それはもう遅い
リューンは一人、窓辺で佇んでいた。
倒れたムイをマリアの家に迎えに行った時、横になっているムイを心配そうに寄り添っていたカイトを見た。
眠っているムイの額に手を添えている。
その姿を見て、リューンはこらえていたものが、自分の内からせり上がってくるのを感じた。
(この男に、ムイを取られてしまうのかっ)
考えないようにしていたものが、現実として見せつけられて怯む。
「ムイを迎えに来た」
言葉に力が入らなかった。空を掴むように重さのない軽い言葉だった。
自信などというものは、ムイを避け続けていたここ一ヶ月でどこかへ去ってしまった。それまではムイを大切にしてきたつもりだったが、そんな確かなものも、呆気なく崩れ去ってしまった。
するとただ、愛している、という気持ちのみが残った。
(それも俺の、俺だけの独善的な気持ちだったのだろうか……)
ムイが過去にリューンの元を去ろうとしたことが、二度あった。一度目は実際に去り、そして二度目は去ろうとしたところをリューンが押し留めた。
(この男と、結婚した方がムイにとっては幸せなのかも知れない)
ついに、そんな考えが心を染め始めた。一度考え始めたら、それは加速し、全てを覆ってしまった。まるで、侵食されるように、全てを喰らい尽くしていく。
結婚の許可状に、国王のサインはない。
(それでも……そうだとしても……)
「ムイは渡さない」
するっと出たリューンの言葉に、カイトは立ち上がって、リューンを睨みつけた。
リューンは構わず、ムイに近づく。
「ムイ、大丈夫か? どこか痛いところはないか?」
話しかけると、ムイの目が開き、そして腕がそろっと伸びてきて、首に回った。愛しさが、ぶわっとせり上がる。
(ムイ、まだ俺を求めてくれるのか……?)
胸が潰されそうになるのを、きつく目を閉じて我慢すると、リューンはムイを抱き上げた。
「俺はムイに求婚する」
それは、カイトの言葉だった。
振り切るように、リューンはマリアの家を後にした。馬に揺られながら、眠るムイを抱きしめた。
そして、今朝。昨日、倒れたというのに、ムイは起きてすぐに、出かけていった。
そんなにあの男に会いたいのか、と思った。カイトが、ムイに求婚する、と言っていたことを思い出す。
(……いや、何も考えない方がいい、昨日のことは、もう忘れた方が良い)
頭を振って、思考を停止する。考えることを止める度に、溜め息が溢れた。
バルコニーへ出て気持ちを落ちつけようと、ガラス張りのドアのノブに手をかける。
その時、トントンとノックがされたのだ。そして、そのノックの仕方が、ムイのものだと気づくと、リューンの心臓は跳ね上がった。
(久しぶりにこの部屋に……一体、どうしたのだろうか。何の用だろう)
疑問で頭を一杯にしながらも同時に、「入れ」と声をかける。
言ってから、リューンはしまった、と思った。
それは、入ってきたムイがこれまでにない真剣な表情だったからだ。
咄嗟に。
別れ話だ、と思った。思ってしまった。
「リューン様、今お時間いいでしょうか」
おずおずと聞きながらも、何か心に決めたことがあるような、そんな芯の通った声と、表情。唇は引き結ばれ、眉はよれているがその瞳は見開かれて、力強い。
リューンはそのムイの顔を見て、恐れおののいてしまった。言葉を失ってしまったのだ。
(だめだだめだ、まだお前を手離す決心がついていない)
「リューン様……?」
(まだ、別れるなんてことはできない)
「悪いが、今は時間がない」
ぞっとする声が出て、リューンは自分が恐ろしかった。ムイと出会う前はこんな風だったのか、と今更になって気づく。
(そんな俺を、ムイが変えてくれたのに)
愛しさがぶわっと湧き上がった。
けれど、目の前でムイは悲しそうな顔をして、ぽつんと立っている。
(どうして、こんな風になってしまうのだ。俺はいつも酷いことばかり、ムイに強いてしまう)
「少しだけ、お時間を……」
珍しく、食い下がったムイに対して、黒々とした気持ちを抑えられなくなっていた。
「ああ、わかってる。そうか、お前はあの男の元へ行くのだろう。良いだろう、行くことを許してやる」
「リュ、リューン様、私はカイトさんのことは何とも……」
「何を言っている。愛しているんだろう」
「違います、愛してなど、」
「では、なぜあいつにだけ歌を歌って聞かせたのだっ‼︎」
「ち、違います、あれはシノとキノに、」
「お前が歌を歌うのを避けているのは、俺のためだとばかり……」
「リューン様っ」
止められなかった。
「はは、俺は騙されたのか……お前の歌は、愛する者に歌うために取ってあったのだな。そして、お前はあの男に歌を歌った……それに、あいつにとってもお前は特別なんだ。目を見ればわかる、あれはお前を愛してるっ。そして、お前も、」
「リューン様っ、待ってください。話を、話を聞いてくださいっ」
この時点で、ムイはもう半泣きだった。けれど、リューンは自分を抑えられなかった。今まで、心の内に押し留めていたものが、堰を切って流れ出る。
「お前にはもう、俺は必要ない」
「違います、リューン様、」
「……悪いが、出ていってくれ」
「リューン様っ」
「出ていけっ‼︎」
腹からの怒声が出て、ムイが身を硬くし、そして震えたのが見えた。
はあはあ、とリューンは胸を押さえながら、ムイを睨んだ。
震えるムイを見たくなく、リューンは振り返って窓の方へと身体を向けた。
後ろで小さく、申し訳ありません、と震える声で返事があり、きいっとドアを開ける音がした。
けれど、その時。
「あら、ご機嫌いかがですか、ムイ様」
甲高い声がして、リューンはそろりと振り向いた。
ドアの横で立っているムイの隣をすっとすり抜けて、ユウリが入ってきたのだ。
「リューン様、後夜祭に着ていくドレスが届きましたの。いかがですか?」
ユウリがくるっと回転し、ドレスの裾を回す。
濃紺のビロード生地は、ユウリの身体のラインを際立たせている。
「このように素晴らしいドレスまで用意していただき、わたくし感激いたしました。昨日の収穫祭もご一緒でき幸せでしたが、今夜の後夜祭までお誘いいただくなんて、光栄ですわ」
ムイの青白く俯いた顔が胸に刺さりはしたが、リューンはそのまま押し黙った。ユウリとはほんの少しでも話したくなかった。口をききたくなかったのだ。
すると、それを良いことに、ユウリの口が止まらなくなった。
「そういえば、ムイ様。リューン様からお聞きになられましたか? ご結婚は白紙に戻されたそうですね」
「ユウリ殿、その話はお止めいただきたい」
「良いではないですか。もう決まったことなのでしょう。ムイ様にも心づもりというものがあるのですから、早めにお知らせした方が、」
「止めろっ」
「残念なお話です、ムイ様」
「ユウリ殿っ」
「でも、」
ユウリが強く言い放った。
「ムイ様にはカイトさんがいるのですから、良いでしょう。そうだ、カイトさんと国王陛下の元へご一緒に行かれる、というのはどうですか? 双子ちゃんも、大喜びですわ」
「止めろっ」
デスクをどんっと叩いた。その音で、ユウリが身体をびくっと揺らす。けれど、ユウリだけでなく、後ろで立っていたムイも、その音で身体を翻した。
走り出す。
「ムイっ」
リューンがユウリを押しのけて廊下へと飛び出すと、ムイはすでに廊下の先だった。走り去る後ろ姿。
(ああ、もう終わりだ。ムイは、あの男の元へ行く)
ゆら、と揺れて、足から力が一気に抜けていくような感覚に陥った。
(……行ってしまう)
よろよろと、ムイを追って足が前へと向かう。
「……くだらない嫉妬に振り回され、このざまか」
国王に許可を取るなど、最初から必要なかったのだ。
(愛し合っていると確信できた時に、結婚してしまえば良かったのだ)
「……でももう、遅い」
手遅れだ、呟いた言葉がころりと廊下に落ちた。




