8-35.吸血鬼の正体
浩一は尾行に気づく様子はない。その余裕すらないくらい思い詰めた顔をしている。
鍵は持っているらしい。けれど、どうも様子が変だ。開かずの間の鍵でも大学の部屋なら厳重に管理されていて、それがどこの鍵であるかを示すタグがついているはず。それも、紛失しにくいように大きめのものが。
それがなかった。
非正規の方法で作った合鍵だから、ないのだろうな。一時的に鍵を盗んで、複製してもらってから返したとか。誰かに怪しまれないように。自由に出入りできるように。
浩一はその鍵で、音を立てないようにゆっくりとロックを外した。
さらに扉の取っ手である窪みに手を触れた状態でしばらく逡巡した後、意を決した様子で扉を勢いよく開けて中に踏み込んだ。
「教授!」
彼は中にいる誰かに呼びかけた。さっきまでは人に見つからないように気をつけていたのに、その方針をかなぐり捨てるように。
中に入って扉から手を離した浩一。扉が閉まり切る前に、美穂は駆け寄って取手を掴んだ。そして中に入る。
倉庫の天井にも古そうな照明がつけられていて、中を薄暗く照らして、その異様な光景を見せつけていた。
この倉庫に元々は何が入れられていたかは、美穂の知ることではない。けど、誰かによって大幅に模様替えさせられていたらしい。
いくつもの水槽が並んでいる。その中にいるのは、全て藻だった。水槽内に波が立つことはないが、ポンプから供給される酸素の泡を受けてゆらゆらと揺れていた。
それが立ち並ぶ一角に、人が立っていた。初老に入ったようなその男性は、教授と呼ばれて振り返った。つまり、浩一に教えを授ける立場の者。
その足元に、もうひとつ人影が。ただし、生きてはいないように見えた。ぐったりと力なく横たわっている死体は女性のものに見えた。
だんだん薄暗さに慣れてきた目が、それが誰なのか美穂に示す。そうだ、この時期は予定もなく、暇なはずなのにメッセージを送っても返事がなかったあの子が、死んでいた。
口から悲鳴が漏れた。それで、対峙していた浩一と教授が振り向いた。
「美穂!? なんでここに!? 大学には来るなって言ったのに」
「死ねぇ!」
「!?」
ドタドタと、どこか鈍臭い印象を与えるような足音と共に、教授が駆け寄ってきた。狙うのは浩一だ。手には金槌が握られていた。
浩一も素早く反応して、振り下ろされた金槌を避けることはできた。けど、バランスを崩して倒れてしまう。持っていたバールも落としてしまった。
覆いかぶさるように、教授は浩一の体を押さえつけて、今度こそ金槌で脳天をかち割ろうと試みる。浩一は両腕を振り回して、なんとか阻止していたけれど、危険そうだ。
「浩一!」
「美穂逃げろ! 人を呼んでくれ! ここに人殺しがいるって! 教授が連続殺人犯だってみんなに伝えてくれ!」
「え?」
「吸血鬼の正体は教授だったんだ!」
上に乗られている状態で、なんとか教授の両腕を掴んで力比べをしている浩一が必死に叫ぶ。
彼は殺人犯の正体に気づいて、止めるためにここに来たっていうこと?
彼は何も悪くなくて、わたしが一方的に疑ってしまってたの?
助けないと。恋人を。けど、どうしよう。必死の形相の教授は力比べに勝ちそうな気迫をしていて。すぐに助けに行かないと。けど、浩一は人を呼んでこいって。どうすればいいの?
「全員動かないで! そこまでよ!」
その時、声が聞こえた。
知っている警官の声だった。
――――
樋口は大学まで車を飛ばして急行し、けれどどこに行けばいいのか見当はつかなかった。
とりあえず理学部棟へ向かったところ、そこで悲鳴を聞いた。土居浩一たちの研究室がある上階ではなく、なぜか階段の下から。
何か起こっていると悟って、すぐに階段を駆け下りて開きっぱなしの倉庫の中に踏み込んだ。そして、争いの現場を目にした。それから、混乱して立っているだけの美穂と、ひとつの死体。知らない顔だ。
水槽がずらりと並んでいる異様な光景に少し怯みながらも、警官としての義務を果たすべく声をかけた。
「樋口さん……」
美穂が安堵した表情を見せて、安心して力が抜けたのかその場に座り込んだ。彼女に優しい言葉でもかけてあげたいところだけど、そんな場合ではない。無実の人間が襲われてる最中なんだ。
第三者の登場に怯む様子もなく、教授はなんとか浩一を殺そうとしている。凶行の目撃者全員を殺せば、自分は研究ができると考えているのか。
そう。彼が殺人犯。吸血鬼モフミドロの正体。表向きは真っ当な研究をしつつ、この地下倉庫にも研究施設を密かに作り、人の血を用いた研究をひとりで進めていた。
動機は、学会でのさらなる栄光とかかな。愛奈の話では、若くして教授まで上り詰めたものの、その後のキャリアには行き詰まってたみたいだし。
「やめなさい! あんたの悪事はもうバレてるの!」
決して愚鈍ではない頭脳の持ち主に駆け寄りながら、横っ面を思いっきり蹴飛ばす。
浩一の体の上から教授が転がり落ちた。とりあえず、この善良な若者の生命の危機は切り抜けられた。教授はといえば、すかさず立ち上がり金槌を振りかぶって突進してくる。
初老の男であっても、腕力は向こうの方が上だろうな。けど、勝てない相手ではない。
いつか悠馬に教えた通りだ。大事なのは力の使い方。




