8-21.彼方も一緒に
「あの……浩一。研究室で、その。血を栄養にする藻がいるって、前に教えてくれたけど」
「例の噂のことか?」
一瞬だけ、彼の眼差しが険しくなった。
すぐに、いつもの通りの優しい顔に戻ったけど。
「教授と先輩たちはそんな研究してるけど、人の血なんか使わない。牧場に、牛の血を貰う契約をしてるから。噂になっているみたいに、人間を襲って血を奪って藻にあげるなんてことはしていない」
「そ、そう。だよね。ごめんなさい。変なこと訊いちゃった」
そうだ。浩一がそんなことをするはずがない。
もう少し他愛のない話しをして、短時間で喫茶店を出た。
早く帰った方がいいよと気遣う美穂を押して、ちゃんと彼女を家まで送ってから彼は帰っていく。
今日はちゃんと寝るから。安心させるように言っていた。
その少し後にも、浩一からメッセージ。今日は楽しかった。おやすみ。言いつけどおりにベッドに入ったのか、美穂の返信に既読ははつかなかった。
その夜は、殺人事件は起きなかった。
そういえば、浩一は変なことを言っていた。
人を襲って血を奪い、藻に与えるなんてありえないと。
噂では、藻の怪物自体が人を襲って直接血を吸っていると言われているのに。
そういう噂もあるのかな。
それとも、浩一は事件の犯人が藻の怪物なんかじゃなくて、人間の手によるものと知っているのだろうか。
――――
「警察が厳重に警備してるらしいねー。毎晩殺人事件が起こらなくて良かったよー」
ローテーブルに肘を乗せて楽な体勢をとりながら、遥が家の自室で呑気そうな声で言う。
神箸家でもさすがに事件を警戒して、娘の外出に警戒的な雰囲気だった。けど、昨夜は何事もなかったらしい。
樋口からも警察の情報が入ってきている。夜になると警官の見回りを強化しているし、遺体の司法解剖も進めている。街中の監視カメラのチェックをして、犯人の足取りも追ってる最中。
土居浩一とその研究室への捜査も進んでいる。さすがに、あからさまに被疑者ですと疑うわけにもいかないから、地元の藻の専門家に対して、馬鹿げた噂について一応見解を訊くみたいな形でやっているそうだ。
そんな怪物なんかありえないと笑い飛ばされるだけだろうけど、研究室の雰囲気なんかは知れる。もし犯人が研究室にいれば、反応することもあるだろう。
警察はお前たちに捜査の手を伸ばしているという、警告にもなる。
捜査結果は樋口からは来ていないけど、警告のおかげか昨夜は事件は起きなかった。
それでも遥が外出するのは少し遠慮があるらしく、今日は俺の方が神箸家に訪問していた。
言うまでもなく、宿題の確認をするためだ。
「世界は平和だな。じゃあ、宿題をしようか」
「やだ! やりたくない! せっかく悠馬が家にきてくれたんだよ? 遊ぼ!」
まったくこいつは。
「悠馬さん。お姉ちゃんなんか放っておいて、わたしと一緒に映画とか見ませんか?」
俺たちにお茶を持ってきてくれた彼方が、姉の醜態を見かねて提案してきた。
「うちの家、最近テレビ新しくしたんです。かなり大きくて迫力あるんです。サブスク接続してるので、好きな映画とかドラマとか観れますよ。おすすめの恋愛映画とか、興味ないですか?」
「ま、待って! なんか悠馬と彼方が危険な雰囲気になりそう! わたしも行く!」
「お姉ちゃんは駄目。宿題終わってないから。さ、悠馬さん行きましょう」
「わーん! やだー! 明日からちゃんとやるから! 彼方許して! お願い!」
「お前、明日からやるって言ってもやらないだろ」
「や、やるもん! やるから!」
「じゃあ、今からやれ。俺が隣で見ててやるから。彼方、映画はまた今度な」
「仕方ないですねー。じゃあ、わたしも一緒に勉強しようかな。宿題はほぼ終わってますけど、ちょっと苦手なの残してて。わからないことがあったら、教えてください悠馬さん」
「わかった」
彼方は、最初からそうするつもりだったと言うように、素早く自分の部屋から勉強道具を持ってきた。
なるほど。遥に宿題させるには、こうすればいいのか。さすがは妹だ。俺よりも遥のこと、よく知っている。
そして、思っていたより進んでいなかった遥の宿題に、俺はため息をついてから心を鬼にするのだった。
「つ……疲れた……」
数時間後。机に突っ伏す遥の姿。
途中休憩をはさみつつ夕方までみっちり宿題をさせた。昼食は神箸家の母親からごちそうになって、遥をキッチンという逃げ場に行かせることは許さなかった。
結果、なんとか夏休みの終わりまでには宿題を完了させられそうな所までやらせた。
「なんか、一生分勉強した気がする……」
「そんなわけないだろ。明日からもするんだよ」
「やだ……」
「悠馬さん。明日もうちに来てくれませんか」
「彼方あなたまで悠馬の味方なの!?」
なんて絶望的な顔なんだろう。
「彼方の鬼! 悪魔! モフモフ!」
「なにモフモフって……。というか、悠馬さんのことは悪く言わないの、本気で好きなんだね」
「うん……悠馬、お祭り行きたい」
机に突っ伏してこちらの方を見ないまま、遥は素早く腕を伸ばして俺の服の裾を掴んだ。決して俺を逃さないという意志を感じる。
「ああ。わかった。行ってやるから」
「なでなでして……」
「ほら」
「あっ」
頑張ったのは確かだから、躊躇うことはない。遥の頭に手を伸ばし、撫でてやる。
「今日は頑張ったな。偉いぞ」
「うん。わたし頑張った……」
「やればできるじゃないか」
「うん。明日は遊んでいいよね?」
「それとこれとは話が別だ」
「うあー」
恨めしげな目で見るな。




