第十五話 古ユグドウェル地下水道ダンジョン(2)
「ふっ……」
一意専心、小さな呼気とともに踊り場から跳び下りる。
特大剣の切っ先を突き出し、狙うは階下のジャイアントラット。
「あっ」
結果だけを見れば試みは上手くいった。
大きな音を立てることなく、ジャイアントラットの背に突き立てた特大剣を抜いたあとも、左右の通路からモンスターの増援はない。
「あ……ぅ……」
にもかかわらず、傍から見るといまの俺は泣きそうに見えるかもしれない。
「おじさま? どうかしましたか?」
階段を駆け足に下りてくるアエカに尋ねられる。
相変わらず、俺の些細な様子に気づくのが早い。
「う、うぅ……。少し、ちびった……かも……」
「……えっ。それは、あの……漏らした……と?」
「かっ、かもだ!」
「我慢していたんですか?」
「これまでの状況で言い出せなくて……。そ、それに、ゲームなのに、いまは体が女の子で……どう処理すればいいのか……」
「おじさま、ここは限りなく現実を再現した世界なんです。どうしたところで、いずれは必要な行為なんです。だから、気にせずやってしまってください」
アエカは満面の笑みで、地獄のようなことを平然と言う。
「む、無理だよ……」
「私としては、涙目で頬を真っ赤に染めながら内股でぷるぷる震えている美少女の姿はただのご褒美なんですが、それで困るのはおじさまですよね」
「うぐっ……!?」
「漏らしたくないのであれば、覚悟をしてください」
「くっ……」
そ、そうなんだ……。
目が覚めてから、ここに来るまでずっと我慢していたけど、先ほどの着地の衝撃で少しばかり漏れそうになってしまったんだ……。
何がって……憐れむなら訊かないでくれ……。
本来ならアバターは同性しか選べないのに、なんで俺だけ……。
「うぅ……。どこですれば……」
「幸いにも、ここは独立した地下水道なので、そこの水路にでも」
「俺の男としての矜持が……保護者としての尊厳が……」
「大丈夫ですよ。おじさまのどんな姿でも、私は受け入れますから!」
「うっ、うあー---ー-ー-っ!」
そうして、俺は最終的に折れた。折られずにはいられなかった。
通路の中央を流れる水路に向けて腰を下ろし、やってしまったのである。
もちろん、アエカには少し離れて周囲の警戒をしてもらった。
覗かれるのなら、さすがに身内だろうとぶっ飛ばしもの。
「うっ、うっ、スッキリしてしまった……」
泣きべそをかきながら、同時に俺のHPもゼロよ……。
「本格的に漏らさずよかったです。もし人前でとなれば、“ニオの聖水”などとはやし立てられ、そういった同人誌ばかりが出てしまうかもしれませんね」
「やめろぉっ! そそんなことになればっ、現実に帰れないっ!」
「では受け止めてください。いまのおじさまは、かわいい女の子なんです!」
「かっ、かわいいを強調するな! いくらなんでも限度はある……」
結局、人はゲームの中でも生まれ持った生理現象に抗えなかった。
そんなことを自覚したからこそ、余計に皆を守りたくなるのかもしれない。
俺は哲学染みた思考に囚われ、それでもまた一歩を踏み出す。
そもそもなんで生理現象なんて実装した。
「おじさま」
「……うん?」
「≪生命探知≫によると、この通路付近に人の存在はありません」
「人とモンスターの区別はつくのか?」
「はい。範囲は私を中心に二十メートルの円で、壁で遮られた向こうは無理ですが、使用中はだいたいの区別ができるアクティブスキルです」
「そういえば、MPに該当するものがないけど、スキル使用のコストって?」
「“原理”ですね。この項目は消費と性能が連動していて、スキルを使用することで数値が一時的に下がると、消費に応じて性能まで下がります」
ん? つまり、ニオの“原理:300”って初期値としては高い?
「なるほど……。無作為に探知を連発しても全体は網羅できないと……」
「≪生命探知≫のコストは“2”ですから、いまのステータスでは連続十五回が限度で、低原理で行使すれば範囲だけでなく精度まで低減してしまいます」
「回復速度は?」
「最大値によりますが、いまは一時間で“20”回復といったところです」
「理解した。じゃあ、痕跡を見つけたときと、必要と判断したときのみ使おう」
「わかりました。温存します」
アエカはほかに≪射手の心得≫や≪鷹の目≫、支援スキルの≪親愛の加護≫も使用できるため、≪生命探知≫だけで浪費するわけにはいかない。
原理に余裕のある俺が、先に役立つスキルを入手していればよかったけど、やはりシードクリスタル狙いで狩りや探索をもっとこなすべきだ。
「とりあえず左へ進む」
「はい。左方向に何か気になることでも?」
「いや、人は無意識だと左を選びがちになるというだけだよ」
「そうなんですね。何かを見つけたのかと思いました」
「あくまで確率の話だから、右へ行っていないとも限らない」
俺たちは、まず階段から続く通路の左方向へと進むことにした。
この世界には、“古王国時代”という旧文明の存在があり、いまいる地下水道もその頃に作られたインフラの一部という設定とのこと。
内部の構造で取り立てて珍しい箇所はなく、石が積み重なった通路の幅は日本の一般的な道路の片道程度。澄んだ水が流れる中央の水路は浅く、いましがた汚してしまったとはいえ……もとは上水道だったのかもしれない。
そんなわけでわりと綺麗だけど、湿度のせいで張りつく服だけは不快だ。
それと不快といえば、明らかに人用でない配管に顔を向けると腐敗臭が漂ってくるから、この奥にジャイアントラットとかの巣があるに違いない。
イースラが主要な通路を逸れていたら、発見は困難だ……。
「おじさま、見てください」
「何かあった?」
そうして、わずか数歩を進んだ所でアエカが立ち止まった。
彼女は下を見ていて、壁際の側溝から棒のようなものを拾い上げる。
「矢です。それも古い物ではありません」
「イースラは弓矢を使っていると……」
「ここを通ったのは間違いないですね。目印でしょうか」
「矢の向きはどっちだった?」
「私たちが進もうとした方向、水路をさかのぼる向きでした」
「その矢は戻しておいて、このまま上流へ進もう」
「はい。わかりました」