異人体間抗争における平和活動と実体の乖離に関する報告
現代とは、国際機関の発するところの平等化と近代化を果たしえてはいない。であるが、それは必ずしも不幸を意味しえず、またある意味においては幸福である。
我々は世界についていかほどの知識を持ち得るであろうか。例えば、南米ディープグリーン地帯では、我々が定義するところの知的種族ではない敵性生命体との戦争が繰り返されているし、国際機関こそがそれを実行している。中東では多くの王朝が倒され、復興し、グレートゲームの最前線として、大国にさえも止められなくなった渦の目と化した。欧州では、最新の知を生産する一大拠点としてグレートゲームの主催者が盤上に手をついていながら、その足元にはみずからが生みだした澱みが流れとなろうとしていた。
しかるに我々は何者かという答えを誰もが求めようとしている。国家と資本と怪物に迎合した奴隷であるか、あるいは竜の見る夢の刹那にすぎぬ幻であるか、印刻されたドォレムでしかなくあるいは歯車の自覚なき生体部品でしかないのか。
アーティファクト。救済の導き、あるいは地獄の門であったか我々ではない時間、種族、知識で生まれたであろうそれは、『ALテック』として平等化による近代化を世界に引き起こした。我々は百年の時間を跳躍してしまったのだ。時間の空白を前に、ヒューム、ハルピュイア、セントール、ザウルスをかように繋ぎ止められようか。
生命とは元来、攻撃的である。こと細菌、あるいはウイルスにいたるまでがそうであるのだ。だが人種だけが、多様な人種を一つに、そして意図的な淘汰の中で強力な共同体を形成しつつある。ほんの百年までは人外として獣との戦争に従事させていた議政者らが平等と平和をとき、地球全体の近代化を進めるという事実に、何か大きな矛盾を感じざるをえない。
だがそれでも人種の先鋒として我々は銃をとっている。戦車を走らせた、爆撃機を飛ばした、回転翼機から強襲し村々を焼き払った。野火のように広まる、それを食い止めるためにだ。世界からもっとも平和から離れた平和調停軍として、軍靴を泥に、雪に沈めた。夢を見ているからだ。そして今も夢を見ている。
多種共有の巨大な夢、数多くの個々人の頭の中身が思考のスープと複雑であるが、より巨大であればこれは思考の海の中から我々という端末こそが選択し受信、発信することで表現できるものでしかないのだ。つまり我々は巨大な一でしかなく、その一を無元に解体したものが個人たる存在であるのだ。
二〇一九年、六月九日、〇四〇〇時。コンドミニアム第六軍はアフリカ大陸へと侵攻した。国家としてのアフリカへの侵攻ではなかった。我々は崩壊と分裂を繰り返すアフリカに、最初で最後の大規模軍事介入を決断した。アフリカズムーー全ての生命の源泉たるアフリカを中心とする、ある種の新興宗教、そしてあらゆる現代社会を否定し原始文明にまで回帰させようとする思想だ。文明こそが、怪物を産む機関だと、アフリカズムは説いていた。
それは、あるいは誰もが考えたことなのだろう。巨大な、共有する思考は大きな怪物へと育ちあがった。我々はこの形をもった怪物を討つために旧大戦以来となる大規模な上陸作戦を実行した。アレクサンドリアへの上陸は当初の予想通りといき、散発的な抵抗だけでアフリカへの足掛かりと両肩の一部となった。だがアフリカは広く、地図でもわからない土地では、ヒトと機械の群れが我々を襲いかかった。我々はアフリカズムをどこまで理解していたのであろうか?
あるいはこう言い換えよう。ーー我々は、どこまで異種に思考を模倣できていたのか?人は似た傾向の思考を持ちえるが、違いは何が生んだのか?我々は介入した。そして血を流した。だが、流れた血から学ぶことなどやはりできないのだ。
我々の蹄も、我々の爪も、我々はこのアフリカという大陸については知識以上のものは持ち合わせてはいないものが大半だ。我々はこの大陸で産まれたわけでも、この大陸で暮らしていたわけでもないからだ。原始的な戦いがそこにはあった。水の為に戦い、食料の為に戦い、女の為に戦い……それらが戦車や装甲車を伴う『遊牧民族』によって組織的に実行される。エコ技術の勝利であろう。奴らは最新の3R変換器を利用して、武器、火薬、燃料を生産しているのだ。奴らの燃料は死体から抽出されるし、生体由来の油との混合物でも燃やせるハイブリッドエンジンだ。大国が供与した技術や商品だ。
襲撃は日夜行われる。我々こそが獲物であり、弱肉強食は軍も例外ではないのだ。文明的な、あるいは先進的を自称する社会派は今のアフリカをただの紛争地帯という。同時に、平和を標榜し過度の介入を避ける優しさーーあるいは深入り、国際批判を恐れてかーーがかえってアフリカでの闘争を激化させていた。奴らには、本当の平和を考えることはないし、難民が日夜虐殺されても、平和を唱えるだけで他人事だ。
アフリカには、多くの人体が存在する。アラクネ体、ラミア体、ケンタウロス体、ハーピー体、マーメイド体……およそ世界に存在する人体の全てはアフリカに起源をもつというのが学会の主流である。全ての人の始まりの大陸。しかしそれ故に、人体差別は深刻であり、部族の主要産業を他人体の特定パーツの密売での稼ぎとする村が数多い。街のゴースト区画では公然と腕や脚などが解体され販売されているのを確認している。人体の違いは、大いに、「人であるのか?」という疑問を濃くする。
理性的な人間であれば、ここでの長生きは不可能だ。理解する必要はない。だが知っておく必要がある。我々はどこで人間とするのか、我々はなぜ異なる体の人と同じであるのか。少なくともこれを雄弁に語れ、また充分な保障である武力をもってでしか生存は不可能である。私は、虐殺の罪で軍法会議にかけられるだろう。日夜行われている虐殺行為には目を瞑り、私を戦争犯罪人にするとは滑稽という他ない。
忘れてはいけない。我々は確かに人ではあるが、相手が同じ人と考えているとは限らないのだ。我々は、我々を人と考えないものと戦うという、この意味を正しく理解しなければいけない。そしてそれを判断するのは、何にも晒されず囀るだけの、安全圏にいる連中ではないのだということを。