第二十四話 ヒロイン登場
ヘレーネは久しぶりの学舎を仰ぎ見る。
記憶と一寸も違わぬその姿に、懐かしさ以上に緊張感を覚える。
(いよいよこの時がやってきたのね……)
ラインハルトの屋敷から直接ここに送られてきたが、自分たちが一緒にいると目立ってしまうというラインハルトの配慮により、別々の馬車に乗り、時間もずらして出発したのでここにはラインハルトの姿はない。
これより彼女は一人で新しい教室に向かうことになるのだが、そこでヘレーネはとうとう彼女と出会うのだ。
(大丈夫かな……声、かけられるかな……仲良くなれるかな……)
ヘレーネの頭をそんな不安が占拠する。何せその双肩に愛する人の今後がかかっているのだ。不安にならないわけがない。
だからこそ、頭が一杯になっていたヘレーネは周囲で流れる噂話に気づかなかった。
ラインハルトが廊下を歩いていると、それは嫌でも耳に入った。
「ねえ、聞いた? 転校生の話」
「聞いた。なんか、事故を起こしたんだよね」
「魔力の暴走だって。怖いよね……」
「うわ、最悪……」
「そんな人と同じクラスだったら嫌だな」
「わかる。違うクラスだったらいいけど」
「学校もなんでそんな危ない人を入れるんだろう」
「さっき聞いたんだけど、転校生って……」
生徒たちは囁き合う。無情に、無責任に。怯え厭う様子を見せながら、どこか面白おかしく。
それに眉を顰める者もいれば、無関心な者もいる。ラインハルトは後者だった。
流れる噂話に一片の興味を抱くことなく、歩いていく。
まさかその転校生と今後、浅からぬ縁で結ばれることになろうとは知る由もない。
新しい教室に入ったヘレーネは席に座り、こっそりと周りを伺う。
入学した当初はクラス全体がピンと張り詰めたような空気だったが、さすがに二年目となるとそういったこともなく多くの者が友人とのお喋りに興じていた。
(ニコラス君にアンリ君、シリウス君もいるし、担任はユージーン先生……やっぱり、みんな揃っているのね)
間違いなく、ヒロインはこのクラスに入ってくるだろう。
ヘレーネのやるべきことは、まずその子と仲良くなること。それから、ラインハルトにその子を紹介するのだ。
人と仲良くなるにはまずこちらから声をかけなければとわかってはいるが、人見知りのヘレーネには重い課題である。
(とにかく頑張らないと。大丈夫。私ならできる。きっと、できる。うまくいく。大丈夫)
自己暗示をかけているとユージーンが教室にやってきた。一人の見知らぬ少女と共に。
教室のざわめきが大きくなる。
「みなさん静かに。席についてください」
ユージーンの言葉に生徒たちは落ち着きを取り戻すも、彼らの眼差しは相変わらず少女に向けられたままだ。ヘレーネもその一人である。
(……なんて可愛らしい子なんだろう)
転校生を見てまず思ったのがそれだった。
桃色のボブヘアに透き通るような水色の瞳。陶器のように白く滑らかな肌、体つきはほっそりとしているが女性らしい丸みも帯びている。まさしく美少女だ。
「彼女はエリカ・ノーランさんといいます。今年から皆さんと一緒に学ぶことになりました。皆さん、仲良くしてくださいね。エリカさん、挨拶をお願いします」
「はい。初めまして、今日からここの生徒になりましたエリカ・ノーランといいます。よろしくお願いします」
その唇から響く声もまた可憐だった。
同じ女性なのに、思わず見惚れてしまいそうだ。それだけの魅力が彼女には存在している。
(この子が、ラインハルト様と結ばれれば、ラインハルト様は助かる……)
握りしめた手から痛みを感じたが、無視した。
「あの、エリカさん」
休み時間、ヘレーネは思い切ってエリカに声をかけた。
ヘレーネが珍しくすぐ行動を起こしたのは、こんなに可愛い子ならきっとすぐクラスメイトとも仲良くなって自分では近づくこともできなくなると焦ったからだ。
実際は、流れている噂話と彼女自身が背中をまるめて顔を俯かせ周囲を拒絶するような雰囲気を出していた為、むしろ関わり合いになりたくないと遠巻きにされていた。ヘレーネがそれに気づいていたら、気後れして声をかけることができなかったかもしれない。
「……なんでしょう?」
「えっと、ここに来たばかりでまだ詳しくないんですよね? それで、その、よかったら私、案内しましょうか?」
「え……?」
エリカの暗かった目が驚きで丸くなる。
「それは嬉しいけど……でも、迷惑じゃ……?」
「ぜ、全然迷惑なんかじゃないです。今日の放課後はどうでしょうか?」
「えっと……それじゃあ、よろしくお願いします」
「はい、こちらこそ」
約束を取り付けられ、ヘレーネは内心飛び上がるほど喜んだ。最初の難関、声をかけるをこうも簡単に突破できるとは思わなかった。うだうだ悩まず、勢いに任せて行動してみるものである。
席に戻ったヘレーネはさっそく、学園案内のイメージトレーニングを行うことにした。
「そこにあるのが食堂で、あそこに見えるのが闘技場です」
放課後、ヘレーネはエリカに学園を案内した。
案内しているうちに思ったが、やはりこの建物の構造はわかりにくい。ある教室に向かうには階段を下りて、上がるという頭をかしげるような道順を通らねばならない時があるし、廊下がいくつも分かれている場所は案内板をつけるべきだ。
「うーん、なんだかわかりにくいな。この年で迷子になっちゃいそう」
「……そうですね」
大丈夫。入学初日ですでに迷った生徒もいるから。
とはいえず、あいまいに微笑んだ。
学園案内もいよいよ終盤になり、ヘレーネの両手に汗が滲む。
向かうのは第三図書室。
「さっき案内した第一図書室と第二図書室の他に、もう一つ図書室があるんです。そこは、二つと違ってほとんど人が使っていないんですけどね」
ヘレーネはそこを一年間ほど使っているが、ラインハルト以外の人物と出くわしたことがない。きっと第三図書室の存在自体知らない生徒も多いだろう。
あそこは「いらない」と判断された不用品の掃き溜め。だけれど、ヘレーネにはラインハルトとの思い出が詰まった大切な場所だ。
本当なら、エリカを含め他の誰にも踏み入って欲しくない。
(でも、それは私の我侭……)
欲望の赴くまま振る舞ったとして、その代償を払うのは自分ではないのだ。
そう自分に言い聞かせ、ヘレーネは第三図書室の扉に手を伸ばした。
「ああ、遅かったなヘレーネ。待って、たぞ……」
すでに待っていたラインハルトはヘレーネ以外の存在に気づき目を丸くした。それに気づかぬふりをしてヘレーネはエリカを室内に入れる。
「ラインハルト様、彼女は今日私のクラスに転入してきたエリカ・ノーランさんです。エリカさん、この人は一つ上の学年のラインハルト・カルヴァルス様。私がいつもお世話になっている方です」
「は、初めまして」
「ああ、初めまして」
互いに挨拶しあう二人だが、その様子はどこかおかしい。
本来、人の顔をじろじろ見つめるのは行儀がいい行為とは言えない。ラインハルトはもちろん、今日会ったばかりのエリカもそのような礼儀知らずではないことはヘレーネにもわかった。
なのに二人は今、互いの顔から目を離せないでいて、その間には不思議と他者を踏み込ませない空気が流れている。
そこにどんな感情があるのかヘレーネにはわからない。少なくとも不快感や不信感は見当たらないが、それ以上のことは判断がつかない。
戸惑いを覚えるも、心のどこかでヘレーネは納得する。
(そうか……ラインハルト様はエリカさんに一目惚れをしたのね)
何も不思議なことではない。
何せ二人は乙女ゲームのヒロインと攻略対象。惹かれあうのが道理なのだ。
足元が崩れるような感覚に眩暈を覚える。
今すぐ、二人の間に割って入ってしまいたい。
でも、それはできない。できないのだ。
だけど二人をそれ以上見ることは耐えがたく、ヘレーネは顔を俯ける。
(わかっていた……わかっていたことなのに……)
今、彼女は痛烈に自分の恋の終わりを実感していた。
わかっていたことだ。自分の恋が実らないことなど。
それでも、目に涙が溜まっていくのを抑えることができない。
このままこぼれ落ちてしまう前にここから立ち去るべきかと逡巡していると、ラインハルトが彼女の様子に気づいた。
「どうした、ヘレーネ」
「え?」
「……様子がおかしいが、どうかしたのか?」
顔を上げればラインハルトだけではなく、エリカも心配そうにヘレーネを見つめている。
「な、なんでもありません……その、久しぶりの学校だから、少し疲れてしまったんです」
咄嗟に出た方便だが、疑う者はいなかったようで、エリカは「大丈夫?」と心配そうな顔をし、ラインハルトも「今日はもう帰って休んだほうがいい」と告げた。
「そう、ですね……今日はもう休ませてもらいます」
その言葉に甘え、ヘレーネはエリカと共に第三図書室から退室した。
「ヘレーネちゃん、大丈夫? 辛くない?」
心配そうなエリカにヘレーネは罪悪感を刺激されながら頷く。
「ええ、大丈夫です。心配しないで」
「でも……もしかして、私に学園を案内したから余計に疲れたんじゃ」
「違います! 本当に、大丈夫ですから」
ヘレーネの様子がおかしい原因は疲労ではなく、彼女が勝手に嫉妬して傷ついて落ち込んでいるだけだなのだから、エリカが責任を感じる必要など一片もない。だが、それを伝えることはできずヘレーネは話題を逸らすことにした。
「ところで学園の構図は大体わかりましたか? とても簡潔にまとめてしまいましたから、わかりにくかったら言ってください」
「ううん、大丈夫。今日は本当にありがとうね。とても助かったよ」
エリカはヘレーネに純真な笑顔を向ける。その笑顔が、ヘレーネにはとても眩しい。
「……あの、ラインハルト様の事、どう思いました?」
「え?」
きょとんとするエリカにヘレーネはあらかじめ用意しておいた台詞を口に出す。
「いや、その……私、ラインハルト様にいつも魔術を教わってて、エリカさんも良かったら一緒にどうかなって思って……」
「……でも、私の魔力は高すぎるから……ちょっと危ないと思う」
「だったら、他の勉強でもどうですか。ラインハルト様、とても頭がいいし、人に教えるのも上手だから、決して損じゃないです」
「でも、お邪魔じゃあ……」
「そ、そんなことありません! ぜひ!」
戸惑い気味のエリカだったが、ヘレーネの強引な勧めに勢いを飲まれ、「それじゃあ、少しだけ」と受け入れた。
「よかった、ラインハルト様もきっと喜びます」
「そうかな?」
「そうですよ」
なにせ一目惚れした少女と一緒にいられるのだから。
エリカの方も、ラインハルトを見つめていたから、きっと満更でもないはず。
(待っていてください、ラインハルト様。ヘレーネがラインハルト様の恋を必ず成就させてみせます)
それで、幸せになった彼を遠くから見守っていければ、自分はそれでいいのだ。
痛む胸を無視しながら、ヘレーネは自分にそう言い聞かせた。




