第二十二話 とある修道女の話
まだ日の登り切らぬ早朝から、彼女は祈りを捧げていた。
白く染まった頭髪と、手に幾重にも刻まれたしわが彼女のこれまで歩いてきた道のりの長さを物語っている。
近隣の村の者しか訪れる者がいない小さな教会。彼女は長い間そこの修道女をしていた。
そしてこの早朝の祈りは、彼女がここに来てから一日も欠かすことなく行っている日課だ。
そこで彼女は毎日毎日、同じことを祈ってる。
初めて恋をしたあの人のことを祈ってる。
あの人と出会ったのはずっと昔、けれど彼女には昨日のことのように思い出せる。
自分が困っている時にたまたま助けてくれたのが彼だった。
富、権力、身分、容姿、頭脳、才能、おおよそ人が欲しがるもの、そのほとんどを彼は有していた。
けれど、彼女が気になったのはそのどれでもなく、彼の目。
周りからも慕われ、とても恵まれているはずなのに、彼はとても寂しそうな目をしていたのだ。
その目は、両親から愛されず、その鬱憤を周りに八つ当たりすることしか知らない自分に重なった。
そして気づいた。彼の孤独に気づき、寄り添えるのは同じく孤独な人生を歩んだ自分だけである、と。
そこで、気づいた彼女が何をしたかというと、何もしなかった。
自分が彼に気づいたのだから、彼もきっと自分に気づいてくれるはず。そして、自分を助ける為、救う為に迎えに来てくれる。だからそれまで待っていよう、そう考えたのだ。
彼女は、夢見がちで愚かな娘だった。
当然のことながら、その後彼が迎えに来てくれることなどなく、一年が経過してしまう。
さすがにこれはまずいと思った彼女だったが、時すでに遅かった。
彼の関心は、別の少女に向いていたのだ。
彼女は嫉妬した。憤った。
彼と結ばれるべきは自分なのに、あんな女に奪われるなんて我慢ならない、と。
しかし、根が小心者の彼女はことが公になったり、彼に嫌われることを恐れて大したことはできなかった。
そうしているうちに、両親の悪行が暴かれ、自身も修道院行きとなったのだ。
当初はそんな自分の運命を嘆き、悲しみ、恨んだが、それはある日、変化した。
風の噂で、あの人が死んだことを聞いたのである。
そこで、ようやく彼女は自分の愚かさに気づいた。
本当に救われるべきは、手を差し伸べられるべきは、自分ではなく彼だったのだ。それなのに、自分は彼の孤独に気づいていたはずなのに、自分のことばかりで彼を助けようとしなかった。彼の苦しみを、見て見ぬふりをしたのだ。
自分の罪に気づいてももう遅い。彼の人は死んでしまった。
それから、彼女は心を入れ替え、精力的に奉仕活動に励み、清貧を心掛けた。
彼女の働きはやがて周囲からの評判を集め、昇任や大きな教会への赴任を提案されたが、それを固辞し、あえて寂れた小さな教会に赴いた。
彼女にとって今の人生は、愛する人を見捨てたことに対する償いと、たった一つの祈りの為。
その為に彼女は、身を粉にして働き、人々に尽くしてきた。けれど、その時間ももう長くない。
祈り続けて早五十年。最近、体が思うように動かず、咳が止まらなくなることがある。きっと自分はそう遠くない日にこの命の灯を消すのだろう。
だから、彼女はより一層強く祈る。この祈りさえ届くのなら、自分はもう地獄に落ちてもかまわない。
(ああ、神様……どうか、どうか……ラインハルト様の魂をお救いください……!)
「…………ん?」
ヘレーネはゆっくりと目を開けた。
固い床に寝ていた為、体のあちこちが痛むがそれよりも気になることがあった。
(……なんだか、とても懐かしい夢を見たような気がする……)
けれど、内容が思い出せない。
前世の夢でも見たのだろうかと考えていると横で寝ていたシャインも目を覚ましたのか、彼女の手をペロリと舐めた。
「ん、おはよう。シャイン……」
ヘレーネが優しくなでるとシャインは気持ちよさそうに「にゃあ」と鳴いた。
ヘレーネが屋根裏部屋に閉じ込められて三日たった。
相変わらず、彼女はここでの寝泊りを余儀なくされている。
食事は出されるし、トイレや風呂にも行かせてもらえるが、窮屈でたまらない。それに、暴力を受けてもろくな治療を受けていない為、未だに痕が残っているし、痛みもする。
それでも、あまり落ち込んでいないのはシャインの存在が大きかった。シャインは屋根裏部屋に閉じ込められた次の日、食事が運ばれた際にこっそり中に入ってきたのだ。本当に賢い子である。
それからもう一つ。ポケットに入っている栞もまた彼女を支えていた。ラインハルトからもらった花で作った栞は完成してからずっとお守りのように持ち歩ているのだ。
シャインを撫でながら、ヘレーネはいつまでここに押し込まれているのだろうかと考えた。
流石に学校が始まるまでには解放してもらえるだろうが、それまでずっとこの状態なのは辛いものがある。
(でも、だからって私にできることはないし……)
どうせ、自分が何を言ったところであの親は聞き入れてくれない。せめて、何らかの気まぐれを起こし、ここから出してくれるのを願うばかりだ。
「……せめて、本があるといいんだけれど」
何せここには何もない。なのに時間だけは有り余るほどあるので時間が経つのがとてもゆっくりに感じてしまう。
さて、今日はどんな風に時間をつぶそうか考えていると、廊下から誰かが歩いてくる音が聞こえる。
そしてノックはおろか声かけすらもなくドアが開かれた。
「応接間にお向かいください。旦那様たちがお待ちです」
「え?」
どうして、と問いかけるより前に使用人は用が済んだと言わんばかりに去ってしまう。
だが使用人のそんな態度を気にしている暇はなかった。
両親の呼び出しにすぐ応じなければ何を言われるかわからない。シャインにはここに残っているよう伝えて、ヘレーネは応接間に急いだ。
「ヘレーネです。遅れてしまい、申し訳ございません」
応接間についたヘレーネはノックをして声をかける。
そして「入れ」という言葉を受けてからドアを開けたのだが、そこに思いもよらない人物がいて彼女は目を見開いた。
「ライン、ハルト様……」
一瞬幻かと思ったが、彼から「久しいな」という声をかけられ、これが夢でも幻でもないことを理解した。
「申し訳ありませんな、カルヴァルス殿。うちの娘は少々変わり者でして、屋根裏部屋を好み今日も入り浸っていたようです。さらに先日うっかり階段から落ちて怪我をしまい、このような見苦しい姿で挨拶することになるとはいやはや、親として恥ずかしいばかりです」
父の言葉にヘレーネは自分の姿を思い出す。
薄くなったとはいえ、あちらこちらには痣があり、埃まみれの屋根裏部屋にいたせいで服も汚れている。
こんな姿をラインハルトに見られ、羞恥心で顔が赤くなるのを感じた。穴があったら入りたい。
「いいえ、私の方こそこちらの予定を伺いもせず急に押しかけてしまい申し訳ありません。どうしても今日中に彼女の顔が見たくて」
「まあ、娘とは本当に親しいのですね」
「ええ。とても仲良くさせていただいております。それで先ほどの話なのですが……」
「勿論、大丈夫ですぞ。あなたなら安心して任せられます」
ヘレーネを置いてきぼりにしてラインハルトと両親は話を進めていく。
一体何の話をしているのかと首をかしげているとラインハルトが小さい割にずっしりと重そうな袋を両親に渡した。
「おお、これは……」
「まあ……」
それを覗いた二人から感嘆の声が漏れる。
「よろしいのですか、こんなに?」
「大事な娘さんをお預かりするのですから当然です。これからもどうぞよろしくお願いしますね」
「そ、それは勿論です、はい!」
自分がどうかしたのかと戸惑っているとラインハルトが彼女に近づく。
「それでは、俺の屋敷に行こうか」
「え?」
どうやらヘレーネはしばらくの間ラインハルトのところに身を置くことになったらしい。
どうしてそうなったのか話が見えないが、両親に急かされ服や本を鞄に詰めていく。
勿論、シャインのことも忘れない。心得ていたように自室で待機していたのは流石に驚いたが。
「いいか、絶対あいつの言葉には逆らうなよ。何があっても従え、服従しろ、媚びを売れ」
「嫌われるような真似するんじゃないよ。足を開いてでも気を引きな。……あと、わかってると思うけど、私たちのこと悪く言ったら承知しないからね」
以上が両親からのありがたい見送りの言葉である。
屋敷から出ると、すでに馬車が待機していた。
「……俺が持つ」
「あっ」
向かおうとするとラインハルトがヘレーネの荷物を奪ってしまう。それが自分を気遣ってのことだとすぐ気づいた。
「ありがとうございます」
「礼はいらない」
馬車に乗り込み、ゆっくりと動き出す景色を見ながら、ヘレーネはラインハルトに謝らなければと口を開く。
「ごめんなさい、ラインハルト様。私、何も見つけられませんでした」
「いや、謝るのは俺の方だ。君の家の事情を知っていたのに、無茶なことを言った」
「ラインハルト様は悪くありません。この怪我だって、本当に私の不注意で」
「俺が浅慮だった。君のことももっと気に掛けるべきだったのにこの体たらくだ」
「いえ、本当に悪いのは私でっ」
ラインハルトの手がヘレーネの口に添えられた。
「……もう止めよう。埒が明かない」
「はい……」
ラインハルトの言葉にヘレーネは頷き、二人の間に沈黙が落ちた。それは破ったのはラインハルトだった。
「……痛むか?」
ラインハルトがヘレーネの頬を撫でる。父に殴られた箇所だ。
「……少しだけ。でも、だいぶ楽になりました」
「だが、痛かっただろう?」
頬を撫でていた手は腕に移動していく。そこにもいくつも痣が残っていた。
「酷いな。俺の屋敷についたらちゃんと治療をしよう」
「あ、大丈夫、大丈夫ですから。慣れて、ますし……」
「慣れていても、辛いものは辛いだろう……?」
ヘレーネに触れるその指先と言葉はどこまでも優しい。久しぶりに感じた、人の温かさだった。
「周りから蔑ろにされて、虐げられて、捨て置かれて、平気なわけがない。さぞ、辛かっただろうに。よく頑張ったな」
そんな風に優しく触れないでほしい、そんな優しい言葉をかけないでほしい、ヘレーネはそう思った。だって、そんなことをされたら、もう耐えられない。
「あ、わ、わた、し……」
こみ上げた涙を抑えることができず、そのままぽろぽろと流してしまう。両親に暴行を受けた際にも出なかったのに。
そこで彼女はようやく自分が不安だったこと、惨めだったこと、苦しかったことを自覚した。
「い、痛かったです、怖かった……ふた、りとも……わ、わたしの話、ひっく、きいて、くれなくて……」
「そうか」
「わた、し…ひっ…なにも、なにもわるいこと、んん、してないのにぃ……ううっ」
「我慢するな。ここにそれを咎める者などいない」
抱き寄せられ、その胸の中でヘレーネは声をあげて泣いた。




