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アバズレ寿司  作者: ねずみ
18/18

18、あがり

18、あがり…お茶のこと。


 むぎ子は寿司屋をやめ、別のアルバイトを始めた。経験を生かして、接客のアルバイトもいくつかやった。店長とはあのコンタクト事件以来会うことはなかった。

 

 聡とは何回か会って、ナナちゃんとうまくいっているという報告を聞いた。そしてそのうち、自然に会わなくなった。

 

 むぎ子はマスクをつけて大学に通い続けた。当てられずに済む授業だけを選んで単位を取り続けた。ゼミは一年ごとに変わったが、その度星野と一緒になった。

 

 新しいアルバイト先で、むぎ子があばずれになることはもうなかった。というのは、あばずれになろうとしても、いくらよりもっとレベルの高い女の子がいるか、もしくはレベルの高い女の子を当然のように知っている男たちだけで構成されているバイトだったから、むぎ子などはお話にならなかった、というだけのことである。

 

 学生らしい青春も、バイト先での盛り上がりも何にもないまま、むぎ子の残りの学生生活は過ぎていった。むぎ子は自分がとっくの昔に舞台から降りてしまったことを知っていた。舞台の外で一人、何の役柄も与えられずに、呆然と立ち尽くしている。むぎ子は再び、自分の緊張症を、自分を、憎むようになった。

 

 就職活動もうまくいかなかった。履歴書がまず全く通らなかった。履歴書に書くこととといえばバイトの話だけ、他には何もなかった。

 

 運よく面接に進むことがあっても、長い自己紹介文は辛いので、なるべく短い言葉で終わらせた。選考過程にディスカッションのある企業は初めから避けた。しかしむぎ子を受け入れてくれる企業は現れなかった。

 

 むぎ子が高校生の時に恐れていたことが、現実になろうとしていた。それは、自分はこの緊張のせいで、すべてを諦めなければならないのだ、という、悲しい事実だった。


 

                        *

       

 それは卒業を間近に控えた、ある冬の日のことだった。暖房が吐き出す熱のこもった教室を出て、いつものように言葉をかわす友人も、寄り道を共に楽しむ友人もいないまま、家へ帰ろうとしている時だった。


 むぎ子はエレベーターに乗り込んだ。すると、息荒く駆け込んできたものがある。星野だった。むぎ子は彼の方を見ないようにして、閉めるボタンを押し込んだ。


「すいません、あの、ちょっといいですか」


 呼ばれて、振り向いた。星野は毎日のように着ているヨレヨレのトレーナーに、ダボダボのジーパンといういでたちで、ドストエフスキーだか何だかの分厚い本を小脇に抱えてエレベーターのど真ん中に突っ立っている。彼は曇りがちなメガネの向こうから、むぎ子を見据えて、こう言った。


「南むぎ子!」


 彼は人差し指をいくらに向けた。


「俺は!お前が!好きだ!」


 エレベーターが開いた。星野は顔を真っ赤にして、外へと駆け出していく。


 むぎ子はしばらく、何が起きたのかわからず、呆然としていた。


 冷たい雨が降りしきっていた。外に出て、凍るような寒さに、ぶるっと身を震わせた。星野の姿はもうどこにもなかった。


 むぎ子は歩きながら考えた。どうして星野が自分のことを好きなのか、理由がわからなかったのだ。


 むぎ子は星野が自分を好きなわけがないと思っていた。最初の方は、もちろん、好かれていたのかもしれないという気はあった。だけどそれもあの日までだと思っていた。あの日、ゼミで、情けない無様な姿を見られてしまったあの日までのことだと。なぜなら星野の目には、むぎ子はクールで媚びない人間という風に映っていたはずだったからだ。そして星野が好きになるとしたら、自分のそう言う部分に違いなかった。しかしそのイメージも、あのおぞましいゼミの日に、ガラガラと崩れ落ちたはずだった。


 星野が見てきたのは、マスクをつけ、陰気な表情で大学を孤独に徘徊する死んだような私だった。ゼミで泣きそうになりながら文章を読み上げる、情けない、誰にも見られたくない私だった。


 むぎ子は必死に、先ほどの星野の姿を思い出そうとした。真っ赤な顔、震える指先、絞り出した苦しげな声。みっともなくて、痛々しくて、醜い彼の姿。好きな人にも、そうでない人にも、決して見られたくない姿。


 そして、そんな星野のことを、むぎ子は今初めて、少しだけ好きだと思った。必死に醜態を晒しながら、逃げないで、立ち向かってゆく姿。


 信号が赤になる。むぎ子は慌てて立ち止まった。寿司屋で履き潰したスニーカーは、雨でびしょ濡れだった。


 星野もきっと同じなのだと、流れる車を見つめながら、むぎ子は思った。星野もまた、醜い姿を晒しながら、必死に読み上げた私のことを、好きになったのではないだろうか?むぎ子はそのことに気づいた瞬間に、ぶるっと強く震えた。


 むぎ子は信号が青になる前に、頭の中で計算しようとした。果たして星野の「好き」一つは、私を見下す人間の、何人ぶんに匹敵するか。


 林さんは結局引越しをしなかった。聡はナナちゃんを選んだ。店長は愛人にしかしてくれなかった。彼らの好きは、結局むぎ子を救わなかった。


 けれども星野の「好き」一つは、これから先も続く辛い人生の、私の支えになるだろう、そういう答えをむぎ子は出した。それから満足したように、駅に向かって歩き出した。


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