第四十三話 長い夜の終わり
暗い夜の森の中をラインハルトはヘレーネを抱えてひたすらに、がむしゃらに走り続ける。
そしてそんな彼らを追う男。距離こそあるものの、決してこちらを見失わずどこまでもついてきていた。
「ちっ、しつこい奴だ……!」
毒づきながら、未だヘレーネの腹部に刺さったままの矢に手を伸ばす。
「うぐっ……!」
矢に触れると、指先から削られていくような痛みが走るが、手を離すこと無くそのまま引き抜く。
投げ捨てた矢は地面につく前に光の粒子となって消えたが、そんなことには目もくれず、必死に声をかける。
「ヘレーネ、しっかりしろ……ヘレーネ」
「ん……ラ、イン、ハルト……様」
ややぼんやりとした眼差しではあるが、しっかりと自分を見る姿にラインハルトは安堵の息を漏らした。
「よかった。傷は痛むか?」
「少し……でも、それほど、酷くありません」
「そうか」
ヘレーネを強く抱きしめながら、ラインハルトはあの白い弓について考察する。
恐らくあれは、闇属性特化の武器なのだろう。だから闇属性の魔術は効かないが、他の属性の魔術なら通じ、自分はかすっただけでも酷い痛みが走ったが、刺さったヘレーネはそれほど痛みがない。
そのような物をどうしてあの男が持っているかはわからないが、それは一先ず置いておく。
問題なのは、あれを持ったあの男から逃げ切れるかということだ。
正直なところ、確率が高いとは思えない。
ヘレーネはこの状態では歩くのもつらいだろうし、自分は逃げる為とはいえ剣を投げてしまったので丸腰。それに比べ、あっちは無傷で強力な武器を持っている。
もし仮にヘレーネを逃がすために自分があの男を足止めしたとしても、上手くいって相打ち、下手をすれば一撃で倒され、すぐにヘレーネも殺されてしまう。
(くそっ……どうすれば……)
ヘレーネもまたラインハルトの腕の中で、自分たちの状況が非常に危ういことを感じていた。
どうすればラインハルトが助かるか考える。
自分を置いていけば、もしかしたら彼は逃げられるかもしれない。けれど、決してそんなことしてくれないだろう。
それにヘレーネだって死にたくはない。もっと、ずっと、ラインハルトの傍にいたい。
幸せに生きるラインハルトの傍で生きていきたいのだ。
(何か、何か……私にできることは…………そうだ)
自分の首にかけているペンダントの存在を思い出す。
魔具であるペンダントは眠らされた当初、手元から離れていたがラインハルトに頼んで付けさせてもらっていたのだ。
自分を閉じ込めておきたいのに、使って逃げ出そうとするかもしれないのに、付けることを許してくれたことは、渡しても問題ないからという判断なのかもしれないが、それでも、嬉しかった。
(これを使えば……)
この魔具をもらってから上達したものや、使えるようになった魔術がいくつもある。こんな状態でも少しは使えるはずだ。
「ラインハルト様……お願いがあります」
「逃がさん……! 逃がさんぞ、悪魔と魔女め……!」
マーロンは未だ遠くにいる二人から目を離さず、森を駆け抜ける。その口元に浮かんでいるのは歪んだ笑み。
彼は自分が負けることなど、微塵も考えていなかった。
彼の脳裏にはすでに崇高なる使命を全うし、セーラティアから祝福を与えられる自分の姿が浮かんでいる。
悪魔と魔女は自分に手も足も出ず逃げ出した。もはやあの二人は脅威になりえない。
だから一刻も早くあの二人を仕留めなくては。
そう思うマーロンだったが、その視界は徐々に不明瞭になっている。
「霧? こんな時に、やっかいな」
もしこれであの二人を見失い、人里に出られたらきっと無関係な人を巻き込んだり人質に取るという卑劣な行動をとるに違いない。
そんなことはさせないと決意するが、前方の足音が不意に消えてしまう。
「何っ!?」
マーロンは足音が途絶えた場所に向かい、周囲を見渡した。
「くそっ……どこにいる!?」
目を鋭く光らせ、人の気配がしないか感覚を研ぎ澄ます。
(落ち着け……そう遠くには行っていないはずだ。恐らく、どこかに隠れているのだろう。姑息な連中だ)
息をひそめ、二人の痕跡が無いか慎重に探し回る。
そしてそれを見つけた。
(いた……!)
木の陰から僅かに覗いている服。それはラインハルトが着ていた上着と同じものだった。
(ああ、やはり天は私の味方をしてくださっている!)
興奮を抑えつつ、ゆっくりと距離を詰める。今度こそ、この一撃で仕留める為に。
そして十分に狙える距離までくると、深呼吸をして弓を引く。
(これで……終わりだぁ!)
醜悪ともいえる笑みを浮かべて矢を射るマーロンだったがすぐにおかしいことに気づく。
悲鳴も、人が倒れる音もしないのだ。
様子を見に行くとその理由がわかった。
「なっ」
服の中身は人ではなく、木だったのだ。
これは罠だと気づいたマーロンは慌てて警戒するが、もう遅い。
隠れていたラインハルトが飛び出し、マーロンに襲いかかる。
「こ、このぉ!!」
焦ったマーロンは矢を連射する。大半は外れたが、何本かはラインハルトを正確に捉えていた。
(勝った!)
その数本の矢はラインハルトの体を射貫き、マーロンに勝利を運んでくれる、はずだった。
しかし、この直後、彼は信じられないものを見る羽目になる。
矢はラインハルトに当たる直前、まるで何かに阻まれるように弾かれてしまったのだ。
「な、あ!?」
神の矢が弾かれるなどありえるはずがない。
目の前で起こったことを受け止められず、マーロンは固まってしまう。ラインハルトはその勝機を決して逃さなかった。
「がはっ」
マーロンの顔を思い切り殴りつけると彼の体はそのまま木に激突し、ずるずると倒れ込んだ。
「ヘレーネ!」
マーロンが気絶しているのを確認したラインハルトは急いで彼女が隠れている場所に向かう。
木の根元でうずくまっているヘレーネは顔色を悪くしながら、それでもラインハルトに微笑みかける。
「よかった……上手く、いきました、ね」
「ああ、ああ、君のおかげだ」
ラインハルトは彼女を抱きかかえると町に向かって走り出す。一刻も早く治療する為に。
その腕の中で、ヘレーネは徐々に意識が遠のくのを感じる。
恐らく、ただでさえ負傷しているのに魔術を二つも発動させたのだから、体力を消耗してしまったのだろう。
(でも、『霧の幕』も『氷結の障壁』もうまくできてよかったぁ……)
特に『氷結の障壁』は一年の時、使えなかった魔術だ。必要がなくなっても、意味が無くなっても、魔術の練習を続けていてよかったと、心から思った。
「ヘレーネ、ほら、見えるか? 町の灯りだ! もうすぐ、もうすぐだからな」
(……あかり)
ラインハルトの言葉に目を凝らすも、霞かかった視界では、何も判別できない。
(なんだかよくみえない……それに、さむいし……ねむたく、なってきた……)
本人の意思に関わらず、どんどん下がっていく目蓋。それが無性に怖くて、ヘレーネはラインハルトの名前を呼ぼうと口を開く。
けれど、開いた口から言葉が出ることはなかった。
「……ヘレーネ?」
様子がおかしいことに気づいたラインハルトが視線を下に向けると、彼女が気絶していることに気づく。
「くそぉ!」
早く町に行かねばと焦るラインハルトは遠くから誰かがやってくるのが見えた。そしてそれは、彼も知っている人物だった。
「ヘレーネちゃん! ラインハルトさん!」
息を切らしてやってくるのはエリカとシリウス。そしてその二人をシャインが先導している。
「ヘレーネちゃん!? しっかりして!」
「どうしたんだよ、これ!」
二人は傷だらけのラインハルトと腹部から出血している意識のないヘレーネの姿に驚きを隠せない。シャインも心配そうにヘレーネを見つめる。
しかし、今は説明をしている暇はなかった。
「話は後だ! 頼む、ヘレーネを助けてくれ!!」
「っ、はい!」
「俺は人を呼んでくる!」
シリウスは町に戻り、エリカは今なお出血する傷口に添えるように手を置いて治癒魔術を施す。だが、血は止まらない。
(どうしよう……今の私の力じゃこれ以上は……)
治癒魔術に問題はない。恐らく、もっと魔力を注ぎ込めればいいのだろう。そしてエリカにはそれができるだけの魔力が備わっている。
しかし、初めての実地で相手は大切な友人というこの状況は彼女の精神を平常心とは程遠いものにしていた。こんな状況で、まだ自分の魔力を完全に制御できていないエリカがこれ以上魔力を込めればまた暴走を引き起こしてしまうかもしれない。
焦燥するエリカの手に誰かの手が重なる。
「ラインハルトさん……」
「俺の魔力を貸す」
「え、でも、ラインハルトさんは闇属性で」
「ああ。だがそれしかない」
適正属性以外の魔術を使用するには自分の魔力を変換しなければいけない。この場合、ラインハルトの魔力をエリカが使う光属性に変換する必要がある。
この魔力の変換はそれだけで魔力を多大に消費してしまうのだが、特に光を闇に、闇を光に変えるのは相当難しい。
だがそれでもやるしかないのだ。
今ここでヘレーネを救えるのはエリカとラインハルトだけなのだから。
「……いくぞ」
「はい」
ラインハルトは意識を集中させ、自分の中にある魔力を変換していく。そして変換した魔力をエリカに移す。
エリカは渡された魔力を余すこと無くヘレーネに注ぐ。
治癒魔術に集中しながら、頭の片隅で不思議な感覚を感じ取っていた。
(なんだか……この魔力……懐かしいな)
ラインハルトから渡される魔力は奇妙なほどエリカによく馴染んだ。そしてなぜか、よく知っているような気がした。
しかしこれ以上思考を割くことはできず、後はひたすらヘレーネの傷を治すことに専念する。
一方のラインハルトはどんどん自分の中の魔力が削られていくのを感じていた。
この力に目覚めて以来、これほど力を消費したのは初めてのことだ。
魔力の大量消費は血が抜けていく感覚に似ている。あまりに急激な減少に目眩を覚えるもそんなこと知ったことかと無視した。
(ヘレーネ……!)
彼女を救いたい。その一心で。
それからどれほどの時間が経っただろうか。ようやく塞がった傷口に二人は安堵の息を漏らした。
長い夜が、ようやく終わったのだ。




