第二十九話 知らぬ間に終わった復讐
「ここだ、ここの計算が間違っているからおかしくなっているんだ」
「あ、本当だ。ありがとうございます」
想い人と友人を横目で見つつ、もう何度目かになるかもわからない疑念が頭に浮かぶ。
(本当に、ラインハルト様はエリカさんのこと、なんとも思ってないのかしら?)
ラインハルトからエリカに特別な感情はないと言われて一か月たったが、ヘレーネには未だその言葉を信じ切れずにいた。
この世界はゲームではないのだから、必ずしもゲームと同じようなことが起こるとは限らないということはわかっている。現にヘレーネ自身はゲームのヘレーネとは全く違う存在だ。だからラインハルトがエリカを好きにならないのも、あり得る話なのだが、今までそんなこと想像もしていなかったので、なかなか受け入れられずにいた。
(でも……ラインハルト様のおっしゃってることが本当なら、ラインハルト様は死なずに済む……)
ラインハルトがエリカを手に入れようとしなければエリカの周囲の人間を傷つけようとはしないだろうし、そうであれば二人が争うこともない。ということはラインハルトが自殺することもないのだ。
良いこと尽くめだが、だからこそ慎重にならざるを得ない。なにせ、もしもの場合失うのはラインハルトの命である。
(私がゲーム通りに動かず勝手なことをしちゃったから変わった? それとも私が何もしなくてもこうなっていたのかな?)
いくら考えても答えは出ない。
それに今はまだエリカのことが好きではなくとも、これから好きになる可能性はまだ残っている。その時は勿論、手伝おう。
そんなことをヘレーネが考えていると、ふいにラインハルトと目が合った。
「どうした? わからないところがあったか?」
「え、えっと、その、ここがちょっと……」
ラインハルトは教科書を覗き込み、「ああ」と言った。
「ここは少しややこしいからな」
「あ……」
ラインハルトの指先がヘレーネの指にわずかに触れる。指先だけではない。顔のすぐ横、呼吸する音さえ聞こえてしまいそうなほど近くにラインハルトの顔があるのだ。
身じろぎしただけで肌が触れてしまいそうでヘレーネは気が気ではない。
最近、こういったことが増えた気がする。
ヘレーネとしてはあまり心臓が持たないからもう少し距離をとって欲しいのだが、彼自身悪気があるわけではないだろうし、下手なことを言って気を悪くされたら嫌なので伝えていない。
「ヘレーネ、聞いているのか?」
「え、あ、ごめんなさい。ぼんやりしてました」
近すぎる距離に気を割いていたせいで、ラインハルトの説明が頭に入っていなかった。
ラインハルトの咎めるような目線に、ヘレーネはばつが悪くなる。
「もう一度言うから、よく聞くように」
そう言ってラインハルトはもう一度、説明を開始した。先ほどよりも体を近づけて。
「ら、ラインハルト様っ……」
「何だ?」
「そ、その……」
「ん?」
ヘレーネはエリカに助けを求めるように目線を送るも、彼女は自分の課題に集中していてこちらに気づいている様子がない。
どうしようと考えていると、ラインハルトがかすかに笑う。その吐息が肌にかかり、ヘレーネは体を硬直させてしまう。
「説明、続けてもいいかな?」
「は、はい……」
きっとこれは普通のことなのだ。変に意識してしまう自分がおかしいのだ。せっかく勉強を教えてくれるラインハルト様に対しても失礼だ。だから目の前の勉強に集中するのだ。
そう自分に言い聞かせて何とか平常心を保とうとするヘレーネだったが、誰の目から見てもそれが成功していないことは見て取れた。
それから、また数日がたったある日のこと。
ヘレーネが朝の支度をしていると廊下から慌ただしい足音が聞こえてきた。
その足音はヘレーネの部屋の前に止まると控えめなノックが室内に響く。
「ヘレーネさん、今大丈夫ですか?」
「ユージーン先生?」
ヘレーネがドアを開けるとそこには確かに担任の教師の姿があった。肩で息をし、いつになく焦っているようなその表情を見て、ヘレーネの胸に不安が広がる。
「あの、どうかしましたか?」
「実はその……落ち着いて、聞いてくださいね」
「は、はい……」
ユージーンは呼吸を整え、ゆっくりと口を開いた。
「ご両親が逮捕されたそうです」
どうやら両親はこの数か月金遣いが荒くなっていたらしい。それでもっとお金が欲しくなって今まで少しずつしか吸っていなかった甘い蜜の量を増やそうとした。
その結果、悪事が露呈してしまったというわけだ。さらに、彼女は知らなかったことだが、両親は薬物の密売や犯罪組織とも癒着があったらしい。重い罪は免れないだろう。
(……とうとう、この日が来たのね…………)
ヘレーネは窓の外をぼんやりと眺める。
ユージーンの計らいにより、今日の授業は免除。生徒の出入りはおろか近づくこともないであろうこの応接室にいるように言われた。
この世界はゲームとは大部分が違う。だが、ヘレーネはゲーム同様このまま学校を辞め、修道院に入ることになるのだろう。
困ることなどない。ラインハルトが死ぬ心配がないのであれば、ヘレーネがここに残ってやるべきことなどないのだから。
けれど、未練はあった。
(……もう少し、ラインハルト様のお傍にいたかったな……)
空の彼方に思いを馳せているとドアが開く音がする。
ユージーンだと思って振り返ってみればそこには思いもよらなかった人物がいた。
「ラインハルト、様……」
「両親のことを聞いた。大丈夫だったか?」
ラインハルトはヘレーネに優し気な笑みを向け、彼女に歩み寄る。
「は、はい。大丈夫です。ユージーン先生がいろいろ気遣ってくれましたし」
「そうか。それはよかった」
両親と言えば、去年、彼らを陥れると決意したはずなのに、結局何もできぬまま彼らは勝手に堕ちて行った。しかし、彼らがちゃんと裁かれるのであれば、それはそれで構わない。
それよりも、だ。
「ラインハルト様、ごめんなさい。ボルジアン家の領地、お渡しできればよかったんですけれども……」
ラインハルトはボルジアン家の領地を欲しがっていおり、ヘレーネとしても彼に任せられればとても心強いと思っていた。しかし、この現状ではどうなるかわからない。
(周囲の領主たちで分割されるか、まるごと併合されるか、新しい領主が生まれるか……最後のが確率的に高いかな)
肩を落とすヘレーネと目線を合わせるようにラインハルトはひざを折る。
「何を謝る必要がある。うまくいったじゃないか」
「え? 何がですか?」
「あの二人を追い出すことだ。これでもう、あの土地は君の物だ」
ラインハルトの言葉がどういうことかヘレーネは一瞬考え、そして思い至った。
「わ、私が領主になるってことですか?」
確かに、ボルジアン家の当主とその妻は捕縛されたが、その一人娘は残っている。そうであるならその娘が領主となるのは順当な流れなのだろう。
しかし、彼女は首を横に振る。
「そ、そんな、無理です。できません!」
「無理じゃない。俺がいる。俺が後見人になって、君を支えよう」
「でも、あの、そんな、駄目です」
「駄目? どうしてだ?」
「ど、どうしてって」
ラインハルトに質問されたヘレーネだが、彼女にはどうしてそんなことを聞かれるのかすら理解できない。
「だ、だって、私、罪人の子供ですよ? 誰も認めないでしょうし」
「君の親が罪人でも君は違うだろう。確かに口うるさく言ってくる連中がいるだろうが、そんな奴ら気に留める必要もない」
「財産だって大分没収されるでしょうし」
「それなら俺が出資してやる。何、これでも財力は持っている方だ。それにあそこならすぐに取り戻せる」
「……領地のことなんて何も知りませんし、何もできません」
「最初は誰でもそうだ。大丈夫、俺がいろいろ教えよう」
「でも、でも……」
「まだ何かあるのか?」
いくつかの問答を繰り返すうち、ヘレーネはようやく気付いた。
ラインハルトはきっと最初からヘレーネを領主にするつもりだったのだろう。それで、自分を影から操ればボルジアン家の領地はそのまま彼の物だ。
ラインハルトの駒になるのは構わない。けれど、それでも彼女はどうしても受け入れ難かった。
「わ、私は、両親が何をしていたのか知っていました。それなのに、それを止めることもできなければ告発することもできませんでした。そんな私が、領主になる資格など……」
両親のせいで苦しむ人がいることを知っていた。両親のせいで悲しむ人がいることを知っていた。けれど、何もできなかった。しなかった。
そんな人間が領主の椅子に座っていいはずがない。
「なるほど……だが、罪悪感があるならなおのこと君が領主になるべきだろう。次に領主になる者がどういう者は分からない以上、前より酷いものが領主になる可能性だってある」
確かにラインハルトの言う通りだ。その点、ラインハルトには能力も実績もある。彼の言う通りにしていればそうそうまずいことにはならないだろう。
しかし、それでもヘレーネの胸に不安は途切れない。
「そう、ですけど、でも……私……」
「大丈夫だ」
震えるヘレーネの手を、ラインハルトは優しく握る。
「大丈夫だ、ヘレーネ。俺がついている。だから、なあ?」
「……はい」
その瞳でじっと見つめるのは卑怯だとヘレーネは思う。彼の眼差しに抗う術を彼女は持っていないのだ。
「その、未熟者ですが、よろしくお願いします」
「ああ、任せてくれ」
ヘレーネの言葉に満足したのか、ラインハルトは立ち上がる。
「それじゃあ、いろいろと準備があるから俺はもう行くが、安心して待っていてくれ」
「は、はい」
歩き出そうとしたラインハルトだが、ふと何かを思い出したように立ち止まり、ヘレーネを見た。
「そういえば……君は領主を継がなかったらどうしようと思っていたんだ?」
「えっと、修道院に入ろうかと……」
「なるほど、修道院か……まさか、他の誰かを頼ったり匿ってもらおうとかは」
「えっ? いませんよ、そんな人」
「そうか。ならいい」
そう言ってラインハルトは去り、一人残されたヘレーネは突然と展開に驚きと戸惑いを覚えながらも、これからもラインハルトの傍にいられるという事実に気づき、戻ってきたユージーンから熱の心配をされた。




