番外編 肉じゃが
「ええっと……確か、ジャガイモと人参とお肉と……あと何を入れるんだっけ?」
台所にてヘレーネは多くの食材を前に頭をひねっていた。
夏休みに入り屋敷に帰ってきたヘレーネはラインハルトと会えなかった時間を埋めるように共に過ごしていた。
勿論、ラインハルトには仕事があるからずっと一緒というわけにはいかないが、最近は他の者にも仕事を回すようにしているらしく、以前より帰ってくるのが早いのだ。
その日も早く帰ってきたラインハルトをいつものように出迎えると彼は見慣れない荷物を持っていた。
「おかえりなさい、ラインハルト様。それはなんですか?」
「ただいま。これは……まあ、お土産みたいなものだな」
そういって、彼は陶器の瓶を掲げて見せた。
今日は領地内で商売をしている商人が珍しい品物を仕入れたというので領主であるラインハルトに売りに来たらしい。
「以前から懇意にしている商会なんだ。何か目新しい物があると売りに来てな、今回は東の国の調味料で、面白そうだから買ってみた」
「調味料……」
「ああ……確か、醤油という名前だったかな」
「醤油!」
懐かしいその名前にヘレーネは目を輝かせる。
「なんだ、知っているのか?」
「はい、前世の世界にも同じものがありました」
自分の前世についてすでにラインハルトに話しているヘレーネは素直にそう答えた。
「ああ、なるほど……初めて聞いた時も思ったが、君の世界とここは異世界と言うだけあって相違が多くある。しかし、共通点も多い。不思議なものだ……」
ヘレーネ曰く、魔術や魔獣が存在せず、鉄の塊が空を飛び、どんなに遠くにいる人間とも一瞬で連絡が取れる世界。そんなもの、ラインハルトには想像すらできない。
しかし、この醤油のように同じ物が存在することもある。
なによりラインハルトが驚いたのは、自分やエリカなどが架空の人物として物語に登場するということだ。
正直、前世の話を完全に信じきれるわけではないが、事実無根だとも思っていない。それはラインハルト自身が特殊な人間であるからだろう。
「なあ、またその世界の話を聞かせてくれないか」
「はい、勿論です!」
ラインハルトがこうして前世の世界について話を聞きたがることについてヘレーネは未知の世界の興味があるからだと思っている。
それもないわけではないが、一番の理由はヘレーネの声そのものを聞きたいからだとは思いもよらない。
「さっそくだが、ヘレーネの前の世界ではこの醤油はどんな風に使われていたんだ?」
「ここと同じように調味料でした。特に私がいた国ではいろんな料理に使われてて……煮物の味付けとか、お刺身に付けて食べる時とか」
「刺身って確か生の魚のことだな……異世界ながらよく食べる気になるものだ」
「ふふ、そうですね。私の世界でも外国の方は抵抗があったみたいです」
ヘレーネとラインハルトが暮らしているこの国に生の魚を食す文化はない。ラインハルトは勿論だが、ヘレーネも長年この国で暮らしてきた影響か、もし目の前に刺身や寿司が出てきても手を付ける気にはなれないだろう。
「だが、その世界にはあってこの世界には無いものは、少し食べてみたいな」
ラインハルトのその言葉を聞いた瞬間、ヘレーネの肩がピクリとはねる。
「? どうかしたか?」
「い、いいえ、なんでもありません」
それ以降は他愛もない話をしながら共に夕食をとり、就寝した。
そして翌日。
ヘレーネは前世の世界にあった料理を作ることにした。
だってラインハルトは言ったのだ。食べてみたい、と。
その言葉に大した意味は込められていないのかもしれない。話の流れから言っただけかもしれない。
それでもヘレーネはラインハルトの望みを叶えたかった。いつも自分がされてばかりだから、自分もラインハルトに何かしたかった。
ちなみにこの台所は、たまに料理をするヘレーネが傀儡に気後れせず自由に使えるようにとラインハルトが改装して彼女専用に新しく作った物だ。その為、広さこそないものの、機材はそこら辺の料理店よりも充実していたりする。
「食材はこれで大丈夫……かな?」
ヘレーネが作ろうとしているのは「肉じゃが」である。
何を作ろうか考えた時、「家庭料理といえば肉じゃが」と頭に浮かんだのだ。
どうしてそんなものが頭に浮かんだのかはわからないが、特に作りたいものもなかったので肉じゃがを作ることにした、のはいいのだが……
「……何か足りないような気がする」
目の前に並べられた肉じゃがの具材。じゃがいもと人参と肉と醤油と砂糖を前にしてヘレーネは首をかしげる。
(何か、緑色な物も入っていたと思うんだけど、何だったかな? キャベツ? ピーマン? それにお酒も少し入れるんだったような……ワインかしら? それに、なにか……細長くてくねくねしたものも入っていたはず……なんだったっけ? それにもう少し何か入っていたような、いなかったような……)
前世の記憶などすでにぼろきれのように擦り切れてしまっている。
必死でその残りの材料を思い出そうとするも、全くもって出てこない。特に細長い食材。その正体が皆目見当もつかない。
(パスタ……いや、違うと思う……確か、ぐにぐにとした食感だったような……ぐにぐに……)
しばらく考え込んだ結果、よく思い出せないものは入れないことにした。
下手なものを入れるよりもそちらのほうが失敗する可能性が低いと考えたからだ。
こうしてようやく始まった肉じゃが作りだが、やはり不明瞭で不鮮明な記憶だよりの料理は中々上手くいかず、肉じゃがが完成した頃には日が沈みかけていた。
肝心の出来栄えであるが、じゃがいもが煮崩れし過ぎて正直なところあまり美味しそうには見えない。
(で、でも、食べてみたらおいしいかも……)
一口、口に入れてみる。
(……不味くはない)
けれど特別美味しくもない。普段、食べているものよりも数段劣っていた。
自分だけで食べるのならそれで十分だが、人に、それも好きな人に食べさせるのなら落第点である。
(どうしよう……もうすぐラインハルト様が帰ってくるのに……)
もう作り直す時間もない。だけどこれを出すわけにもいかない、というより出したくない。
(…………諦めよう)
ぐるぐると悩んだ結果、そう結論付けて肉じゃがは自分一人で食べきることにした。
しかし悩みすぎて周囲への注意がおろそかになっていたヘレーネはこの台所に誰かがやってきたことに気づけなかった。
「ヘレーネ、それをどうするんだ?」
「え、あ、ラインハルト様! いつからそこに!?」
いつの間にか入り口からこちらを覗き込んでいるラインハルトの姿にヘレーネは驚きを隠せない。
「さっき帰ってきたんだ」
「そ、そうだったんですか。ごめんなさい、出迎えもせずに」
「いや、気にしていない。それよりその料理、どうしたんだ?」
ラインハルトの視線の先に自分が作った肉じゃが『もどき』があることに気づいたヘレーネは咄嗟に自分の後ろに隠す。
「これは、その……前世にあった料理に挑戦してみたんですけれど……失敗してしまって……」
「へえ、一口くれないか?」
「だ、駄目です」
ヘレーネが断るとラインハルトは悲しそうに眉を下げ、「どうしても?」ともう一度聞く。
普段、あまり見ることのないその弱々しい表情に庇護欲が疼いたが、それを振り払い「どうしてもです」と告げる。
「ヘレーネ、お願いだから」
「…………ひ、一口だけですよ」
が、その意思もすぐに陥落してしまった。
だってしょうがない。ただでさえ自分はラインハルトに弱いのに、「お願い」なんて言われたら逆らえるわけがないのだ。
そんな言い訳を胸の内でしつつ、ヘレーネはなるべく美味しそうに見える部分を匙で掬ってラインハルトに差し出す。
ヘレーネとしてはラインハルトが匙を受け取って食べるものと思ったのだが、ラインハルトは少し考える素振りを見せると身をかがませてそのまま食べてしまった。
「ら、ラインハルト様!?」
「ん、美味しいじゃないか。これのどこか失敗作なんだ?」
顔を真っ赤にするヘレーネだが、なんでもないような顔で笑うラインハルトを注意するどころか、視線を泳がせることしかできない。
「だ、だって、その……見た目も良くないし、味もいまいちですし……」
「見た目に関しては、俺は実際どういう物なのか知らないからなんとも言えないが、しかし味は美味しかったぞ」
「でも、いつも食べているもののほうが美味しいじゃないですか」
「そんなことはない。ヘレーネの料理の方が美味しい」
「あ、ありがとうございます」
ヘレーネが料理を作るとラインハルトはいつも美味しい美味しいと言って食べてくれていた。
作る側としては嬉しいかぎりだが、その言葉の半分は優しさでできているんだろうなとヘレーネは思っている。
だが、実のところ彼は心から本当に美味しいと思っていた。それを思い込みによる錯覚と呼ぶか、愛の力と呼ぶかは人によるのだろう。
「なあ、それ、その料理、やっぱり全部くれないか? 食べたい」
「……はい」
迷いながらも、観念して肉じゃがを差し出すヘレーネにラインハルトは料理を受け取りながら満面の笑みを見せる。
「ありがとう」
「あ、あの、無理して全部食べなくていいですからね。私も食べますから」
「無理なんてするわけがないだろう」
ヘレーネが手づから作った料理なんて、全て自分の口に収めなければ気がすまないだけだというのに。
「ところでこの料理、何ていう名前なんだ?」
「肉じゃがって言います」
「にくじゃが」
「はい。本当は見た目も味ももっと良いんですけれど、作り方がよく思い出せなくて……」
「ほう……ちなみに、これ以外にもなにか作れそうなものはあるのか?」
ラインハルトの言葉にヘレーネは前世の記憶を漁る。前世の料理で、この肉じゃが程度に作れそうなもの。
該当するものは、少数ながらも存在していた。
「えっと……はい、なんとなくでしたら」
「なあ、また君の前世の料理を作ってくれないか? 勿論、好きな時で構わないから」
「そ、それは、勿論! ラインハルト様が喜んでくださるなら!」
その言葉を聞けただけで、これを作ってよかったと思える。
「本当か? 楽しみができたな」
「あ、でも、あまり期待しないでくださいね。上手く出来る自信がなくて……」
「謙遜しすぎだ。君の料理は絶品なんだから、もっと自信を持つと良い」
「私の料理の腕は普通です。そんな事を言うのはラインハルト様だけですよ」
「そんなはずはない。ヘレーネの料理が美味しくないなんていう奴の舌がおかしいんだ」
「ふふっ」
思わず吹き出してしまう。
あまりに過大評価と言えるその言葉はヘレーネには冗談にしか聞こえなかったのだ。
「それだと私の舌もおかしいってことになりますね」
「いや、ヘレーネは向上心があってさらなる高みを目指しているだけだ」
「買いかぶりすぎです」
ラインハルトが全て本気で言っているとは思わず、ヘレーネはクスクス笑い、ラインハルトはその笑みに目を細める。
そして二人共すでに食事を用意しているであろう食卓に向かう。
なんてことはない、ありふれた、普通の、二人の日常の一項である。




