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花かんむりの眠る場所で  作者: 綾取 つむぎ
一章 ルトリア学園編
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一話 喪失


『……い……れい……』


微かに、声が聞こえる。二つの文字をただただ繰り返すだけの声。

その言葉に覚えはないが、話し手の様子を見るに確かな意味を持って紡がれている言葉のように思えた。


(れい、ってなんのことなんだろう……)


霞がかったようにぼんやりと重かった頭も、そうして疑問が浮かびだせば存外回りだすもので、いつの間にか軽くなった頭の感覚につられるように、ふっと目を開けた。


開けた視界にまず映ったのは、蒼。雲一つない晴れた日の空のような鮮やかな蒼い色。もしかして外に居たのだろうか?と錯覚するような鮮やかさに思わず目を奪われた。が、次第にそれは自分の目の前に座っていた人物の瞳であったことに気づいてハッと目線をずらした。しかし目の前の人物はこちらのそんな様子はお構いなしに私の瞳を覗き込む。


「れい……!起きて本当に良かった……」


目の前の人は何かに非常に安堵した様子でため息をついたが、何がなんやら状況が全く分からない私としてはその様子と自分の心情の温度差がどうにもやりずらい。大体、れいという誰かが起きたから安堵しているのだろうに、なぜこちらをそんなに見つめるのか、と不可解に思う気持ちもある。


けれど、こちらが危うさを感じるほど張りつめながら私を覗き込んでいた数秒前の視線を思ってしまえば、何も言えないし、どうにもできない。


そうして言葉も発さないまま、私はぼぉっと目の前の人物を見遣った。


丸みを帯びた蒼色の瞳。癖があり、軽くふわふわと跳ねる焦茶色の髪。線が細くて華奢に見えるが、骨格や声はちゃんと男性だ。見た目通りなら十五、十六くらいの青年だろう。


やはり、記憶を辿っても覚えのない人物だった。


それなのに何故か、私が寝ている場に初めからこの青年はいるし、柔らかい眼差しは私に向けられている。その違和感の堰を切ってしまえば、疑問と疑心は驚くほど簡単に膨れ上がった。


(「れい」……って多分人のはず。なんで、この人は「れい」って人じゃなくて私に語りかけているの?そもそも「れい」ってどんな人?あれ、そもそも私は…………)


まるで自分だけ蚊帳の外に置かれたまま世界が回っているような錯覚を受けるほど、何もかも、全てがわからない。それは、もしかすると――


「…………れい?」


私が目覚めてからも一言も言葉を発さないことをいよいよ不思議に思ったのか、目の前の男性の顔が次第にこわばりだした。きっと、何か話さなくてはいけないような、そんな気もしたがかける言葉も思いつかなくて、その言葉にはまた口を閉ざす。


けれど、その後は今までのようにまた静かに寝台の上で息をする作業に戻るでもなく、意を決して体を起こすとひたひたと裸足で床を歩き、ちらりと見えた窓の方へ向かう。どうせ、このままじっとしていたところで、状況は好転しないだろうから、自力で調べられる一つのことを確かめてみたかった。


「れい、危ないから戻った方が……」


困惑する青年の柔らかな静止の言葉も振り切り、窓辺までたどり着くと、冷たい硝子の板に触れた。


(思った通り、よく映る……)


綺麗に磨かれ、透き通った玻璃。そして外が深い闇ならきっと鏡のように映してくれると思ったのだ。――私の姿を。


窓に触れ、至近距離で()()()姿()であるはずのものを見ていく。


真っ赤な深紅の薔薇のような色をした瞳に、背まである黒い髪。少し高めな背をした、少女の姿が玻璃には鮮明に映った。一応、その容姿を確認しに来たと言ったらそうなのだが、これといった感慨はなかった。あぁ、これが私なのかと思うだけで。


それよりも「私が自分の姿を見る」というその行動そのものの方に、私の確かめたいことはあった。


(やっぱり……()()()()()()()


幾つもその鱗片は見えていたのだ。


青年と私の二人しかいない部屋。そこで呼ばれた「れい」という名前は私の中で全く結びついていなかったけれど、あれはきっと私に対する呼称だ。それに、あの青年の距離感からして、どう考えてもあちらが一方的に知っているだけの関係ではなかった。それこそ、普通に二人だけで話をしてもおかしくないような距離感だったのだろう。


そして極めつけは、自分の容姿を見てもそれを「自分」だと認識できなかったこと。


普段話しているはずの人を急に忘れることなんて、あり得るだろうか?

ましてや、自分の呼び名や、姿を自分自身が認識できないなんてことが、あり得るのだろうか?

そして、私は自分の名前を言えない。――覚えていない。


「あーあ…………」

「れい?本当に様子がおかしいけど、どうしたの……?」


いまだに青年は私を気遣うような言葉をかけてきてくれたが、もう心の中は苦い笑いで一杯で、それに応えられるような余裕も持ち合わせていなかった。


現実を突きつけられて、これ以上は逃れられなかった。認めるしか、なくなってしまった。


「…………私の名前、なんだっけ」

「……っ!?」


青年は、息が詰まったような驚きの声を上げた。あくまで、私の独り言だったが、彼にも状況は伝わったのだろう。


見知った人や、知っているはずの場所、自分の姿、名前、それら一切合切の記憶を失うことがあり得るのだとしたら――


「すみません。私は記憶を喪失したようでして」


――それは、記憶喪失に他ならないだろう。


* * *


「……それで、もう一回聞くけど君は本当に記憶喪失したと?」

「はい。私にとっても信じがたいことなのですが、何もかもが分からないという状況を踏まえる限り記憶喪失としか言いようがないかと」


かの青年にも、どうやら自分は記憶を失っているらしい、と伝えたところひっくり返りそうな勢いで驚かれ、動揺はされたが、事情を聴いてくれるつもりなのだろう。一先ず私が目覚めたときと同じ寝台までもどり私は寝台に、青年は近くの椅子に。要は初期位置に戻って青年との対話が始まった。


だが、対話と言っても私は持ち得る情報が何もない上に、青年はまだ私の記憶喪失を飲み下せていないようで「私が記憶喪失した」というところで、情報の共有は止まっている。


(まぁ、記憶喪失なんて信じがたい話だし……)


一応私は当事者で、あまりに状況がそろい過ぎているから受け入れざるを得ないだけで、第三者から見たらそんなものが本当にあり得るのかどうかさえ、半信半疑といったところだろう。だから彼がそれを信じられないのも無理はない。無理はないのだが……。


(そうはいっても教えてもらわなきゃならないことは山ほどあるし、どうにか続きの話を進めないといけいんだよなぁ……)


さて、どうしたものだろうかとうんうん唸りはじめた私だったが、思ったより早く決着はついた。


今まで音沙汰なく項垂れていた青年が一回大きく深呼吸をしてぱっと顔を上げる。


「ごめん、取り乱した。とりあえず君が記憶を失ったことはわかった。それで、今後についてだけど……」


先ほどと打って変わって状況の整理がついた様子の青年に、今度はこちらが目を丸くして驚く番だった。


「……冗談ではないかと、疑わないんですね」

「これでも、君との付き合いはそれなりに長くてね。君がその類の笑えない冗談を言う人じゃないってことはよく知ってるから。記憶喪失っていうなら、本当に記憶喪失ってことくらいはわかる。たださっきまでは僕の感情が追い付いてなかっただけで」

「そういうもの、なんですかね」


私が知りえない私というのはなんだか不思議なものだなと思うけれど。とりあえず、信じてもらえたことを喜んだ。


「あぁ、そういえば……未だに自己紹介してなかったね。僕は華道(かどう)のあ。この学園に通う二年生で君――月乃玲明(つきのれいあ)とは十年来の幼馴染。ちなみにクラスも一緒だよ」

「えぇっとちょっと待ってください……私は、月乃玲明?で……?」

「あー……ごめん、名前なんて重大な情報、一番先に伝えておくべきだった」


反省する青年、改め華道さんの傍ら私は何度か「月乃玲明」という名前を反芻して、声に出してみた。始めはただの文字列にしか感じなかったが、何度か呼ぶうちに意外なほどに舌に馴染んだ。それが私の名前だと言われても拒否感や乖離した感じは湧いてこなかった。


「名前はなんとなく納得しましたし、理解しました。それで、華道さんと幼馴染というところについては……」

「本当にそのまま、言葉通りだよ。今僕らは十五歳だけど大体……十年近く前かな、知り合って、今の今まで行動を一緒にしてる」

「へぇ……。てっきり私初めは恋人かと」

「!?!?ゲホッ、ゴホッ、ちが……!」

「あーあー!!すみません、もうそんな誤解ないですよ。なんか男性ですし、兄弟ではなさそうだったのでそういう線もあるのかと勝手に考察していただけです」

「とんだ、誤解っ……げほっ!」


私の発言で咽たらしい華道さんは苦しそうに息を詰まらせて、ほんのり顔が赤くなっていたが、次第に呼吸が落ち着いてくると半眼で私を見た。


「全く……爆弾発言かましてくれて……。距離は近かっただろうけど、どちらかというと兄弟とか、そういう家族関係に近かったかな。僕からも恋愛感情はなかったし、君側からの恋愛感情も確実になかっただろうね」

「ほんとに変なこと言いましたね……すみません……」

「誤解は解けたわけだしいいけどね。……あ、あとこの情報いるかどうかは知らないけど君に恋人的存在は僕が知る限りいなかったよ。恋愛したいなら今後にご期待?」

「それはどうも……?」


私が恋人とかいう突拍子もないことを言い出して華道さんを困らせたことに対する意趣返しが籠っていなくもない気がする恨めしい視線も受けた気がするがよしとしておこう。


「あとはまぁ、学園についてはまた明日説明する方向でいいかな……」

「もう正直キャパシティもだいぶオーバーなので、その辺にしておいてもらえるとありがたいですね」

「じゃあ色々教えるのはここまで。ここからは……そうだね、僕の方から幾つか君に聞いても?」

「……?なんでしょう」


正直、私側から話せることなんてないに等しいのだけれど、と思いながらも華道さんの話に耳を傾ける。


「一つはありきたりに、君の覚えていることを」

「申し訳ないのですけれど、記憶喪失という言葉そのまま本当に記憶がないんです。だから、記憶を失う直前の行動も、原因も全く……」

「やっぱり原因ははっきりしないのか……」

「やっぱり、ってことは華道さん側からも想像ついていないんですか?」


華道さんは少し考えるように視線を漂わせて、重々しくうなずいた。


「実は第一発見者は僕だったんだけど、今から数時間前、ただ女子寮の外で倒れている君を見つけたってだけで、外傷も何もなければ、息だって乱れていなかった。だから事件なのか、事故なのか、病気的なものなのか、それすら何も……」

「華道さん、今寮の外で倒れる私を見つけたと言いましたが、見つけた時間は話通りなら夜なはずですよね。もしかして今夜私と何か約束があって私を見つけたとか……」


些細なことだが、そういう過去の行動から原因に近づけるのでは?とほんの少し期待しながら、私は華道さんに問いかける。しかし、思っていた反応とは真逆の歯切れの悪い反応に思わず冷や汗が背を伝う。


(……もしかして、私に言えない何かが?)


「えーっと、その。別に君と約束があったわけじゃなくて」

「それならなぜ夜……」

「えー……うーん……」


華道さんは引きつった笑みを浮かべたが、一歩も引かない私にとうとう根負けしたのか視線をずらすとぼそっと言った。


「……風に当たりたくて」

「当たりたくて…………?」

「屋根に登ってたから……」

「…………」

「バレなきゃいいんだよ、バレなきゃ」


えへっと誤魔化すように笑う華道さんをじとっと睨んでみたが、あんまり効いていなそうでちょっと悔しかった。思ったよりこの人不真面目だな、と思った瞬間である。


「…………じゃあ、まぁ、手掛かりはなしってことですね」

「ないね。残念ながら」

「そりゃあ、そんな簡単に原因解明と行くはずもありませんか……」


変な所に時間かけて聞くものじゃなかった、と反省し私はため息をつく。その様子をぼんやりと見ていた華道さんは今までと一転、なんとも形容できない少し不思議な空気を纏って口を開いた。


「君は……記憶を取り戻したい?」


それは当たり前に…………と、答えようとしたが言葉にならず口を閉じた。華道さんが聞きたいのは、そんな一言で語りきれるありきたりな返事じゃないような気がして、少し黙って言葉をまとめる。


「そう、ですね。取り戻したいっていうより本来はあったものだから、取り戻した方がいいんじゃないかって考えています。何もかもわからない今の状況が不便だから、っていうのもありますけれど……」


これで、華道さんの聞きたかったことに答えられただろうか、と少し不安になりながら華道さんを見遣る。その瞳は凪いでいて、何を思ったのか、読み取りずらかったが穏やかな目をしていたように思う。


「そうだね……。基本的な生活の知識や今までの環境についてはこれから僕や他の人の手を借りつつ、慣れていってもらうとして、同時に記憶も取り戻せるように方法を探ってみようか」

「なんだか、当たり前のように華道さんは私に協力してくれようとするんですね」


華道さんははっと少し意外そうに目を丸くした。だが、何かを一瞬ごとかみ砕くようにゆるゆると目を伏せると、伏せた目のまま答えた。


「…………言われてみれば、そうなのかもね。でももうそれに慣れちゃってるからなぁ、君が慣れてくれたら嬉しい」


そこまで言い切ったところで、ぱっと表情を変えた華道さんは椅子から立ち上がり、どこかにかけていたのだろうローブを羽織った。


「ごめん、そろそろ僕も眠くてうとうとしてきちゃった。寮に帰らせてもらうけど、もし何かあったらこの扉を出て右にずっと行けば誰かしら人がいるはずだから、そっちに向かってみて」

「ご丁寧にありがとうございます」


また明日、朝迎えに来るとだけ言って華道さんは部屋を後にした。


「はぁ…………」


私以外の人がいなくなった部屋に、ため息は嫌に大きくこだました。


全く、目が覚めたらとんでもないことになっていたものである。まさかの記憶喪失とは。それに過去の私を知る幼馴染の華道さんに、まだ詳しい説明は受けていない学園について。

もう今夜だけで、頭がいっぱいいっぱいではち切れそうだが明日から日常生活を送っていくとなると覚えることは山ほどあるのだろう。


不安はあるが、失うものすら持ち合わせない私としては当たって砕けろ精神でとりあえずチャレンジしてみる以外の道もない。


(それに、華道さんも助けてくれるって言ってたことだし……)


まだ自分たちの関係もつかみ切れてはいないが、協力すると言ってくれている以上、ここはありがたく縋らせていただきたいと思う。ほわっとしていて、少なくとも悪い人ではなさそうだった訳だし。


(明日以降もまたいろいろ教えてもらおう…………)


今日話した内容を寝台に潜りながら反芻したりだとか、自分の記憶はいつ戻るのだろうだとか、華道さん所作が綺麗だったな、だとかどうでもいいことも含めて、無数に考え事をしている内にいつの間にか私は眠りに落ちていた。



花かんむりの眠る場所で(略して、花かん)第一話でした。これから投稿していきますので何ぞとよろしくお願いします。


X(旧Twitter)さんの方では@Ayatoritumugiにて最新話投稿のお知らせ、@ayatori_sabuでは小ネタや日常のことにつきましても雑多に呟いておりますので覗いていただけましたら幸いです。

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