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アバズレ寿司  作者: ねずみ
10/18

10、あにき、おとうと

10、あにき、おとうと…古いものと新しいもの。


 

 むぎ子は論文のために、バイトを一週間休まねばならなかった。論文は結局8割型のコピーアンドペーストで書き終えることとなった。

 

 どれだけ皆が寂しがっているだろう。そんな期待に胸を高鳴らせながら、むぎ子は意気揚々と出勤した。

 

 しかし、店にいるのはパートのおばさんと林のみで、店長の姿は見当たらなかった。

 

 着替えを終えて、レジに立つ。指紋を丁寧に拭き取り、ぐちゃぐちゃのお札を綺麗に並べ直し、溢れかえった一万円を金庫に移そうとした、その時だった。


「やだあ店長、もう、ひどいですよ本当にい」


 事務所の裏から甲高い、楽しげな笑い声が聞こえて来た。冷蔵庫とシンクの隙間から、楽しそうに話す店長と、三浦翠の姿が見える。二人はちょうど休憩を終えて、裏口から戻ってきたところらしかった。まさか、一緒に休憩していたのだろうか…


 翠は林と同期の、寿司屋の新入社員である。決して美人とは言えないが、笑顔が標準設定というような、大変愛想の良い、みずみずしい女であった。


 彼女が新人研修のためにこの店に来て二週間ほどが経つが、この店に来た当初は、むぎ子と同じように、おどおどして、笑顔も硬く、気弱でおとなしい女、というイメージだった。


 むぎ子は彼女の中にかつての自分の姿を見た。困っている時に、レジのやり方を丁寧に教えてやったこともある。(店長が彼女を助ける姿を、見たくなかったという理由ももちろんある)

 

 しかしむぎ子の休んでいた間に、翠はその本来の朗らかで明るい性格を発揮し始めたらしかった。


  むぎ子はなんともいえぬ焦燥に駆られた。いてもたってもいられなくなって、裏の事務所へ早足で向かった。


「すみませんお話中失礼しますすみません」


 事務所へ足を踏み入れると、翠と店長がまだ笑いの余韻を残した顔で、むぎ子の方へ振り向いた。


「あれ、むぎ子さん、もう休憩?」店長が半笑いで尋ねてくる。むぎ子は冷たく、「いえ、補充です」と目も合わせずに言い放ち、ダンボールの箱を乱暴に開けて、箸200本入りのビニール袋を勢い良く取り出した。


 すぐ背後で、二人の笑いが引いて行くのを感じた。これこそがむぎ子の狙いであった。


「ねえ、むぎ子さん」翠がむぎ子の背中に手を乗せた。「今日ね、このあと、店長が、歓迎会してくれるんだって。私と聡くんの。むぎ子さんも来てよ!」


 聡くんというのは新しいアルバイトの高校生のことである。


 しかしむぎ子は、すぐには答えることができなかった。むぎ子は翠のすぐ隣で、報告書を作成している店長の背中を問うように見つめた。歓迎会なんて、むぎ子がここで働き始めてから、一度もやらなかったのにー


「あ、無理にとは言わないからね。」翠が気遣うような笑みを浮かべながら言った。


「へえ、珍しい」むぎ子の口からようやく出てきた言葉は、弱々しいものだった。「どこでやるんです?」


「うん、ここのビルの二階の、居酒屋あるでしょ。そこでやろうと思ってるんだ。」


「うーん、どうしようかな」


「ね、ね、おいでよ。むぎ子さんが来てくれたら、店長も喜ぶから。ね、店長!」


 店長はこちらに背中を向けたまま、「おう、もちろん」と言った。むぎ子はその憮然とした態度に、湧き上がる怒りを感じた。


「今日はやめときます。課題があるから」


「えー、そっか、そうなんだあ、残念!でも、うん、仕方ないよね。林さん、がっかりするだろうなあーあ、そうだ、肝心の聡くんに聞くの忘れてた!ちょっと聞いてきまあす」


 事務所の中は、箸袋を抱えて立ち尽くすむぎ子と、店長だけになった。むぎ子は店長の不恰好な背中に向かって、「どうぞ、楽しんできてくださいね」といった。


「おう、ありがと」店長はそれしか言わなかった。



                        *


 レジに戻ると、マスク姿の聡が、寿司を並べ直しているところだった。むぎ子のいない間、代わりにレジをしてくれていたようだ。


「ありがとう」


「あ、ああ、全然、大丈夫っす」


 17歳の聡は背が高く、スリムで、彫刻刀で削ったような顔をしていた。


 むぎ子と聡は家が近くであったので、すでに3回ほど、二人きりで帰ったこともあった。


「もう、中に戻っていいよ」


「それ、箸ですか?」


「え、うん、そう」      


「箸、足んなかったですか?俺、いっぱい補充しといたんですけど。」


「え?ああ、そうなの、気づかなかった」


 むぎ子は、すでに満杯の箸箱に、箸を無理やり押し込みながら答えた。聡は2割引のシールを貼った寿司を抱えながら、ぼんやり立ち尽くしている。


「…」


「何?もう、戻っていいよ」


「今日、行かないんすか、飲み会」


「うん。ごめんね」


「俺も、行けないんすよ。ごめんなさい」


「あ、そうなんだあ」


 溢れ出した箸袋が床に落ちた。むぎ子は慌てて屈み込んだ。聡がさっとかがみこんで、落ちた箸袋を拾い集める。


「あーあ」聡は大人ぶってつぶやいた。「本当、そそっかしいんだからなあ」


 むぎ子は聡のことを、もういなくなった野田先輩よりも、もっとかわいいと思った。そういう、三つ上の女の人に対してとる、生意気に背伸びした態度が、心の琴線に触れるのであった。


「私と一緒に帰りたいんだね」むぎ子はレジ台の下にかがんで、箸袋を拾うふりをして、そっと尋ねた。


「だから断ったんだね」


「何ですかそれ」


 聡は耳たぶまで真っ赤になって立ち上がると、逃げるように厨房の中へと引っ込んだ。


「誰だよ、ここにイカ出しっぱなしにしたの」「あ、俺っす、すいません」


「聡くんさあ、レジのヘルプやってくれるのはいいんだけど、自分のやることやってからにして」


 苛立った店長の声に、むぎ子は思わず溜飲を下げたのだった。


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