第九話 夏休み(前)
「それじゃあ、始めるか。昨日みたいに落ち着いてやってごらん」
「はい」
いつものように人のいない第三図書室。
ヘレーネの目の前には空のコップが置かれおり、彼女が杖を構えて呪文を唱える。すると水がどこからか現れ、コップを満たした。
ヘレーネは安心したような顔をして、ラインハルトもそんな彼女に笑顔を向けた。
「よし、もうこの魔術はものにしたようだな」
「ラインハルト様のおかげです」
「いや、君の努力の賜物だ。よく頑張っているからな」
「あ、ありがとうございます」
ラインハルトのその言葉にヘレーネは照れて顔を俯ける。彼は時折、こうして彼女を褒めてくれるのだが、前世から褒められることが少なかったヘレーネはなかなか慣れることができないのだ。
魔術は最初こそなかなかうまく行かず手こずっていたが、ラインハルトの親身な教えによりコツを掴むことに成功した。クラスでもまだ上手くいっていない生徒もいる中でこれは進歩だろう。
変わったといえば、二人の空気にも変化があった。最初こそ、ヘレーネは緊張しきりで気が抜けなかったが今はだいぶ自然に接することができるようになったし、彼と共に過ごすことに居心地の良さも覚えてきた。もっとも、これはヘレーネのほうだけだろうが。
「ところで、そろそろ夏休みだが君はどう過ごすんだ?」
「実家には戻らず、寮で過ごそうと思っています。ラインハルト様はどうなさるんですか?」
長期休暇中、ほとんどの生徒は家に戻るが、寮に残ることもできる。帰れとも言われなかったし、帰ったところで歓迎されないことがわかっているヘレーネはここに残ることにしていた。
「俺は領地に戻る。領地の様子はこまめに報告させているが、やはり自分の目で確認することに勝るものはないからな」
「大変なのですね……」
「まあ、もっと人を雇えば楽になるんだろうが、どうも俺は自分でやらないと気がすまないんだ」
「でもラインハルト様はご立派です。学業と仕事の両立なんて誰にでもできるものではありません」
ラインハルトの歳で領主として働いている者は少なく、またそれを自分でしっかりこなしている者はもっと少ないだろう。
ヘレーネには想像することしかできないが、とても大変なことのはずだ。
この図書室でもたまに難しい書類を読んでサインしているラインハルトを見かけることがある。夏休み中は学業がない分、気が休まればいいなとヘレーネは思った。
「ありがとう。ところで、王都で祭りがあることを知っているかな?」
「いいえ。そんなものがあるのですか?」
「ああ、夏休み半ばにな。いろんな出店も出るし、パレードや花火もあって、毎年とても賑わうんだ。きっと楽しいぞ」
「まあ、そうなんですか」
なんとも好奇心をそそられる話だ。どうせ夏休み中、学園で過ごす以外にあてがない。たまには羽根を伸ばしてみるのも悪く無いだろう。一緒に楽しむ相手はいないが。
「ぜひ、行ってみます」
「ああ」
そんな話をしたのが夏休みが始まる二週間前のことである。
普段、人が多い場所に自分しかいないと妙に落ち着かない気分になってしまうな、と考えながらヘレーネは人の姿がない廊下を歩く。
夏休みが始まると、学園から一気に人が減った。学園に残った一部の生徒も閉じこもることはせず、外で過ごしているようで見かけることは少ない。
そんな中、ヘレーネはいつも同じような日々を過ごしている。変わったことといえば第三図書室だけではなく、第一、第二図書室も利用していることぐらいだろうか。
たまに学園の外に出ることはあるものの、手持ちの金も少なく、知り合いもいないヘレーネは見て歩きまわるだけで終わってしまう。
しかしそれを不満に思うこともなく、ヘレーネは淡々と毎日を過ごした。だけれど、一つだけ楽しみなことがある。
「ヘレーネ君」
名前を呼ばれ、振り返れば担任であるユージーンがそこにいた。
「ユージーン先生……どうかしましたか?」
「君に手紙が届いていますよ」
その言葉に、鼓動が僅かに早くなる。
封筒を受け取り、「ありがとうございます」とお礼を告げて寮室に向かう。差出人には、ラインハルトの名前が書かれていた。
夏休みになってからこうしてラインハルトから手紙が届くようになったのだ。
手紙の内容は自分の近況や領地で起きたこと、他愛のない噂話など様々で彼女をとても楽しませた。
(今日はどんなことが書いてあるのかしら)
胸をときめかせ、文面に目を落とす。
「……へ?」
そして、思わず間抜けな声が口から漏れた。そこには最近、流れの商人がやってきて珍しい品を買ったということ、社交界で流行っている演劇や歌劇について、そしてヘレーネの体調を気遣う文章の後に、こう続けられていた。
『実は今度、王都に行く用事があるのだが、丁度祭りの日程と重なるんだ。よかったら一緒に見て回らないか?』と。
正直、断ることも考えたヘレーネだったが、夏休みに予定がないことはすでに話しているし、万が一何の理由もなく断ったと知られたら嫌われてしまうのではと思うとそれは躊躇われた。それに、本音を言えばラインハルトに会いたかったのだ。
しかし、自分といてもラインハルトは退屈なのではないかと不安もあり、ウダウダと悩んだ末、了承の手紙をなんとか書き上げたのはラインハルトの手紙が届いてから何日も過ぎた後だった。
「すまない、待ったか?」
「い、いいえ、全然」
校門前で待っていたヘレーネの前にラインハルトが現れる。
夏休みが始まってから久しぶりに見るその姿にヘレーネは嬉しいやら照れるやらで胸の高鳴りを抑えられない。今朝、何度も確かめたはずなのに、髪に寝癖がついてないか急に不安になって手で梳かす。
「それじゃあ、行こうか」
「はいっ」
歩き出したラインハルトに追従する形でヘレーネはお祭りに向かったのだった。
ラインハルトが言っていたように王都は以前来た時よりもずっと人が多かった。
親子連れに若いカップル、お小遣いを握りしめた子供たちや孫に手を引かれる老婆など様々な人が祭りを楽しんでいる。
店には見たことのない商品が沢山並び、行列が並ぶ屋台からは香ばしい香りがただよい、道化師が大道芸を披露し、見ているだけでも楽しめた。
「見ていて何か欲しいものはあったかな?」
「いいえ、大丈夫です」
「そうか。ところで、少し腹が減らないか?」
「そうですね、少しだけ」
「それじゃあ、そうだな……ここはどうだ?」
ラインハルトが指差したのはクレープの屋台である。クレープといっても巻かれているのはクリームやフルーツではなく、マヨネーズと和えた卵にハムとレタスだ。見れば並んでいる人数も少なく、値段もそう高くはない。
「君は立ち食いの経験はあるのかな?」
「いいえ、ありません」
「ならこれが初体験だな」
並びならそんな話をしていると程なくして二人の番がきた。ヘレーネは自分の分は自分で出すつもりだったのだが、ラインハルトが手早く二人分支払ってしまう。
「さあ、食べようか」
「あ、あのお金は」
「気にしなくていい」
ヘレーネにクレープを半ば押し付けるように渡したラインハルトは、なんとかお金を渡そうとするヘレーネを無視してクレープを食べていく。そのうちヘレーネも諦めて、「ありがとうございます」とお礼を言うとクレープを頬張った。
「なかなか旨かったな」
「はい、美味しかったです」
ほっぺたが落ちるほどではないが、ヘレーネには十分満足できる味だった。
腹ごなしもすんだしこれからどうするのかラインハルトに聞いてみると彼は大通りに案内する。そこにはすでに大勢の人が集まっていた。
「もうすぐパレードが始まるんだ。見難いかもしれないが、我慢してくれ」
「大丈夫です」
確かに混雑していて少し苦しいが、それ以上にパレードが楽しみで仕方がない。
早く始まらないかなと思っていると、ついにその時がやってきた。
まずやってきたのは音楽隊。様々な楽器を使って軽快な曲を演奏しながら行進してきた彼らの後ろでは華やかな衣装を身にまとったダンサー達が華麗な踊りを披露している。さらにその後方からやってきたのは様々な趣向を凝らした台車だ。
ラインハルトの説明では、パレードには毎年沢山のチームが参加して自慢の台車を披露するのだという。そのため台車は、動物をかたどったものや有名な英雄や魔物に模したもの、なんだかよくわからない奇抜なものまで様々なものがあった。
見惚れていたヘレーネだったがもう少しよく見ようと背を伸ばした時、人混みに押されバランスを崩してしまう。
「きゃっ」
「おっと、大丈夫か?」
「は、はい……ありがとうございます」
だが幸いにもラインハルトが支えてくれたので倒れこまずにすんだ。
「こういう人が密集している場所は事故が起こりやすいからな、気をつけるんだぞ」
「……ごめんなさい」
ラインハルトに注意されたヘレーネはばつが悪そうに身を縮める。ふと、彼の手が未だ自分の肩に添えられていることに気づいた。
「あ、あの、ラインハルト様……」
「ん? どうした?」
「その……えっと、もう支えていただかなくても大丈夫ですから……」
「ああ、すまない」
彼はそう言うと肩から手を離す。
自分から言ったことなのにそれを寂しく感じる心を無視してヘレーネはパレードに目線を向けた。