第三十七話 豹変
武術大会から一ヶ月程、経過した。
季節はすでに冬になり、木枯らしに身を震わせる日々が続いている。
武術大会から、ということはヘレーネが監禁された事件からもすでに一ヶ月経ったということだ。
あの時の恐怖は未だ残っているものの、エリカやラインハルトのおかげでその心の傷も少しずつ癒えている。
また誘拐事件自体、ヘレーネが大事になることを避けたがったことや他にも様々な理由があり、公にはなっておらず、以前と変わらない日々をおくれていた。
ある一点を除いて。
「最近どうだ? 何か問題は起きてないか? 誰かから絡まれたりしていないか?」
「はい、大丈夫です」
「そうか。何かあったら必ず俺に言って欲しい。どんな些細なことでも構わない」
「はい……」
いつもの通り誰もいない第三図書室。
以前からここにはよく通っていたヘレーネだったが、この一ヶ月は毎日来ていた。
理由は簡単。ラインハルトが呼び出しているからだ。
あの監禁事件以来、ラインハルトはヘレーネに対し随分と過保護になった。
安否を異常に気にするのは勿論、常に行動を把握したがる。
自分を心配してのことだとわかっているので、気にかけてもらって嬉しい半面、申し訳なさも覚えていた。
だからこそ、過干渉されても従順だった。
「あの、そこまで心配していただかなくても、私もう大丈夫ですよ」
「いや、あの連中が君を逆恨みしていないとも限らない。用心はするべきだ」
「……そうですね」
カトリーヌはもう学園にいないし、他の少女たちもあの件でこってり絞られた上に次は本当に捕まってしまうと言われている為か大人しくしているが、ラインハルトの言葉にも一理ある。
「そういえば、君は学園の外に出ることはあるな」
「はい、エリカさんとたまに」
「そうか。今後は控えて欲しい。どうしても外に出る場合は俺に事前に伝えてくれ」
「そ、それは……」
「何か?」
「い、いえ、なんでもありません」
それは流石にどうなのかと思ったが、ラインハルトは心配して言ってくれているのだ。文句を言うなんて良くないと思い直す。
「それと、もうすぐ冬休みだが、君には俺の屋敷に来てもらおうと思っている」
「はい。わかりました。また領主としての勉強をするんですよね」
また夏休みのように勉強漬けの日々が待っているのだろう。だが嫌ではない。
一刻も早くラインハルトの役に立てるように頑張らねばと意気込むヘレーネに、ラインハルトは思いもよらないことを口にする。
「……ヘレーネ。あれからいろいろ考えたんだが、もう勉強なんてしなくてもいいぞ」
「え?」
思わずぽかんとした顔でラインハルトを見つめる。
「毎日、本を読んで、花を愛でて、シャインと遊んで、そんな風に過ごしたらどうだ?」
「……ラインハルト様? 何を?」
どうしてそんなことを言うのだろう。あんなに熱心に教えてくれたのに。
ヘレーネの顔が青ざめる。
「あの、もしかして、私、物覚えが悪いから……嫌になってしまったのですか……?」
「いや、違う」
「それじゃあどうして? 今のままだとラインハルト様のお仕事が大変なのでしょう? 後見人のままだとできないこともあるって言ってたじゃありませんか」
だからヘレーネも勉強を頑張ったのだ。少しでもラインハルトの負担を減らしたくて、少しでも力になりたくて。
ラインハルトもそれを望んでいるはずだった。
「ああ、だがそれも解決する」
「え?」
なんだろうそれは。
そんな方法があるなんてラインハルトは言っていなかったはずだ。
疑問に思うヘレーネにラインハルトは突き刺すような低い声で告げる。
「君が俺と結婚するんだ」
「……え?」
突然の言葉。その意味がヘレーネには理解できなかった。
「本当は君が卒業するまで待とうと思っていたが、止めた。俺が卒業したらそのまま結婚するぞ。君には学園を中退してもらう」
「中退って……待ってください、ラインハルト様……そんな」
「……何か問題でもあるのか?」
「も、問題って……待ってください……私……」
結婚に学園の中退。どれもヘレーネには寝耳に水であり、容易に受け入れられない出来事だった。
戸惑うばかりの彼女をラインハルトは壁際に追い詰める。その顔は逆光でよく見えない。
「……ヘレーネ、何が嫌なんだ? 何が不満なんだ? ……俺と結婚するのが、そんなに嫌か?」
「あの、あの……」
「仮にそうだったとして……拒否するのか? 出来ると思っているのか? 自分に、そんな権利があるとでも?」
「え、え……?」
「なあ、ヘレーネ。大丈夫だ。君が心配することも気にすることもない。全部俺に任せればいい。何も考えず、俺の目の届く範囲にいればいいんだ」
先ほどまでとは打って変わって、とろけるような甘い声に優しい言葉。
けれどそれはヘレーネに安心を与えてはくれない。
怖い。恐ろしい。そんな感情が彼女の心を支配する。
ラインハルトに対してそんなことを思うのは初めてのことだ。
異様な雰囲気に飲まれた彼女に、ラインハルトは「返事は?」と問いかける。
「は、はい……」
小さく震えた声だったが、それでも満足したらしいラインハルトはゆっくりと離れる。
「そうか、わかってくれて嬉しいぞ」
向けられたのは優しく穏やかな笑顔。けれど、体の震えは止まらない。
「さて、そろそろ俺も戻る。明日もまた顔を見せて欲しい。それじゃあな」
そう言って去っていくラインハルトの背中を、ヘレーネは呆然と見つめることしかできなかった。
愛する人と結婚する。それは本当なら喜ばしいことなのだろう。幸せなことなのだろう。
しかし、今ヘレーネの中にはそんな感情は存在せず、ただただ混乱と不安が渦巻くばかりであった。
(どうして? どうしてこうなったの?)
部屋に戻ったヘレーネは一冊のノートを開く。
それはこの世界がゲームと同じだと気づいた時に書き溜めた物である。
先ほどのラインハルトは明らかに異常だった。
ゲームでもあんな様子は見られなかったはずだ。
何かしら解決の糸口があればと何か情報を探してみるも、元々ゲームの記憶は断片的だった上にゲームとはかけ離れてしまった今の状況。頼りになるようなものはなかった。
「……どうしよう」
ページを捲りながらヘレーネは頭を抱える。
このままでは良くないということはヘレーネにもわかった。
そもそもどうしてラインハルトはあんな豹変をしたのか。
「もしかして、私のせい……?」
自分という存在が、ラインハルトの何かをおかしくしたのか。狂わせたのか。
呆然とするヘレーネを、シャインはただじっと見つめていた。




