重かった。
「……それで、オラント殿下。先ほどの第5条についてですが」
老練な大使が、眉をひそめて問いかける。
「え? あ、ああ、第5条ね。うん、いいんじゃないか? 俺は賛成だぞ!」
オラントは、グラスを片手にヘラヘラと笑っていた。
その額には、脂汗が滲んでいる。
「……殿下。第5条は『紛争時の賠償責任』に関する条項です。これを『いいんじゃないか』で済ませると、我が国が一方的に不利益を被る可能性がありますが」
「えっ? そ、そうなの? いや、でも、レイ……いや、前の担当者は何も言ってなかったし!」
「前の担当者?」
大使の目がスッと細められた。
オラントの隣には、昨日からべったりのリリナ嬢がいるが、彼女は何の話か分からず、ただニコニコしているだけだ。
「おい、どうなってるんだ……」
オラントは小声で呟き、周囲を見回した。
いつもなら、自分の斜め後ろに、地味な色のドレスを着たレイラが控えているはずだった。
そして、困った時は目配せ一つで、的確な助け舟を出してくれたはずだった。
だが、いない。
どこにもいない。
(くそっ、あの女! 婚約破棄したとはいえ、こんな大事な日にバックれやがって! 普通は来るだろ! 業務引継ぎ書? あんな分厚いもの読めるかよ!)
オラントは焦っていた。
自分が「無能」であることなど露ほども思っていないが、「不便」であることは痛感していた。
レイラという便利な道具がないと、簡単な会話すら成立しないのだ。
「オラント殿下。……貴国は、この条約を軽視されているのですかな?」
大使の声が低くなる。
会場の貴族たちがざわめき始めた。
「まずいぞ……」
「第三王子殿下、また内容を把握されていないのでは?」
「レイラ様がいらっしゃらないから……」
その空気に耐え切れず、オラントが叫ぼうとした時だった。
「――お待たせいたしました」
凛とした、よく通る声が響いた。
会場の入り口。
重厚な扉が開かれ、一組の男女が入場してくる。
その姿を見た瞬間、会場中の視線が釘付けになった。
先頭を歩くのは、王太子イグニス殿下。
冷徹な美貌に、王者の風格を漂わせている。
そして、その腕に手を添え、優雅に歩を進める美女。
深紅のドレスを纏い、髪を美しく結い上げたその女性は、会場の誰よりも洗練され、知的な輝きを放っていた。
「レ、レイラ……!?」
オラントが驚愕する。
そこにいたのは、彼が「地味でつまらない」と切り捨てたはずの元婚約者。
レイラ・ウェリントンだった。
だが、今の彼女は地味ではない。
王太子という最高の宝石の隣で、それに劣らぬ輝きを放つ「至宝」そのものだった。
「遅れて申し訳ありません、大使閣下」
イグニス殿下が、大使の前に進み出る。
「弟が不勉強でご迷惑をおかけしました。ここからは、王太子である私が引き継ぎます。……そして」
イグニス殿下は、隣のレイラを掌で示した。
「本条約の実務責任者であり、私の新しい『筆頭補佐官』である、レイラ・ウェリントン嬢です」
「……お初にお目にかかります、閣下」
レイラは完璧なカーテシーをした。
その動作一つで、場の空気が引き締まる。
「おや、貴女が……?」
大使の表情が和らいだ。
「貴女が、あのウェリントン公爵家の才媛ですか。私が受け取った条約案の草稿、拝見しました。実に素晴らしい論理構成だった。特に第14条の配慮には、我が国の王も感嘆しておりましたよ」
「恐縮です。両国の未来のため、最善を尽くしたまでです」
「ほほう。……オラント殿下とは大違いだ」
大使はチラリとオラントを見た。
その目は、完全に「ゴミ」を見る目だった。
「な、な……っ!」
オラントは顔を真っ赤にして震え出した。
プライドが。
彼の肥大化したプライドが、公衆の面前でズタズタに切り裂かれていく。
自分が捨てた女が、自分よりも遥かに上の立場の男にエスコートされ、自分よりも遥かに上の評価を受けている。
「ふ、ふざけるな!」
オラントは我を忘れて叫んだ。
「レイラ! 貴様、そこで何をしている! 貴様の主人はこの俺だぞ! 捨てられた男の兄に取り入ったのか!? どれだけ尻軽なんだ!」
彼はツカツカとレイラに歩み寄り、その腕を掴もうとした。
「戻ってこい! 俺の許可なく兄上の隣に立つなど……!」
ガシッ。
オラントの手が、空中で止まった。
彼の手首を掴んだのは、いつの間にか背後に立っていた、第二王子テオだった。
「……おい、愚弟」
テオ殿下の声は、地獄の底から響くように低かった。
琥珀色の瞳が、獰猛な獣のように細められている。
「俺の女神に、その汚い手で触れるな」
「テ、テオ兄上……!?」
「痛いか? だが、レイラが今まで受けてきた心の痛みに比べれば、こんなもの蚊に刺された程度だろ」
テオ殿下は、オラントの手首をギリギリと締め上げた。
骨の軋む音が聞こえる。
「ひぃっ!?」
「オラント兄上。見苦しいですよ」
さらに、ウィル殿下が涼しい顔で割って入る。
「貴方は、ご自分の口で『婚約破棄』を宣言されたはずです。全貴族の前で、彼女を追放すると仰いましたよね?」
ウィル殿下は、にっこりと笑った。
「所有権を放棄したのは貴方です。捨てられた宝石を、誰が拾おうと勝手でしょう? 例えそれが、我々兄弟だったとしても」
正論。
ぐうの音も出ない正論だった。
オラントは、兄と弟、そして周囲の冷ややかな視線に囲まれ、立ちすくんだ。
「だ、だって……こいつがいないと、何も分からないんだ! 俺の書類は誰が書くんだ! 俺の失敗は誰が隠してくれるんだ!」
もはや自白だった。
自分の無能さを、大声で世界に発信しているようなものだ。
会場から失笑が漏れる。
「……聞いたか? やはり今までの功績は全てレイラ様だったのか。あんな無能な男にあれほどの仕事ができるのはおかしいと思っていたんだ」
「第三王子はただの飾りだったわけだ」
「婚約破棄されてちょうど良かったのでは? あのような男にレイラ様は勿体ない」
周囲の反応は意外なものだった。
レイラはオラントから嫌われるため、悪役令嬢として振舞って来たつもりだったが、その仕事の丁寧さと聡明さから、賢い人間は彼女のことを高く評価していたのだ。
そして、その囁きは、オラントの耳にも届いただろう。
彼は顔面蒼白になり、助けを求めるようにレイラを見た。
「レ、レイラ……。お前、なんとか言ってくれよ。俺たちは愛し合っていただろ? なぁ、戻ってきてくれよ。今なら許してやるから……」
この期に及んで、「許してやる」という上から目線。
私は小さくため息をつき、イグニス殿下を見上げた。
イグニス殿下は、「好きにしろ」と目で合図をくれた。
私は一歩、前に出た。
そして、オラントに向かって、業務的な微笑みを向けた。
「オラント殿下。大変申し上げにくいのですが」
「な、なんだ? 戻ってきてくれるのか?」
「私、現在の職場環境に大変満足しております」
「は?」
「有能な上司、頼れる同僚、明確な指示系統。……そして何より、『私の仕事を理解してくれるパートナー』。これらを手放してまで、泥舟に戻る理由はございません」
「どうぞ、リリナ嬢と二人で、その沈みゆく船の旅をお楽しみくださいませ」
それが、最後通告だった。
オラントは膝から崩れ落ちた。
大使は興味なさげに彼から視線を外し、イグニス殿下と私に向き直った。
「さて、イグニス殿下、レイラ嬢。調印式を始めましょうか。……有意義な時間になりそうですな」
「ええ、閣下。我が国としても、最良の結果をお約束します」
私たちはオラントを置き去りにして、調印台へと向かった。
背後で、「あああぁぁぁ!」という情けない絶叫が聞こえたが、誰も振り返る者はいなかった。
私は私で、馬鹿な第三王子に引導を渡し、少しだけスッキリした。
だが。まだ最大の問題が残されている。
私にとっては、これが新たな「監禁生活」の始まりであることを、背後に控える三人の王子の熱っぽい視線が物語っていたからだ。
◇◆◇
外交パーティーでの騒動から、一夜が明けた。
私は王太子執務室で、優雅に朝のコーヒーを味わっていた。
最高級の豆を使い、最適な温度で淹れられた一杯。
これを用意したのは、私の左隣で分厚い法典を読んでいる第四王子、ウィル殿下だ。
「レイラさん、お砂糖は? ミルクは? 僕が混ぜましょうか?」
「いえ、ブラックで結構です。……それよりウィル殿下、ご自分の勉強に戻られては?」
「貴女を見ている方が勉強になりますから」
にっこりと微笑む美少年。
右隣では、第二王子のテオ殿下が、私の添削した騎士団予算案を食い入るように見つめている。
「凄まじいな……。予備費の計上トリック、こんな手が使えるのか。これなら新型の装備が買えるぞ」
「脱法行為ではありませんよ、テオ殿下。あくまで法の抜けあ……いえ、解釈の多様性を利用しただけです」
そして正面には、この国の王太子、イグニス殿下。
彼は決裁書類にサインをしながら、時折、値踏みするような視線を私に送ってくる。
平和だ。
業務量はオラントの頃の三倍だが、ストレスは十分の一以下。
有能な人間に囲まれるというのは、これほどまでに快適なのか。
その静寂が破られたのは、時計の針が十時を回った頃だった。
コンコン、と扉が叩かれる。
入室を許可されると、侍従長が早足で入ってきた。
「王太子殿下! 緊急のご報告がございます!」
「騒がしいな。何事だ」
イグニス殿下がペンを置く。
侍従長は、私を一瞬チラリと見てから、意を決したように告げた。
「東の離宮……第三王子殿下の執務室にて、騒乱が発生しております」
「騒乱? オラントがか?」
「はい。今朝より、大勢の商人と金貸しが離宮の門に殺到し、『オラント殿下に金銭を騙し取られた』と訴えております。彼らは正規の発注書を持っており、収拾がつかない状態です」
その報告に、テオ殿下が眉をひそめた。
彼は無意識に自分の胸筋をポンと叩いた。
「発注書? オラントの資産は昨日、陛下が凍結したはずだろ。サインしても無効な紙切れだ。業者がそれに気づかないはずがない」
「それが……業者たちが持っているのは、日付が『昨日』の発注書なのです。資産凍結の命令が出る直前の時刻が記されており、形式上は有効に見えます」
「なんだと?」
イグニス殿下が目を細める。
「だが、財務省は支払いを拒否したのだろう? だから騒ぎになっている」
「はい。財務官は『手続きの不備』を理由に却下しました。オラント殿下は『俺のサインがあるのになぜ金が出ない!』と激昂し、業者は『詐欺だ!』と暴れ……現在は近衛兵が出動する事態になっております」
室内に、重苦しい空気が流れる。
オラントのサインがあり、資産凍結前の日付なのに、金が出ない。
そんな奇妙な状況に、三人の王子が首を傾げる中、私は静かにカップを置いた。
カチャリ、という音が響く。
「……手続きの不備、ですか。財務官も優秀ですね。私の『引継ぎ書』を正しく理解しているようです」
私の呟きに、全員の視線が集まる。
「レイラ。……どういうことだ?」
イグニス殿下が問う。
「簡単なことです。私は在職中、オラント殿下の浪費を抑えるため、財務省の内規に一つの条項を追加しておきました」
私は引き出しから、一冊のファイルをウィル殿下に差し出した。
「ウィル殿下。王家財務規定の第142条、特則項目の3を読み上げていただけますか?」
「え? あ、はい」
ウィル殿下は素早くファイルを受け取り、該当箇所を開いた。
その目が、驚愕に見開かれる。
「……『第三王子宮における金貨百枚以上の支出に関しては、その正当性を担保するため、筆頭補佐官レイラ・ウェリントンの副署を必須とする。副署なき決裁は、たとえ王族の署名があろうとも無効とする』……!?」
ウィル殿下は顔を上げ、震える声で言った。
「こ、これ……王族のサインより、レイラさんのサインの方が上位にあるってことですか?」
「実質的にはそうなります」
私は涼しい顔で頷いた。
「オラント殿下は文字を読むのを嫌がりますから、この規定の存在をご存じありません。私が去った後に『これで自由に金が使える』と浮かれて、大量の発注書にサインをなさったのでしょうが……私の副署がない以上、それらは全て紙屑です」
「……えげつないな」
テオ殿下が呆れたように、しかし楽しそうに口笛を吹いた。
「自分がいなくなった後、オラントが自滅するように時限爆弾を仕掛けていたのか」
「人聞きが悪いですね。これは『安全装置』です。使用者が愚かすぎて誤作動を起こしただけです」
イグニス殿下は、しばらく私を凝視していたが、やがて低い声で笑い出した。
「くっ……ははは! 見事だ。オラントは『王族』という権威があれば何でも通ると思っていたのだろうが、お前はそれを『実務』という鎖で縛り付けていたわけか」
「それで、侍従長。オラントはどうなった?」
笑いを収めたイグニス殿下が、続きを促す。
侍従長は、さらに言いにくそうに口を開いた。
「は、はい……。支払いができないと分かった瞬間、同席していたリリナ男爵令嬢が……その……豹変なさいまして」
「ほう?」
「オラント殿下の頬を平手打ちし、『甲斐性なしの詐欺師!』と罵倒されたそうです。『私の時間を返して!』と叫びながら、殿下が身につけていた宝飾品をむしり取り、そのまま逃亡されました」
「ぶっ!」
テオ殿下が吹き出した。
「傑作だな! あの猫なで声の女が、オラントを殴ったか!」
「はい。オラント殿下は呆然とされており、抵抗もせず……その後、騒動を鎮圧した近衛兵によって拘束されました。現在は地下牢に移送され、陛下からの『幽閉処分』の沙汰を待っている状態です」
報告は以上です、と侍従長は深く頭を下げた。
執務室に、静寂が戻る。
オラントの破滅。
それは、私が手を下すまでもなく、彼自身の愚かさと、私が残した「正論のルール」によって完遂された。
「……終わりましたね」
ウィル殿下が、静かにファイルを閉じた。
「レイラさん。貴女は本当に……恐ろしい人だ。魔法も剣も使わずに、一国の王子を社会的に抹殺してしまうなんて」
彼の瞳には、恐怖よりも強い、崇拝の色が宿っていた。
「僕、決めました。絶対に貴女を敵に回さない。……その代わり、一生僕の味方でいてくださいね? 貴女を敵に回してしまえば、怖くて夜も眠れないです」
彼はすがりつくように私の腕を抱きしめた。
甘い笑顔の裏にある、底知れない独占欲が見え隠れする。
「俺もだ。お前を敵に回したら、俺の騎士団なんて三日で兵糧攻めにされて全滅しそうだ」
テオ殿下が、降参するように両手を上げる。
そして、イグニス殿下は立ち上がり、私の元へと歩み寄ってきた。
「レイラ」
彼は私の手を取り、その甲に口付けた。
唇の感触が、じっとりと長く残る。
「オラントは消えた。だが、お前のその才覚は、消すには惜しい。……改めて命じる」
真紅の瞳が、私を射抜く。
「私の元で、その力を振るえ。お前が望むなら、法も、予算も、この国のすべてをお前の計算通りに書き換えていい」
「……それは、王太子殿下としての発言ですか?」
「いや。お前に惚れ込んだ、一人の男としての言葉だ」
甘い言葉。
だが、その裏にあるのは「もう二度と逃がさない」という鉄の意志だ。
三人の視線が、私に絡みつく。
テオ殿下の熱っぽい野生の視線。
ウィル殿下の冷たくも狂気じみた崇拝の視線。
そして、イグニス殿下のすべてを支配しようとする王者の視線。
私は小さく息を吐き、三人の王子を見回した。
無能な元婚約者はいなくなった。
代わりに、私を高く評価し、過剰なまでに執着し、そして膨大な仕事を与えてくる三人の「有能な暴君」たちが残った。
自由はない。
スローライフも夢のまた夢だ。
けれど。
(……悪くはない、か)
私の能力が、誰かの尻拭いではなく、未来を作るために使われるのなら。
それに、彼らの執着から逃げ出すための計算式を考えるのも、また一興かもしれない。
私はイグニス殿下の手を握り返し、不敵に微笑んだ。
「承知いたしました、殿下。では早速ですが、オラント殿下の幽閉に伴う事後処理と、リリナ嬢への損害賠償請求の手続きを始めましょう。……私、仕事はきっちりとこなす主義ですので」
「……待て。仕事の前に、まずは『前金』の支払いが必要だな」
イグニス殿下がパチンと指を鳴らすと、控えていた侍女たちがワゴンを押して入ってきた。
そこには、山盛りの宝石と、見たこともないような高級菓子が並んでいる。
「給金はオラント時代の十倍を約束しよう。さらに、王室専属の最高級エステとマッサージ師もつけよう。お前の肩こりは国益に関わるからな」
「じ、十倍……それにエステも、ですか?」
私の目が現金にも輝いたのを見て、テオ殿下がニカっと笑った。
「移動も歩く必要はない。俺が専用馬車だ」
言うが早いか、テオ殿下は私の体を軽々と持ち上げ、いわゆる「お姫様抱っこ」の体勢に収めた。
鋼のような腕は安定感抜群で、高級ソファよりも座り心地が良い。
「あーんしてください、レイラさん。南国産の完熟マンゴーですよ。糖分補給しましょうね」
ウィル殿下が、とろけるような果肉を私の口元に運んでくる。
甘い。
そして、快適すぎる。
ブラック労働かと思ったが、これは……実は、「超・高待遇の溺愛監禁」ではないだろうか?
三人の王子が、私の反応を見て満足そうに目を細める。
窓の外には、どこまでも青い空が広がっていた。
ここからは、彼らとの「共犯関係」が始まるのだ。
そして、三人の王子からの逃げ場のない熱烈な求愛も。
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詳しい投稿スケジュールは「活動報告」にて公開します。
(フォロワー様には通知が飛ぶと思いますので、ぜひチェックしてください!)
ひとまず本編は完結となりますが番外編もございます。
【番外編】
• イグニス殿下編
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• テオ殿下編
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