3 婚約はもうすぐ解消されます
その日の昼休み、当番だった私は先生から頼まれて直前の授業で使った教材を片付けてから食堂に向かった。
食堂の入口から中をぐるりと見渡すと、いつもより混雑していて席もほぼ埋まっていた。雨が降っていて庭に出られないからだ。
普段ならすぐに目に入るレナルド様の姿は見つからなかった。
いつも一緒にランチを食べているクラスメイトたちは見つかったものの、その周囲の席もいっぱいだった。
クラスメイトたちが私に気づいて申し訳なさそうな表情をするのに、首を振って気にしないでと伝えた。
私はランチの載ったトレーを受け取るとかろうじて空いていた柱の傍の席に座った。
ひとりなのはちょっと寂しいが、とりあえず席を確保できたことに安堵し、さっそくハンバーグにナイフを入れて1切れ口に運んだ。
その美味しさで、一気に至福の気分になった。
さらにもう1切れ口に運んだ時、ふいに聞き覚えのある声が耳に届いた。
「レナルド、このままでいいのか?」
「何か問題でも?」
王太子殿下とレナルド様だ。どうやら食堂の入口からは柱の陰になって見えない席にいらっしゃったらしい。
誰が聞いているかもわからない場所なのだから、それほど重要なお話はなさらないだろうけれど、黙って聞いているのも失礼だ。
今から別の席に移るのは難しいし、私がここにいることを知らせるべきか。
悩んでいると、次には私の名前が聞こえてきた。
「フィヨン嬢におまえの気持ちが少しも伝わってないだろ」
「リリアーヌはきちんとわかってくれています」
「まったくそうは見えん。いいか、本当に大事なのはここからだぞ。ずっと恋い焦がれてきたものがもうすぐ手に入ると思って油断していたら、痛い目に遭うからな」
「油断などしておりません」
美味しかったはずのハンバーグの味がわからなくなった。
だけど、数口しか手をつけずに残してしまうのでは食堂の料理人たちに申し訳ない。
無心でナイフとフォークを使い、ハンバーグを口に運んでいると、ふいに「リリアーヌ」と間近で呼ばれた。
ハッとして振り向くと、レナルド様がいらっしゃった。その横には王太子殿下も。
「ひとりなのか?」
「はい。今日は当番で、食堂に来るのが遅くなってしまって」
私はいつもどおりの顔、いつもどおりの声で対応できているだろうか。
食べながら泣いたりしなくてよかった。
「先に行くぞ」
王太子殿下はそう仰ると出口へと歩き出した。
レナルド様は、いつの間にか空いていた私の隣に腰を下ろした。
「あの、私はひとりでも大丈夫ですから」
「私がリリアーヌをひとりにしたくないのだ」
さっきまでなら喜べたかもしれない言葉が、今は白々しく胸に響いた。
「今日も屋敷まで送るから、教室で待っていろ」
私がランチを食べ終えると、レナルド様がそう言った。
「今日は当番なので、遅くなってしまうかもしれませんから」
暗に断ろうとしたが、レナルド様には通じなかったようだ。
「それなら私が待っていよう。少し話したいこともある」
「わかりました」
重い気持ちを隠して微笑んだ。
つまり、美しい人妻がとうとうレナルド様の想いを受け入れたということなのだろう。
レナルド様は人妻のことを諦めて私と婚約したわけではなく、婚約後も彼女へのアプローチを続けていたのだ。
忙しいはずのレナルド様が週に2日も放課後の時間を私に割いてくれると喜んでいたなんて、私は本当に愚かだ。
残りの5日は人妻に会いに行っていたかもしれないのに。
人妻は今の夫と離婚して、レナルド様と再婚する決心をしたのだろうか。
どうして今さら。いや、レナルド様が他の女と婚約したからこそ、人妻も本当の気持ちに気づいてしまったのかもしれない。
きっとレナルド様はそれも見越して子爵家の娘を婚約者に選んだのだ。
爵位に差があれば、婚約を解消しやすいから。
レナルド様が初対面の場で想い人がいると私に告げたのも、いざという時に協力させるため。
私はこれからどうするべきなのだろう。
レナルド様から婚約解消したいと言われるのを黙って待っていればいいのだろうか。
その時が来たら、淑女らしく微笑んで、レナルド様を祝福できるだろうか。
いや、しなければ。
私のことを蔑ろにしたりせず、常に優しくしてくださったレナルド様には、本当に愛する人と幸せになってほしい。
だけど、いくら私が何の取り柄もない子爵家の娘とはいえ、婚約を解消して別の相手と結婚するなんて、世間でレナルド様が悪者扱いされないだろうか。
そんなこと、私は望まない。
となれば、レナルド様が私との婚約を解消しても、世間がそれを仕方のないことだと受けとめるようにすることが私の役割だ。
以前、友人に借りた恋愛小説の中ではヒロインに嫌がらせをしていた令嬢がヒーローから婚約破棄をされていた。
よし、私も人妻に嫌がらせをしよう。
ああ、でも、私は人妻がどこのどなたなのか知らないのだった。
それならば、嫌がらせはレナルド様にすればいいだろうか。
うん、そうだ。これから私は、婚約者という立場を笠に着て、子爵家の娘のくせにレナルド様を振り回す勘違い我儘令嬢を演じるのだ。
午後の授業中に決意を固めた私は、帰りのバルニエ家の馬車の中で、どう話を切り出そうかと迷っている様子のレナルド様に告げた。
「バルニエ侯爵子息、あなたがお話なさりたいことがどのようなことなのか、私は理解しております」
レナルド様がわずかに目を大きくして私を見つめた。
「大丈夫です。これからはあなたのためにもっとしっかり自分の役割を果たしますから」
「ありがとう、リリアーヌ」
ほんのわずかレナルド様の口角があがった。
こんな時に滅多に見せない笑顔を浮かべるなんて酷い人だ。