出立前夜
「玄徳って、まさか」
「ん?」
簡雍は、驚きをそのまま声に出してしまった。
「まさかも何も、俺は劉備玄徳だよ。」
「あ、ああ、そうだね」
この少年が、劉備なのか。
「三国志」を知る人間なら必ず知っている、三国志演義の主役。両親に見せられたアニメで、漫画で、何度も目にしてきた人物が、今目の前にいる。
簡雍は、驚きと共に大きな感動を覚えていた。
「今日は本当におかしいな憲和。まだ寝ぼけてるのか?」
「いや、大丈夫だよ。ありがとう」
劉備の母親も、息子の友人がおかしな様子を見せていることを心配そうに見ていた。
「ま、飯食えば少しは元気になんだろ。」
劉備に促されるままに、簡雍は劉備の自宅に入った。
広いが、無駄なものは一切ない簡素な家である。
劉備と簡雍は、真ん中に置いてある机に座った。
「そういや、憲和が俺の家に来るのも久しぶりだな。」
「ん、そうだったかな。覚えてないや。」
昨日まで高校生だったのだから、ある意味当然である。
「話題もねえし、ここらで俺の家について話しとくか。いいか?」
「おう、もちろんだよ。」
「俺の家、実は皇族なんだよ。つっても、前漢のだけど。」
「そうなのか。まあ、お前を見てると納得だけどな。」
事実であった。劉備の母もだが、劉備自身にも、その立ち振る舞いや目の光の強さに、心の高貴さが滲み出ているのだ。
「お、信じるのかい。これまで話した奴らはみんな、ホラだって笑ったもんだが」
「そりゃ、信じる気にもなるさ」
あの劉備玄徳だし、という言葉は飲み込んだ。
「ふーん。信じてもらえるんだったら、それに越したことはねえやな。うちの先祖に色々あって没落してな。父の代までは役人やりながら食いつないでたんだが、その父も早くに亡くなった。それで、俺達は莚や草鞋を作って売り、生計を立ててる」
「・・・大変だな、としか言えねえな」
「まあ、そうだな。けど、お前が時々商いを手伝ってくれるおかげでだいぶ助かってんだ。ありがとな。」
自分だが、自分のことではないゆえに少しむず痒い思いもしたが、ひとまずは頷くことにした。
「さ、料理ができましたよ!」
劉備の母が、奥から料理を作って持ってきてくれた。
煮込んだ粟と、塩漬けの野菜。そして、干した葉野菜を牛乳で煮込んだ料理が出てきた。素朴な味だが美味しい料理に、簡雍と劉備は舌づつみを打った。すると、劉備の母が口を開いた。
「劉備、お前もそろそろ15歳ですね。」
「はい」
「あなたの叔父上の劉元起殿を、覚えていますか?」
「はい。お優しい方だったと記憶しています」
簡雍には砕けた口調だった劉備が、母親には随分と丁寧に話していた。その態度から、劉備が母に深い敬愛の念を抱いていることがよく感じられた。
二人の表情から、声色から、この親子がお互いを心から大切にし、思いあっているのが伝わってくる。
「今日、便りが来ました。劉元起殿の息子さんが、今度、洛陽の偉い先生の元に弟子入りするそうです。そこで玄徳、あなたも一緒に洛陽で学ばないか、と。お金については、元起殿が援助してくださるそうです。」
「そう、ですか・・・」
劉備は少し暗い表情になった。俺には、嬉しさと憂いが半々のように見えた。
「・・・私のことを、心配しているのですね?」
「・・・はい。」
劉備の父親は早くに亡くなっており、この家は劉備と母の二人しかいない。
劉備がここを出るということは、母親を一人残す事を意味するのだ。
「その気持ちはとても嬉しい。でも玄徳、あなたは私に隠れて、夜中に剣術の訓練をし、書物も読んでいるのを知っています。」
「・・・知って、おられたのですか。」
「あなたは、きっとこの中華に羽ばたく人物です。このような所で、母一人のことを気にして己の志を殺してはなりません。志なき人生は、たとえ生きていても死んでいるのと同じことです。」
「・・・」
劉備は黙り込んだが、母は構わず話を続けた。
「あなたの志を、邪魔するような母でありたくない。私の事を気にして、己の志を曲げてはなりません。」
厳しい声だったが、その目には涙が滲んでいた。大切にしてきた息子を、自ら手放そうとしているのだ。身を切るような痛さだろう。
「玄徳、行きなさい。私はここで、あなたが志を成すのを待っています。」
「・・・わかりました。母上、ありがとうございます。申し訳ございません。」
劉備も、母の想いを受け、涙が溢れていた。
「明後日、劉元起殿の馬車が迎えに来るそうです。それまでに、準備を進めておくのですよ。」
「はい!」
劉備の声には、決意がありありと見て取れた。
食事の後、簡雍は、劉備母子に気を使い、外に出て星空を眺めていた。現代とは、比べ物にならない数の星が光っている。
「星って、こんなに綺麗だったんだな・・・」
と、後ろに人の気配がした。振り向いてみると、劉備が立っていた。
「憲和、ちょっといいか?」
「もちろん。」
「さっきはすまなかったな、置き去りにして。」
「いいんだよ、気にするな。いい母上を持ったな。」
「ああ、俺の誇りだ。」
劉備は簡雍の隣に座り、一呼吸置いたあと話を始めた。
「俺の家の庭に、でっかい木があるだろ?」
「おう、立派な木だな」
「あの木の枝が、天子様の天蓋にそっくりなんだ」
天蓋とは、皇帝等の乗る馬車の上に着いた、傘のような設備である。
改めて桑の木に目を凝らしてみると、確かにそのように見えた。
「確かに。」
「小さい頃、俺はあんな乗り物に乗ってみたくてな。「いつか僕も、こんな乗り物に乗ってやるぞ!」って叫んだんだ。そしたら、傍にいた叔父上にぶん殴られた。」
「そりゃ酷いな。」
「もちろん、俺は自分の栄誉栄達の為に皇帝になりたかったんじゃない。自分がそこに行って、苦しむ人々を救いたかったんだ。「平民のお前ごときがそんなことを言っては、天地がひっくり返るぞ!」ってな。悔しかった。平民は、夢を見ちゃいけねえのか、志を持っちゃいけねえのか!ってな。」
劉備の声に、段々と怒りがこもっているのがわかった。劉備は、自分を落ち着けるかのように深呼吸をすると、話を続けた。
「周りにいた奴らも、その話を聞いた親戚たちも、俺の事を笑った。けど、母上だけは違った。」
「母上だけは、俺を笑わなかったんだ。」
「・・・」
声を出そうとしても、出ない。ここで口を挟むことは、あまりにも無粋に思えた。
「だから俺は、自分の志を果たすために、洛陽に行く。それが、本当の親孝行だと思うからな。」
「そうだな、お母上も、それを望んで背中を押してくれたんだろう。」
「おうよ。・・・こんな話をしたのは、母上以外にはお前が初めてだ。」
「光栄だよ。」
「・・・なあ、お前も洛陽についてきてくれないか?」
唐突であった。簡雍は、ここに置いていかれるものと思っていたからだ。簡雍は迷ったが、さらなる新天地に対する不安より、この英雄の生涯を間近で見ていたいという想いの方が強かった。
「わかった。役に立てるかはわからんが、一緒に行かせてもらうよ。」
「・・・ありがとう、憲和。また明日な。」
「おう、また明日。」
劉備は、家に戻って行った。
「さて、俺も帰ろっかな・・・あっ」
簡雍は、自分の家を知らなかった。転生したのだから当然である。
その日は、そのまま劉備の家に泊めてもらった。
劉備は爆笑しながら、「さっきいい感じで別れたのに」と、散々に簡雍をからかった。
「それにしても、締まらねえなあ」簡雍は、そんなことを思いながら、来客用の簡素な布団にくるまるのであった。