第四十一話 信じぬ者と壊れ者
初めて訪れた町を、物珍しげにシリウスは見渡した。
王都ほどではないが発展している町は、神輝祭ということもあってとても活気づいている。
こんな状況でなければ観光でもするんだけどなと小さくため息をついて先を歩くエリカとはぐれないように付いて行く。
ことの始まりは冬休み中も鍛錬していたシリウスに、同じく学園に残ったエリカが持ちかけた相談からだった。
冬休みに入ってから、何度もヘレーネに手紙を送っているのだが、返事が一通もこないらしい。
手紙を送り合うことは事前に約束していたことで、ここまで音沙汰がないのはおかしく、ヘレーネに何かあったのではとエリカは不安げだった。
「だから明日、ちょっとラインハルトさんのところに行こうと思って」
「明日って、神輝祭じゃないか。何もその日に行かなくても……」
「だって、心配だし……」
「忙しいだけかもしれないぞ。それに神輝祭の時は貴族も忙しくて自分の領地にいないことが多いってアンリも言ってたし……せめて日程をずらしたらどうだ?」
「そうなんだけど……でも、冬休みが始まる前にヘレーネちゃん言ってたんだ。ラインハルトさんの様子がおかしいって……それでなんだか、すごく嫌な予感がして……」
どうあっても行く気らしいエリカに自分から付いて行くと言ったのは、自分もヘレーネが心配になったからなのか、鍛錬続きだったから気分転換のつもりだったのか、それともそれ以外か、シリウスは考えなかった。
目的地にたどり着いたシリウスだったが、彼は眉を寄せて口を開く。
「……なんで屋敷が二つもあるんだ?」
自分の目の前にある屋敷とそう離れていない場所にある屋敷は同じラインハルトの所有らしい。
どうしてこんな近くに二つも家を持っているのだろうと疑問に思うシリウスに、以前ヘレーネから聞いたエリカが答える。
「私用と仕事用で分けてるんだって」
「……金持ちの考えることってわからねえ」
げんなりするシリウスを尻目にエリカは力強く扉を叩いた。
「すみませーん! エリカ・ノーランです! ラインハルトさん、いらっしゃいますかー!? ヘレーネちゃんに会いに来ました!」
しばらくしてゆっくりと扉が開く。
「あ、ラインハルトさん、お久しぶり、で……」
そこにいたのは確かにラインハルトだった。
しかし二人の知る彼は精悍で自信に満ち常に威風堂々としつつも、愛想がよく親しみやすさがあった。
だが今は、冷たく射殺さんばかりの鋭い眼光であらゆる物を拒絶する雰囲気を放っている。
「何の用だ……?」
普段の彼からは予想もつかないほど愛想の欠片もない対応である。突き放すような言葉と冷たい眼差しは二人の存在を疎んじていることを隠そうともしない。
「あ、えっと……お久しぶりです、ラインハルトさん。ヘレーネちゃんはどうしてますか?」
「……具合が悪くて寝ている」
「えっ! 何か病気なんですか!?」
顔を青ざめるエリカだが、ラインハルトは冷徹な態度を崩さない。
「まだはっきりとはわからない。悪いが帰ってくれ」
「え、待ってください。せめてどういう状況かだけでも」
「帰れ」
扉は大きな音をたてて閉ざされる。
それからはいくら扉を叩いてもラインハルトが出てくることはなかった。
「なんか、様子がおかしかったな」
「うん……」
ラインハルトの屋敷から離れて、二人は顔を見合わせる。
「ヘレーネちゃん、大丈夫かな」
「明日も様子見に行くか? 一応、宿はとってあるんだし」
「うん、そうだね」
エリカはもう一度だけ屋敷の方を向く。
(ヘレーネちゃん、本当に大丈夫かな)
どうか無事でいて欲しい。そう願いながら、エリカはシリウスとともに町に戻った。
日が沈んで暗闇が広がる頃、ラインハルトはある一室に向かって歩いていた。
その足元に四つの肉塊がまとわりつく。
『あんたさえ、あんたさえ……産まれてこなければぁ』
『いたい……いたいよぉ……』
『助けてぇ……』
『いやだぁ……死にたくない、死にたくないぃ……』
それらはただの幻覚である。
しかし幻と割り切るにはあまりにも醜悪で悍ましく、常人であれば発狂してしまうだろう。
だがラインハルトはそれらが常に視界に入る状態であるに関わらず一切動じること無く進み続ける。
そうして行き着いた先にある扉を開けると中にある寝台に、一人の少女が眠っている。彼女を守るように枕元で丸くなっていた黒猫は来訪者に気づいて体を起こした。
「……ヘレーネ…………」
小さく呟いて手をかざすと幻は消え、彼女の閉ざされた目蓋がゆっくりと開く。一瞬、虚空を彷徨った視線がラインハルトを捉えると、口元に笑みが浮かんだ。
「……ラインハルト様」
嬉しそうに安心したように自分の名前を呼ぶ声。
自分を閉じ込めている男に対してどうしてそんな反応ができるのか、ラインハルトにはいくら考えてもわからなかった。
『沈黙の棺』という呪術がある。
相手の意識を奪った後、体を動けなくする術だ。代償として術者は幻覚に襲われる。
この術にかかると、異常に体温が低くなり呼吸もゆっくりとなるため傍目から見ると死んでいるように見えるのだという。
以上がヘレーネがラインハルトから聞いた、自分にかけられている術の全容だ。
冬休みの初日にこの術をかけられたヘレーネはそれ以来、一日のうちラインハルトが解呪する僅か数時間のみが活動時間となった。それ以外の時間は全てベッドの上である。
その数時間も、ラインハルトがずっと傍にいるので自由な時間は皆無であった。
「今日、エリカ・ノーランとシリウス・キーツが訪ねに来た」
起き抜けに告げられた二人の学友の名前にヘレーネは「あの二人が……」と呟く。
きっと手紙を出せていないから心配してわざわざ来てくれたのだろう。
ありがたい反面、申し訳無さを覚えているとラインハルトがヘレーネの手を掴んだ。
「会いたいか?」
「え……?」
「二人に会いたいか?」
エリカもシリウスも大事な友人である。会いたいか、会いたくないかと問われれば、会いたいと思う。
「……はい、会いたいで、っ」
しかし、そう素直に答えるとラインハルトは手を握る力を強くした。
その痛みでヘレーネは言葉を詰まらせてしまう。
「駄目だ」
「あ、ラインハルト様……」
「許さない」
そんなヘレーネに構わずラインハルトは言葉を続ける。
「会うことも、言葉を伝えることも駄目だ。俺が許さない。君はずっとここにいるんだ。ここで、俺とだけ会って、俺とだけ話していれば良いんだ。誰かに助けを求めてここから出ていこうなんて、絶対にさせない……」
「ライン、ハルト様……」
まるで握りつぶさんばかりに力が込められる手。けれど、ヘレーネはそれを振りほどこうとはせずに、もう片方の手をラインハルトの手に重ねる。
「私、どこにも行きません。ラインハルト様のお傍にずっといます」
「……っ」
我に返ったのか、ラインハルトは力を緩める。しかし、決して手を離そうとはしなかった。
「……そうやって、俺を懐柔しようとしても無駄だぞ」
「いえ、そんなつもりは……」
「嘘だ。俺の隙を伺っているんだろう」
「違い、ます……ラインハルト様が望んでくださるのなら、私はずっと」
「嘘だ。じゃあなんで婚約を断ったんだ。傍にいるなら受け入れればよかったじゃないか」
「そ、それは、ラインハルト様の様子がおかしくて、私が一緒にいるせいかと思ってそれで」
「嘘だ。本当は俺の傍にいるのが嫌になったんだろう。疎ましくなったんだろう」
「そんなこと、ありませんっ……私はラインハルト様と一緒にいる時が一番幸せで」
「嘘だ。本当は俺から逃げ出したくてたまらないはずだ。こんな風に監禁する男の元になど一秒だっていたくないはずだ」
「私は、ラインハルト様になら、何をされても構いません……本当です」
「嘘だ。憎んでいないはずがない。恨んでいないはずがない。疎んじていないはずがない。嫌っていないはずがない」
「いいえ……いいえ。私は、貴方を愛してます」
「嘘だ。愛しているなんてありえない」
何を言っても聞き入れてくれないラインハルトにヘレーネの目尻に涙が溜まる。
例えこの先ずっとこの部屋で過ごすことになってもそれは構わない。自分で自由に動かせない体で一日の大半をベッドの上で過ごし、いつくるかもわからないラインハルトを待ち続ける時間は苦痛であるが、それもラインハルトが望むのなら受け入れる。彼から嫌われたり疎まれるのはとても辛いし、悲しいけれどもそれでもラインハルトの気持ちだからしょうがない。
けれども、この気持ちだけはわかって欲しい。
受け入れられなくても良い。拒絶されても良い。ただ、ヘレーネという少女は、確かにラインハルトという人を愛しているのだと、それだけは。
「ラインハルト様、お願いです……わた、しの話を聞いてください……」
だから涙を零しそうになっても、彼女は必死に言葉を発する。
「貴方と初めて出会ったあの日、私は貴方に恋をしました」
運命的な恋というものがあるのなら、あれは確かにそれだ。
何故なら、それまで人の言う通りにしか動けなかった人形を、一瞬にして人間に戻してしまったのだから。
「貴方と出会ったことで、私は希望を知りました。夢を見ました。幸せを得ました……だから、それを少しでも貴方に返したいと思ったんです」
それこそ、自分の全てを尽くしても構わないほどに。どこまでも、どこまでも、ひたすらラインハルトの為に。
あまりに自分を度外視したその姿勢。それはきっと、彼女がラインハルトへの恋心以外、何も持っていないからだろう。
「好きです……愛しています……好きで好きで、大好きなんです……愛しているんです……」
少し親切にしてくれただけの男に恋をして全てを捧げる。
他者から見れば滑稽だろう、異常だろう、哀れだろう、愚かだろう。
けれど、それでも構わない。
ラインハルトが生きていること。幸せであること。それがヘレーネの何よりも代えがたい最優先事項なのだ。
もしかしたら、自分は壊れているのかもしれないと頭の隅で考える。
自分以外の誰かの為に生きる。それ自体はとても美しく尊い行為だ。だが、それも過ぎれば狂気である。
だがそれこそがヘレーネをここまで動かした。それだけが彼女を生かしてきたのだ。
「…………」
ラインハルトはしばらく沈黙した後、ゆっくりと口を開く。
「……君は、俺のどこが好きなんだ?」
「え、あ、えっと……ひ、一目惚れ、でしたから……」
突然の質問に戸惑うものの、ここは正直にと思ってつっかえつっかえになりながらも答える。
「顔が好みだったということか?」
「た、確かに顔も好きですけど……でも、それだけじゃなくて……」
「なら、貴族としての権力か? 当主という肩書か? 金を持っているところか? 剣や魔術の腕か?」
「え、いえ、その……真面目なところとか、努力家で優しくて責任感のあるところとか……あ、でも、真面目過ぎて自分を追い込むところは心配というか……」
好きな人に好きなところを告げるという行為に恥ずかしさを覚えるヘレーネの気持ちを知る由もないラインハルトはまた「わからない」と呟いた。
「俺は別に優しくないが、仮に君の言う通りとして真面目で努力家で優しくて責任感のある奴なんて、世の中にはごまんといるだろう。なのにどうして俺なんだ? 最初に出会ったのが俺だったからか?」
「……いいえ、もしラインハルト様より先にそういう人と出会っても、好きにはなりませんでしたよ。私は……ラインハルト様だから、好きになったんです」
「……わからない……信じられない」
「私の言っていることが、ですか?」
「ああ、そうだ」
だって、おかしいだろう。
「俺を好きだなんて、ありえない……」
この世界には愛なんて物はない。仮にあったとして、それが自分に向けられるはずがない。
ヘレーネが初めて会った時から自分に好意を寄せていたことは知っていた。だけれど、信じたことはない。
いつか途切れるものだと思っていた。吹けば消し飛ぶだろうと思っていた。理想との相違を見つけて勝手に色褪せるだろうと思っていた。
だから、そうなる前に結婚しようとしたのだ。
それなのに、ヘレーネはこうやって閉じ込められてもなおラインハルトを好きだという。
それが、信じられない。
だって自分は、血の繋がった家族にすら愛されない存在だというのに。
「信じられないんだ……君の言っていることが。俺を好きだというその言葉が」
「……ラインハルト様」
決して自分の想いを信じようとはしないラインハルト。けれど、そんな彼をヘレーネは憎らしいとは思わなかった。
やはり自分はおかしいのだろう。この部屋に閉じ込めて自由を奪い、何一つ信じてくれないこの人のことが、恋しくて、愛しくて、仕方がない。
(ああ、もしそうなら……私が、壊れているのなら、狂っているのなら……本当に、本当に…………嬉しい)
だって、心置きなく自分の全てをこの人の為に使えるのだから。
「ラインハルト様……そんなにご不安なら、どうか私を好きにしてください。ずっとここに閉じ込めて置くのも、檻に入れるのも、鎖で繋ぐのも、縄で縛るのも、どうぞお気の召すままに」
そして何度でも愛を告げよう。
いつか、ラインハルトが信じられる日まで、自分が愛される存在だと受け入れられるまで、何があっても離れはしない。
ヘレーネの言葉を受け取って、ラインハルトは迷うように葛藤するように押し黙る。ヘレーネもそれ以上は何も言わず、彼の答えを待った。
「…………俺は」
そしてようやく口を開いたその時、硝子の割れる音が響いた。




