第七十九話 星宿の恩寵 vs 混沌の恩寵
プロトンは何事もなかったかのように立ち上がる。
「ふふっ……」
「何かおかしかったか?」
「いえ、すみません。さすがは一度は惚れ込んだお方、だからこそ惜しくもあり、かような俗欲を捨てきれないとは僕もまだまだです」
「……」
背筋に悪寒が走る。
人を一瞬のうちにこうまで変えてしまった原因がおぞましい。
この世界の崩壊を目論む“混沌の神々”によるものだとは思うけど、人の精神を変容させる理由についてはわからない。
情報が錯綜し、加速する思考のなかで混乱する。
「では、いま一度ぉ~行ぃ~きぃ~まぁ~すぅ~よぉ~」
相手が戦闘態勢に入ったことで、再び≪思考加速≫が最大稼働した。
話す言葉は間延びし、その一挙手一投足のすべてが遅延する。
当然、この状態は自分自身の動きも遅くするけど、見えてさえいれば襲いくる相手に合わせることはたやすい。
それも、ニオのアバターステータスはあらゆるプレイヤーを上回り、俺の意識さえついていけるのなら、通常時の比ではなく操れるだろう。
そうして、引き延ばされた時間のなかで特大剣を上段に構える。
ゆるりと動く体は重い。だけど、相手からしてみたらこんな単純な動きですら認識の外で、気づく頃には斬られているというのが恩恵の差だ。
アエカを≪星霊樹の世界≫の真の“創世の女神”だとするのなら、この世界を管理する者こそがアイリーンにして、ニオはその寵児とも言える存在。
外から無断侵入する混沌ごときが、いいようにできるかよ。
「こうまで機先を制されるとは……やりますね……!」
プロトンの攻性意識が会話に切り替わったことで、思考加速も収まる。
俺が特大剣を斬り下ろし、正確に相手のレリックを打ったから。
ただ、いまのところは一方的だけど、ニオの三桁を超える腕力によって酷使される体は、引き延ばされる時間のなかでは数合が限界。
たったの二振りで、すでに両腕の筋が断裂したのか皮膚下で出血し、柄を握る両手には震えが出てしまっているんだ。
やはり強力な力はリスクなくして行使できず、なら仮面をさっさと引き剝がすのが最善策とはいえ、特大剣で斬り取るわけにはいかない。
「ディー」
「了解した」
ディーは俺の呼びかけに応え、プロトンの右方から距離を詰める。
やるべきことは、仮面を引き剥がすことは先ほど伝えた。
「ああっ! やはり僕は、共に進むのであれば、あなぁ~たぁ~とぉ~とぉ~もぉ~にぃ~がぁ~いぃ~いぃ~! ニィ~オォ~さぁ~んぅ~!」
だけど、プロトンは迫るディーを無視して再び俺へと飛びかかった。
「この戯けが……!」
その空中で弧を描く軌道は、見えている者にとっては格好の的だ。
俺は最小限の動きで、特大剣の腹を使って叩き落としに入るも、それがなぜか、空中で突如として横へと移動した彼に避けられた。
そうして、勢いに乗って制動が利かない特大剣は空振りとなり、何が起きたのかもわからないまま、俺はプロトンによって押し倒されてしまう。
「ディー、動かないでください。ニオさまも、少しでも動けば、あなたのシミひとつない美しい肌を傷つけてしまいますよ」
交差するふたつの短剣が、俺の首を押さえて床に縫いつけている。
体は馬乗りになった彼に押さえられ、背も強打してしまったようだ。
「いま、何が……」
「≪位相転移≫。覚えておいてください、僕たちの基本能力です」
「僕たち……?」
「そう、選ばれた者のこと、ニオさんもすぐにこうなります」
「い……やだ……」
「そう怖がらないでください。大丈夫です、とても清々しいものですよ」
「自分を失うことが清々しいわけないだろう……!」
「失ってなどいません。僕は僕のまま、新たな位階へと上っただけですから」
「わけが……わからないことを……!」
「すぐに、わかります」
プロトンはそう言うと、その仮面の異貌をグイと近づけてきた。
「ギャッ!?」
「ふぎいいいいいいいいっ!!」
「痛っ!? やめっ、そんなところっ、ニオッ、ああっ!?」
はいそうですか、と素直に聞くわけがない。
だから噛みついてやった。
力いっぱいに、そのシルクハットのつばのような部分に。
噛みつくにちょうどよかったから。
「むぎいいいいいいいいいいいいいいっ!!」
「ギャアッ!? 噛みちぎっ……だめっ……そこはっ……!!」
なんだかわからないけど、プロトンはもだえ苦しみ、首を拘束する短剣からも手を離したので、さらに俺は勢いよく膝を曲げて金的を食らわせてやった。
「おぼぉっ!?!!?」
「ディーッ!! いまだっ!!!」
「任せろ!!」
一時は動きを止められていたディーがプロトンを羽交い絞めにした。
そうして、俺はふたりの股下で跳ね起きて容赦なく仮面に手をかける。
「おらぁっ!! アイアンクローッ!!!」
もはや体裁を取り繕っている場合ではない。
俺は腕力に物を言わせ、二度と離すまいとがっちり掴む。
引っ張るにつれてビチビチと嫌な感触が伝わるも、ここで離してしまえば再び戦闘になるだろうし、それこそ今度こそ殺されてしまうかもしれない。
なら、いまここでこのまま彼を元に戻す。
それも、元のやべープロトンに戻るだけかもしれないけど、このままわけがわからない状態で敵対されるよりは何倍もましだ。
「ぐっぎぎっ! ディー、鉄爪を隙間に入れっろっ!」
「こうか! これ以上は……入らん!」
ニオの腕力をもってしても簡単には剥がれない。
しかも、仮面の下は白い繊維状の物体が伸びて顔に引っ付いているから、いくら引っ張ろうともさらなる張力で引き戻されてしまうんだ。
くっ……。ならぶった斬ってやる……!!
「おい、姫さん!? 何を!?」
「このままでいるよりはっ、ましだろうがっ!!」
俺はナイフを抜き、顔と仮面の隙間へと滑り込ませた。




