第三十六話 ラインハルトの怒り
胸の高鳴りを抑えきれぬままカトリーヌは廊下を歩いて行く。
時間はすでに遅く、本来なら校舎に出歩くなど規則違反なのだが、そんなこと彼女にとってはどうでもいいことだ。
だって彼が言ったのだ。誰にも知られぬよう会って話したいことがある、と。
(ああ、やっと、この日が来たんだわ……!)
思えば長かった。出会ってからもう三年である。
一向に進展しない二人の関係に焦れて自分から行動を起こそうと思ったこともあったが、淑女たるもの殿方を立てるのが役目と耐えた。
それが今、報われようとしているのにどうして落ち着いていられるだろう。
「……ここね」
毎日使っている教室なのに、今日だけは扉に手をかけることすら緊張してしまう。
しかしいつまでも彼を待たせる訳にはいかない。勇気を振り絞って、扉を開けた。
そしてそこには確かに彼の姿があった。
「ラインハルト」
顔を俯けていた彼が真っ直ぐ自分の顔を見た。
いつもより表情が硬いのは彼も緊張しているからだろう。
「遅れてしまいごめんなさい」
「いや」
本当ならすぐにでも彼に寄り添いたかったけれど、そんなことしたらはしたないので、あくまで何もわかっていない風を装い、「それで話とは?」と問いかける。
「……昨日のことだ」
「ええ、昼にも言ったけれど素晴らしい大会でしたわ。貴方が三連覇して」
「そんなことじゃない」
言葉を遮られて、そこで初めてカトリーヌは彼の眼光が鋭いことに気づいた。
それに気圧され、カトリーヌはやや引きつった笑みを浮かべる。
「ど、どうしたのです、ラインハルト?」
「ヘレーネが何者かによって閉じ込められたらしい」
それはカトリーヌも知っている名前だった。
「まあ、そんなことがありましたの」
「何か知っているか?」
「いいえ、生憎となにも」
どうやらラインハルトの様子がおかしいのは彼女のことを心配していたかららしい。
相変わらず優しいことだ。しかし、過ぎた優しさは目を曇らせてしまうとカトリーヌは考える。
だから彼の目を覚まさせるべく、カトリーヌは口を開く。
「でも、それって確かな話なのですか」
「……それは、どういう意味だ?」
「本人がそう言っているだけでしょう。ただの狂言の可能性があります」
「ヘレーネにはそんなことをする理由がない」
「あら、ありますわ」
ラインハルトがヘレーネの後見人になったのは有名な話だ。これにより彼は領主として手腕があるだけでなく、内面も人格者として社交界の評判が上がった。
しかしカトリーヌはあの厄介者でしかない娘がいずれ彼の汚点になると確信している。
「あの子は貴方の気を引こうとしたのです」
ヘレーネにとってラインハルトは自分の人生を左右する人物であり、将来のことも考えてなんとか取り入ろうとしてこのような茶番を行ったのだというのがカトリーヌの主張であった。
「……」
「信じられないようならその現場に行きましょう。何か証拠があるはずです」
「今からか?」
「ええ、近くですしすぐ終わるでしょう」
「……待て」
さっそく教室から出ようとするも引き止められたカトリーヌは眉を寄せた。
「ラインハルト、あの子を信じたい気持ちはわかりますが、でも」
「ヘレーネが閉じ込められていたのが校内だと、どうしてわかった」
「え?」
「俺はヘレーネが誰かに閉じ込められたとしか言っていない。なのにどうしてこの校内だとわかったんだ?」
カトリーヌの顔が僅かに強張る。
「そ、それは、なんとなくそう思っただけですわ」
「そうか。それはそれとして、ヘレーネが自作自演だという証拠というのはもしかしてこれのことか?」
そう言ってラインハルトが見せたのは酒瓶である。
「え、どうし、て……」
「ヘレーネが監禁された部屋で見つけた。それから、これもだ」
放り投げられたのは鉄製の皿。その上には何かが燃やされたような痕跡があった。
それを見て、カトリーヌの顔色はますます悪くなる。
「持ってきたのはそれ一枚だが、同じようなものはいくつもあった。……なあ、カトリーヌ」
その声は、眼光とは打って変わってとても優しい。けれど、カトリーヌはそれが逆に恐ろしかった。
「シュルヘムという薬品を知っているか? 燃やすと異臭がして、さらにそれを長時間吸い込むと気を失ってしまうんだ。さらに時間が経てば命の危険もある」
「……」
「このシュルヘムというのは簡単に手に入るようなものじゃない。コネも金も必要だ。だから、どこの誰が手に入れたかなんてすぐ調べがつく」
「……違うわ」
ぽつりとつぶやかれた言葉にラインハルトは「何が?」と聞き返す。
「私じゃありません! 大会中はずっと客席にいました!」
「そうだろうな。君には思い通りに動かせる生徒が何人もいる」
カトリーヌの取り巻きたちだ。彼女たちならカトリーヌの言葉を鵜呑みにして、何の疑問も持たないまま言われた通りに動くだろう。
「だが、彼女たちはいつまで黙っているかな。事情を聞かれ、最初は知らぬ存ぜぬを貫くだろうが、もし毒が使用されたと聞かされればそうもいかない。自分が殺人犯になってしまうかもしれないからな」
唇を噛むカトリーヌに構わずラインハルトは続ける。
「大方、ヘレーネが飲酒していたとかなんとかうそぶき、陥れようとしていたんだろう。君らしい馬鹿げた考えだ」
「待って! 待ってくださいラインハルト! わ、私は、貴方の為を思って!」
「俺の為?」
「ええ、そうです! あのヘレーネっていう女は絶対に貴方の負担になります! 私は貴方を助けたくて、それで、貴方から離れるように脅かそうとしただけです!」
「…………」
脅かそうとしただけ。
危険な薬品が充満する部屋に閉じ込め、さらに冤罪で貶めようとしたくせにそんな言い分が通用すると思っているのだろうか。思っているのだろう。この女は。
「だから私は悪くないんです! 全部、全部あの女が悪いのよ!」
「……黙れ」
その声には怒りと殺気が内包されていた。それは本人が抱いている内のほんの一部でしかなかったが、箱入りで育ったお嬢様を怖気づかせるには十分だった。
「俺は今、腹が立ってしょうがないんだ。お前の視野が狭くて気に食わない相手には過剰に攻撃的になって、自分が正しいと疑わない頭の悪い奴だとわかっていたのに、対策を怠った自分に」
黒いもやがラインハルトに集まっていく。それと比例して、苦しいほどの恐怖がカトリーヌを襲う。アンモニアの匂いが周囲に漂ったがそんなもの気にも留めない。
ラインハルトの脳裏にあるのはヘレーネが力なく横たわる姿。あの光景が、頭から離れない。
「……おい」
呼びかけられたカトリーヌの肩は大きく跳ねる。荒い呼吸を繰り返すばかりで返事をしない彼女に興味なさげにラインハルトは告げた。
「さっさと失せろ。死にたくなかったらな」
その言葉にカトリーヌは悲鳴にならない悲鳴をあげながら、もがくように逃げ出した。途中何度か転んだような音がしたが、どうでもいいことである。
一人教室に残ったラインハルトは大きく息を吸い、気持ちを落ち着かせる。
「……何がしたかったんだ、俺は」
実のところ、何をしようか考えてカトリーヌを呼び出したわけではない。
どうしてもヘレーネにしたことに怒りが湧き、その激情に駆られての行動だった。
正直、一瞬だがあの女を殺そうと本気で思ったのが、それもヘレーネの顔が浮かんで止めた。
「だが、ペンダントを贈っておいたのは正解だったな」
ヘレーネは無自覚だっただろうが気を失う前、咄嗟に微量の魔力をペンダントに流し込んでおり、それによりできた水分が一種の結界の役目をして彼女を守っていたのだ。
そうでなければ、ヘレーネはもっと重篤になっていた可能性がある。
「本当に、よかった……」
だが、また同じことがあればどうなるかわからない。今度こそヘレーネの命は失われてしまうかもしれない。
彼女はただでさえ周囲からよく思われていないのだ。どんな理由で悪意を向けられ、そして傷ついてしまうかわからない。
だから……
「俺が、守ってやらないと……」
翌日、教師がカトリーヌのもとに訪れると彼女は人が変わったようにひどく怯えており、そのまま学校を辞めてしまう。
さらに彼女の取り巻き達が停学になったこともあり、校内で様々な噂を呼んだが、真相を語る者は誰もいなかった。




