第二話 ヘレーネという少女
ヘレーネ・ボルジアンには人には言えない秘密がある。言ったところで信じてもらえず冗談だと切り捨てられるか、頭がおかしいと気味悪がられるような秘密である。
彼女には、自分のものではない記憶があった。それは、前世の記憶というものだと彼女は考えている。
ヘレーネにこの記憶が蘇ったのは彼女が七つの時、高熱で倒れたのがきっかけだ。
熱そのものは一晩で下がったものの当初のヘレーネはひどく混乱した。なにせ、朝起きて苦しみから開放されたと思ったら、身に覚えが全くない記憶が頭に根付いていたのだ。
もしかして自分は何かおかしな病気にかかってしまったのか、それとも誰かが自分に何かしたのか。あの頃は毎日そんな不安に襲われていた。
しかし、それでもこのことを周囲の大人に相談することはなかった。できなかった。
両親はヘレーネの欲しがるものをなんでも与えてくれたがそれは彼女を溺愛していたからではなく、子供をあやすのが面倒くさかったからそうしていただけで基本的には放置していたし、使用人達は自分たちの仕事を済ませてお金さえ貰えれば雇い主の子供になどどうでもよく、それまでとても我侭だった子供がある日突然大人しくなってしまったとしても、手がかからなくなってよかったと思われる程度で気にする者は誰もいなかったのだ。
結局、ヘレーネがその記憶を受け入れるのに一年もかかった。
そして記憶を受け入れたことで余裕のできた彼女は余計なことに気づいてしまう。
以前のヘレーネはそれが当たり前だと思っていたから気付かなかったが、彼女の両親はずいぶんと羽振りがいいのだ。
ボルジアン家が治める領地はそこそこ広く、それなりに豊かであるがだからといって両親の日々の贅沢を賄えるほどではないはず。それがないということは何か後ろ暗い手段を使っているのは想像に難くない。
そして彼女は両親が行っている横領や賄賂などの不正に気付いた。
気づいてしまったヘレーネは悩んだ。できることなら知らぬふりをしたかったというのが本音だった。今の生活は周囲から捨て置かれてはいるが即物的な望みは全て叶えられていて一般的な水準から言えば贅沢な生活を送っているということを知っていたし、もし両親が捕まれば自分はこの先一生罪人の娘として見られ、迫害されるであろうことは間違いない。
しかしだからといって、開き直って良心の呵責を無視することもできず、結局は罪悪感に急き立てられる形で両親の所業を手紙をしたためたのだが、それを誰かに届けることは叶わなかった。彼女の両親は彼女が思っていた以上に慎重かつ小賢しい人間で、自分たちの甘い蜜を誰にも奪われまいと蜘蛛のようにそこらじゅうへ張り巡らしていた糸に、彼女は足をすくわれてしまったのだ。
ヘレーネがしようとしたことを知った両親は激怒して、二度とヘレーネが自分たちに反抗しないように徹底的に『躾』をした。前世の記憶があるとはいえヘレーネ自身はまだ幼い少女であり、味方になってくれる者も守ってくれる者もいない状況で彼女の心がぽっきりと折れてしまったのは仕方がないことだろう。
以来、今日に至るまで両親の従順な奴隷として生きてきた。いや、生きる喜びも希望も持たず、現状を変えようとするどころか逃げようという気力すらもない、自ら考えることを放棄して人に言われるがまま行動する姿はむしろ人形に近い。
しかし、ずっと死んだように凍っていたヘレーネの心は七年ぶりに抱いた情動に揺り動かされていた。
ヘレーネは机に向かってノートにペンを走らせる。その文字はこの世界のものではない、前世の世界のものがいくつも混ざっている。前世の記憶を思い出している際に文字を書くとつい前世の文字が出てきてしまうのだが、ヘレーネにはそちらの文字も問題なく読めるので気にせず書き連ねる。
(タイトルは……ううん、それはどうでもいい。もっとこう、選択肢とか、イベントとか、そっちを思い出さないと……)
ノートには今日出会ったラインハルトを含め今のヘレーネには面識がないはずの男女数名の名前や容姿、さらには今知り得るはずのない未来の出来事まで書かれていて第三者がその内容を知ればさぞ不気味に思うだろう。
「……ああ、駄目だわ……」
しばらくしてペンを止めたヘレーネはノートを見返すも、すぐ項垂れる。
(思い出せない部分が多い……もっと、早くこの世界があのゲームの世界だって気づいていたら……)
前世のヘレーネは「オタク」と呼ばれる女性であり、恋人も友人もいなかった彼女は休日になると乙女ゲームに夢中になっていた。
そしてそのプレイした乙女ゲームの中でも特にお気に入りだったゲームこそ、この世界であるのだ。他のゲームについては忘れてしまったが、このゲームだけは何度も何度もプレイしていたおかげか、かろうじて覚えていた。
ゲームの内容はファンタジー系で、ある日突然不思議な力に目覚めたヒロインがこの王立学園に転入するところから物語は始まり、学園で様々な男性と知り合って交流を通じ、仲を深めるという王道物だ。
ちなみに、このゲームの中にヘレーネは登場する。といっても大した役ではない。こういった物語にありながちな、平民の出自なのに成績優秀で才能あふれ、周囲から愛されるヒロインを目の敵にする意地悪な貴族令嬢。つまり悪役なのだが、その意地悪も周囲に気取られないような卑小なものばかりで、その後も特に大きなことをやらかすわけでもなく特に改心するでもなく、中盤であっさり退場してしまうのでプレイヤーからもさっさと忘れられてしまうような印象の薄い存在である。この存在感の薄さのせいでヘレーネは今の今まで自分がゲームの登場人物と気づけなかったのだ。
そしてラインハルトもまたゲームに登場するキャラなのだが、彼はヘレーネとは違ってゲーム内でも重要人物の一人だ。なんといっても攻略対象なのだから。
ラインハルト・カルヴァルスは面倒見が良くて頼りになる先輩として登場する。学力が高く、武芸に優れ、魔術の才も持ち、さらにすでに家督を継いて貴族の当主として領地を治め発展させている彼はカリスマ性まで有しており、周囲から一目置かれる存在だ。ヒロインが困ったり悩んだりしている時は慰めたり、助言をしてくれたりしてヒロインはそんな彼に徐々に心を開いていくのだが、ラインハルトはただの攻略対象ではない。彼は、隠しキャラであり、物語のラスボスでもあるのだ。
しかし、もっと重要な事がある。
それは、ラインハルトが自分のルート以外では死んでしまうということだ。
ヘレーネは出来が良くない自分の記憶力に苛立ちながら必死にゲームの内容を思い出そうとする。前世の記憶は七歳の時点でも完璧とは言いがたく、更に十五になるまでの八年間で大部分は薄まってしまった。
だが、さじを投げるわけにはいかない。ラインハルトの命がかかっているのだから。
目蓋を閉じれば簡単に思い浮かべることができるラインハルトの姿。
ヘレーネは一目見た瞬間から彼に心奪われていた。
叶う見込みの無い恋である。攻略対象であるラインハルトにはすでにヒロインという相手がいるし、ゲーム云々を無視したとしても、彼は高嶺の花だ。彼ほど地位も容姿も能力も備えている男性が、ヘレーネのような陰気で面白みもなければ可愛げもないうえに、悪い噂の絶えぬような家の娘なんぞ選ぶわけがない。でも、それを悲観することはしない。
何故なら、彼女の末路はすでに決まっている。『ヘレーネ』は来年、両親の悪行が露呈し彼らが捕縛されると同時にこの学園から追い出されるのだ。未成年で、両親の行っていた犯罪に直接関わっていなかったヘレーネは罪人になることはなかったが、借金と賠償金により財産を没収され、彼女は修道院で一生過ごすことを余儀なくされる。ゲームではその詳細は描かれなかったが、もう二度とラインハルトと会うことはできないだろう。
だから、あの人を救うことだけを考える。ヘレーネはずっと、両親が何をしているか知っていながらその命令に従い続けた。それはつまり、両親のせいで苦しむ人々を見捨てたのと同じであり、その罪を償うのは当たり前のことだ。
故に、胸の痛みを無視してヘレーネはまた記憶を掘り返す作業に戻った。