第二十一話 春休み
多くの生徒が我が家に帰るべく荷物を片手に持って校門をくぐったり、馬車に乗り込んだりしている。
学友との別れを寂しがりながらもその顔にどこか嬉しさをにじませているのはやはり家族と会えるからだろうか。
生憎、ヘレーネには全くそんな気持ちにはなれない。
少しでも帰る時間を遅らせたくて、馬車がなくなるギリギリまで第三図書室で粘ることにした。
シャインもそんなヘレーネの気持ちを察してか、足元で大人しく丸まっている。
「ヘレーネ、ここにいたのか」
そこにラインハルトがやってきて、ヘレーネは驚き目を開いた。
「ラインハルト様、もう行ってしまわれたと思ってました」
「君に挨拶をしようとしたんだが、姿が見えなくてな。探し回ったぞ」
「ご、ごめんなさい」
謝るヘレーネにラインハルトは笑って首を振る。
「いや、俺が勝手にやったことだ。気にするな」
彼はヘレーネの横に座ると彼女の手元を覗き込んだ。
「何を読んでいるんだ?」
「絵の評論の本です……書いてあることはよくわからないんですけど」
「へえ、珍しいじゃないか。君がそういうものを読むなんて」
「適当に本棚から抜いてみたらこれだったんです。あくまで時間つぶしでしたから」
手にずっしりとした重みを与えるその本には数々の名画が紹介され、そこに用いられている技法、当時の時代背景や好まれていた傾向などを事細かに記されているが、絵画の知識や興味のないヘレーネにはよくわからない内容だった。
ちょうどヘレーネが見ているページには、宗教画なのか、セーラティアがジードガルマに対し弓を引いている絵画が載っている。解説によれば、この弓矢によってジードガルマは討たれたのだという。
「あの、ラインハルト様」
「ん?」
「実家に戻って、私にやるべきことはありますか?」
ここで会ったのも何かの縁だと思い、ヘレーネは本を閉じてラインハルトに気になっていたことを聞いた。
ヘレーネはラインハルトから両親を陥れる為の協力者である。しかし、ヘレーネがやったことといえば証拠が残っているかもわからないかつての不正とここ最近怪しいなと感じた確証のない疑念のみ。何かの足しになるかもわからない。
自分の意思でラインハルトに協力すると決めたからには、ちゃんと役立ちたかった。
「そうだな……それじゃあ、些細なもので構わないから何らかの証拠や証明になるようなものがあるか調べてもらえるか? もちろん、無理はしなくていい」
「はい、わかりました」
ラインハルトの言葉を聞いて、ヘレーネはこの休みの中で絶対何か見つけてみせると心に決める。
「さて、挨拶も済んだし、俺はもう帰るよ」
「はい、どうぞお元気で」
「君も達者でな。何かあったら手紙をくれ」
そうしてラインハルトは領地に戻っていった。
ヘレーネもしばらく時間をつぶした後に馬車に乗り込んだ。
おおよそ一年ぶりの帰省。
もとよりよい印象のない屋敷だが、夕日に照らされているためか不気味な印象を受ける。
中に入ると人の気配がほとんどしない。おそらく、ほとんどの使用人がもう帰っているのだろう。
出迎えなど最初からあると思っていないヘレーネはそのまま荷物を持って自室に向かう。
廊下を歩いていると見覚えのない壺や絵画が飾られていた。また見栄の為に高い金を出して買ったのだろう。
途中で数人の使用人とすれ違ったが、彼らはこの家の一人娘であるヘレーネなど存在しないかのように挨拶もせず素通りしていく。
本来ならありえないことだが、この家では普通のことだ。それについてどうこう思う感性など、とっくに消えている。
部屋に戻ると埃っぽくてむせてしまった。きっとこの一年、ほとんど掃除されていないのだろう。
このままだとさすがにきついので窓を開けて空気の入れ替えを行う。
「さあ、シャイン。出てきていいよ」
荷物が入った鞄とは別に持ってきていたバスケットのかごを開けるとシャインがひょっこりと顔を出す。
かごから飛び出したシャインは体を大きく伸ばした。そして周りを伺うように鼻をひくひくと動かしたらくしゃみが出て、不愉快そうな顔をする。
「ごめんね、もう少ししたら綺麗にするから」
本当なら今すぐ掃除したいが、その前にやることがある。
両親への挨拶だ。
自分が帰ってきたことなどあの人たちにはどうでもいいことだろうが、挨拶しなければそれはそれで難癖をつけられてしまう。
まず父の部屋にいったが留守だったので、母の部屋に向かう。
ノックして入室の許可が出た後に部屋に入れば、母は鏡に向かっていた。
並べてある宝飾品を自分につけては取り替え、上機嫌な顔をしていたが、ヘレーネの存在に気づくと眉を寄せる。
「なんだ、あなただったの。何の用?」
冷たい眼差しと声にヘレーネは息が止まりそうになるがそれを何とか耐え、頭を下げる。
「一時帰宅したのでその挨拶に参りました」
「ふぅん」
「あの、母上。父上がどこにいるかご存知ですか?」
「知らないわ。またどこかで酒でも飲んでるんじゃないの? それよりさっさとどこかに行ってちょうだい。あなたのその陰気でみっともない顔を見るとこっちの気まで滅入るんだけど」
「はい、失礼します」
なるべく音を立てないように扉を閉めた後、ヘレーネは大きく息を吐いた。
握りしめていた服にはしわができていて、その手の平は汗で濡れている。呼吸は乱れ、意識がもうろうとするも、壁に体を預けつつ自室に戻る。
一年前まではここまで酷くなかったはずだが、どうやらこの一年間、顔を合わせなかった為によみがえってしまったらしい。両親に対する恐怖が。
「……はぁ、はっ……あ……」
幼い頃からのトラウマが脳裏をかすめ、ヘレーネを追い込んでいく。
なんとか部屋にたどりついたヘレーネはふらふらになりながらベッドに向かう。シャインが近づいてきたが構う余裕はない。
ベッドに倒れ込むと埃の匂いが鼻につく。服が汚れてしまうなと考えながらヘレーネは目を閉じた。
目を開けると、あたりはすっかり暗くなっていた。
どのくらい眠っていたかわからないが、この分だと夕食の時間はとうに過ぎているだろう。
(声もかからなかった……いえ、そもそも私の分があったかどうかも怪しい……)
体を起こし、ヘレーネはぼんやりとしながらこれからどうしようかと考えた。
本音を言えば、学校が始まるまでこのまま部屋に引きこもっていたい。
だが、それではラインハルトの頼みを成し遂げられない。
ラインハルトはきっと、できなくても責めないだろう。それどころか、十分に頑張ったと労わってくれるかもしれない。
だけど、それでいいのだろうか。絶対に見つけてみせると、あの意気込みは何だったのだ。自分で自分が情けなくなる。
(やっぱり、何かしたい。ラインハルト様の為に何か……)
幸い、今は夜。きっと親も寝ている。これなら、見つからずにすむかもしれない。
「……よし」
寝ているシャインを起こさないようにヘレーネは部屋から抜け出す。
書斎に行けば何かあるに違いないが、だからこそ何か対策が施されているだろう。八歳の時の二の舞は御免だ。
さてどうしようと屋敷内を歩いていると、突然怒声が響いた。
「おい! お前、そこで何やってる!!」
驚きそちらをみれば、父の姿がそこにあった。距離があるのに息が詰まりそうなほど酒臭く、顔が真っ赤で目もうつろなのがわかる。
大股で近づいてくる父に、逃げねばと思うのに体が言うことを聞かない。
「こんなところでなにやってる!」
「え」
「父親が帰ってきたのに出迎えにもこないとはどういうつもりだ!! このろくでなし!」
「そ、そんな」
一方的にまくしたてられヘレーネは体の芯から冷えていくのを感じた。しかしそれでも、弁解しなければと口を開く。
「わ、たし、そ、そんなつもり、ないです……か、帰ってきたの……しら、知らなくて」
「言い訳するな!」
頬に強い痛みが走る。殴られたのだ。
「あ、ぐ……」
衝撃で体がよろける娘に、父親はまた手を上げた。
唇が切れて、鉄の味が舌に伝わる。
「つぅ……」
この状態の父に何を言っても無駄だ。
ヘレーネは震える体を叱咤して逃げ出そうとするも、父親が「どこに行く気だ!」と追いかける。
ヘレーネの体がうまく動かないこともあって、すぐに追いつかれ、背中を蹴りつけられた。
「きゃあ……!」
体が大きく傾き、咄嗟に手を前に出すと、何かに触った感触はしたもののそのまま倒れ込んでしまう。
その直後、何かが割れる音が響く。
顔を上げればそこには陶器の破片が散らばっていた。
「ちょっと、うるさいわよ。何の騒ぎ?」
廊下の奥から寝間着を着た母が不機嫌な顔つきでやってくる。
「こいつにちょっと躾をしてやってたんだ」
「ふうん……」
父の言葉をどうでもよさげに聞いた母だったが、廊下に散らばる破片を見て、顔色を変えた。
「あんた、なんてことをしてくれたの!!」
「え?」
「この壺! この前買ったばかりですごく高価で気に入ってたのよ!?」
母はものすごい剣幕で近づくと、倒れている彼女を何度も何度も踏みつける。
「ご、ごめんなさ……ごめんなさい、ごめ、ごめんなさい……」
ヘレーネは自分の体を丸め、必死に何度も謝罪するも、それで許してくれる両親ではなかった。
「あーもう、これだからこいつがいるのは嫌なのよ。ただでさえ、いるだけで人の気分を悪くするくせに私たちに迷惑かけることばっかりして!」
「全くだ! 役立たずな上に面倒ごとばかり起こす! この疫病神め!!」
父も加わった暴力にヘレーネは耐えることしかできない。
ただただ、この時間が終わることを願った。
ようやく終わったと思ったら、父親が彼女の髪を引っ張り立ち上がらせるとそのままどこかへ連れて行こうとする。
「立て! このグズ!」
もはや抵抗するだけの気力もない彼女はその言葉に従い、なんとか歩き出す。向かう先がどこかなんて、見当がついていた。
ついたのは屋根裏部屋である。
そこに押し込まれたヘレーネは施錠の音を聞き、ここに閉じ込められたことを悟った。
「う、あ……い、たい……」
殴られた箇所、踏まれた箇所、どこもかしこも痛い。
体を横たえても感じるのは冷たくて固い床の感触だけ。灯りになるようなものはなく、唯一の光源は窓から入る日の光のみなので夜になれば真っ暗。それに、屋根裏部屋自体は広いのだが、いろんな物が置かれているせいで実際は窮屈である。
幼い頃は、ここに閉じ込められると怖くてたまらなくなり、泣いて叫んで出してほしいと懇願したものだ。
最も、そんなことをしたところで、出られる時間が遠ざかるだけだったが。
(……どうして、こんなことに、なったのかしら?)
虚ろな眼差しを暗闇に彷徨わせながらヘレーネはぼんやりとそんなことを考えた。
(私の、せい……かな)
けれど、運が悪かったか、周囲の警戒を怠った自分のせいという結論にしかたどり着かなかった。
(ラインハルト様に……謝らなきゃ……)
何もできなくてごめんなさい。役に立てなくてごめんなさい。
「ごめんなさい……ラインハルト様……」
小さく紡がれた言葉は誰かに拾われることもなく、暗闇に霧散した。