第四十五話 この恋を捧ぐ
美しい曲と共に流れる映像を彼女は見つめる。
そこには、黒髪の青年と桃色の髪の少女が幸せそうに微笑み合っていた。
これは彼女の趣味である女性向け恋愛ゲームだ。
彼女はこういったゲームが大好きで平日、休日構わず時間を作ってはやりこんでいた。
特にこのゲームは発売するまでずっと待ち遠しくてたまらなかったほど楽しみにしていたゲームである。
理由はこの青年のキャラクター。どうしてだか、一目見た時から気になって仕方がなかったのだ。
だからゲームを始めてこのキャラクターが死んでしまった時はショックのあまり泣いてしまった。
なんとか生き残るルートは無いかと探して、ようやく見つけたのがこの隠しルートだ。
「そっか……ヒロインと結ばれれば、助かるんだ」
口から零れた言葉にも、頬を流れる涙にも、締め付けられるほどの胸の痛みにも気付かず、彼女はひたすら人工の光を放つ画面を見つめ続けた。
(この人は、前の私……)
そしてそんな『彼女』をヘレーネは虚ろな意識の中で見つめていた。
『彼女』自身はもちろん、『彼女』がいる部屋にもそこに置いてある物も、ヘレーネには大いに見覚えがあった。
『彼女』が見ている画面を覗き込めばそこに写っているのはラインハルトとエリカのエンディングシーン。とても幸せそうなのに胸が張り裂けそうなのは、恋心故か。
(ラインハルト様……)
会いたい、そう思った。けれど、どうすれば会えるのかがわからない。
(ラインハルト様……ラインハルト様はどこ?)
探しに行こうにも、体が動かない。というより、自分が立っているのか座っているのかさえわからない。
(そもそも、私……生きてるの?)
屋敷に侵入してきた男をなんとかして倒し、その後ラインハルトの腕に抱かれ、町に向かっている所で記憶は途切れている。
もしかして、自分はあの時死んでしまったのではないか。そう思い至った瞬間、ヘレーネに途方もない恐怖が襲いかかる。
(いや、そんな……)
一度は経験した死。けれど、その程度で死への恐怖がどうにかなるわけもなく、ヘレーネを容赦なく追い詰めた。
(ラインハルト様、ラインハルト様ぁ!)
会いたい。戻りたい。帰りたい。
けれど、自分にできることは何もなくて。
泣こうにも涙すらでなくて、絶望に震えることしか出来ない。
けれどその時、温かくて優しい何かが彼女の手を取った。
『ヘレーネ』
(ラインハルト、様……)
そして聞こえてきたあの人の声。
たったそれだけでヘレーネの心から恐怖が拭い去られていく。
それと一緒に意識が徐々に薄くなっているのに気づいた。けれど慌てることはなく、まるで母の腕に抱かれた赤子のように安心しきってその感覚に身を任せる。
ふと、未だ画面を見つめたままの『彼女』に目を向けた。
かつての自分。
ヘレーネは知っている。彼女はこの日からそう遠くない未来、その命を散らすことを。
家族とは縁がなく、親しい友もおらず、愛する人も出来ず、一人で部屋に閉じこもってばかりだった自分の人生はなんだったのだろう、そう最期に思うことを。
だが、『彼女』がいなかったらラインハルトが死んでしまうかもしれないことに気づけず、また彼を救う手立てもわからなかった。
そしてその記憶が無かったら、きっとヘレーネはラインハルトに近づこうともせず、遠くから眺めるだけで終わっただろう。好きな人の命の危機ぐらいのことが無ければ、行動に移せない消極的な人間だとヘレーネは自覚していた。
(あのね、『私』……『私』の人生は決して無意味じゃなかった、無駄なんかじゃなかったよ……)
それを最後にヘレーネの意識は真っ白になった。
まず目に飛び込んできたのは見知った天井。それから自分を心配そうに見守るラインハルトの姿。
「……ラインハルト様?」
「ヘレーネ……目が覚めたんだな」
「ラインハルトさ、っ!」
「ヘレーネ!」
起き上がろうとするも、体に痛みが走りバランスを崩してしまう。しかし、倒れる前にラインハルトが支えてくれたおかげで、なんとか上体を起こすことができた。
「まだ病み上がりなんだ。無理をしなくていい……」
「は、はい……」
密着する体に、体温が上昇する。矢に射られた時はその腕に抱かれていたが、あの時は気にする余裕がなく、改めて彼との距離がこんなに近くなると恥ずかしくなってしまう。
「あ、あの……私はもう大丈夫ですから」
「……嫌か?」
離れようと身を捩るとラインハルトがそんなことを言う。その顔がなんだか悲しげでヘレーネは慌てて否定する。
「い、いえ、そんなことはありませんっ」
「そうか……」
ラインハルトは安心したように微笑んだが、その笑みはすぐに消えた。
「……本当に、死んでしまうかと思った」
矢がその体に刺さった時、気を失った時、思い出しただけでもラインハルトの心臓を凍らせる。
自分を支える力が強くなったのを感じて、ヘレーネはその腕にそっと触れた。
「ごめんなさい……体が勝手に動いて」
「謝らなくていい。謝らなくてはいけないのは、俺の方だ……」
自分は強いと驕り、誰が相手でも負けないと錯覚していたのだ。
もっと慎重に行動していれば、さっさとヘレーネを連れて逃げていればこんなことにならなかったのに、己の至らなさが恨めしい。
「すまない、本当に、すまなかった」
「ラインハルト様、私どこにも行きません。ずっとラインハルト様と一緒です」
だがヘレーネはそんなラインハルトを逆に慰めようとする。
その眼差しにも、声にも、背中を撫でる手にだって、彼への愛情が満ちていた。
それを受けて、ラインハルトは自分の秘めたる過去を打ち明けることにした。
「……ヘレーネ、俺の昔話を聞いてくれるか?」
「はい……」
その言葉に何を感じたのか、真剣な顔で姿勢を正すヘレーネに「そんなに堅くならないでくれ」とラインハルトは苦笑する。
「俺は元々、貴族の愛人の子供なんだ。知らなかっただろう? 表向きは正妻との実子ということになっているからな。俺の生みの父親というのが大層外面のいい男でな、周囲からは聖人君子と謳われていた。そんな男が愛人を作ったなんて、醜聞にしかならない。だから男は必死に俺たちの存在を隠した。俺の生みの母親はそれに耐えきれなかった。あの女は貴族と結婚すれば贅沢な生活ができると思ってあの男に近づいたのに、目論見が外れたばかりか軟禁状態に置かれ、耐えきれなくなって全ての責任を俺に押しつけて殺そうとした。俺も、その時ばかりは死んだかと思った。だが……」
ラインハルトは死ななかった。代わりに自分を殺そうとした女が死んだ。
「同じように、異母兄弟も義母もあの男も死んだ。俺が殺したと気づいたのはあの男に縄を首に巻かれた時だ」
あの時のことは今でも鮮明に思い出せる。
自分の首を絞めようとする男から逃れようと抵抗したが、力では敵わず、意識は徐々に薄れていった。だが、気を失う直前、急に呼吸が楽になったのだ。
この機を逃すまいと男から距離をとれば、男の周りには黒い影がまとわりついていた。男は恐怖で顔を歪めながら必死にそれから逃げ出そうとするも、影は男の体を持ち上げそのまま窓から落としたのだ。
そしてその影は、役目を終えるとそのまま消えた。この時、ラインハルトは気づいた。自分が全員殺したのだ、と。
「皮肉な話で、周りから殺されかけるほど嫌われていた俺だけが生き残った」
それからは奇妙なほど何もかも上手くいった。
実母の死は隠蔽され、異母兄弟と義母を殺した時はラインハルトも負傷していたために疑われること無く、父の時は彼自身が酷く情緒不安定だったという証言もあって自殺ということになった。誰も、まだ子供のラインハルトにそんな力があるとは思わなかったのだ。
領主になってからも元々才覚のあった彼は順調に務めを果たしていき、周囲からも慕われるようになった。
けれど、ラインハルトの胸にはずっと空しさがあった。
飢餓感にも似たそれは、学業で優秀な成績を修めても、武術大会で優勝しても、周りから様々な賛美を受けても、癒えることはなく、彼を苛み続けた。
「でも、今ならその正体がわかる……俺は、ずっと誰かから愛されたかったんだ。だが、それを認めるのは怖くて、強がって、愛なんてこの世に存在しないんだと、そう思い込むことで自分を守っていた……」
「ラインハルト様……」
ラインハルトの過去とその心の内を聞いたヘレーネはそっと彼の頬を撫でる。
「あの……私、こんな時なんて言ったらいいのか、わからないんですけど、その……一人で傷つかないでください。私も一緒に背負います……」
こんな時までこちらを気遣ってくるヘレーネにラインハルトはかすかに微笑んだ。
「……人を殺した俺が怖くないのか? 臆病で情けない男だと呆れないのか?」
「いいえ……そんなこと、思いません」
ラインハルトはもう一度ヘレーネを抱き寄せた。
「実を言うと……未だに君の言葉が信じきれないんだ。君はこんなにも伝えてくれるのに、示してくれるのに……すまない。信じたいのに、信じたいと思っているのに……」
ヘレーネが自分を愛してくれていることはわかっている。でも、それでも心のどこかで疑ってしまうのだ。もしかして、彼女は自分を騙しているんじゃないか、自分の都合のいい思い込みなんじゃないかと。
ヘレーネは命がけで自分を救ってくれたのに、それに応えることが出来ない自分に嫌悪感が募る。
「大丈夫、大丈夫です」
それでも、ヘレーネは揺るがない。
ラインハルトへの愛。そして、彼の幸せ。それがヘレーネの生きる原動力だ。
その彼が自分の愛を信じたいのだという。だったら自分は彼から離れず、愛し続けるだけだ。
何、どちらにしろ自分は彼しか愛せないのだ。きっと死んで、生まれ変わったって、何度でも彼に恋をしてしまうに違いない。
「……こんな気持ちでこんなことを言うのは間違っているかもしれないが……どうか、俺のそばに一生いてくれ。もう二度とあんな酷いことはしない。だから、俺と、結婚してほしい」
震える声。そんなに怖がらなくても、答えは決まっているのに。前の時は断ってしまったが、その時だって決して嫌だとは思わなかったのだから。
「はい、よろしくお願いします」
抱きしめる腕の力が強くなる。
「……いいのか? こんな俺で、本当に」
「私の好きな人を、こんななんて言わないでください」
紫の瞳と金色の瞳が交差してゆっくりと近づく。
「ラインハルト様、愛しています」
「俺も……愛しているよ、ヘレーネ」
そして、二人の口唇は重なった。




