第一話 二人の出会い
国一の面積を誇るセントラル学園の校舎内を少女は一人で歩いていた。
二つ結びにされた薄紫色の髪にすみれ色の瞳。綺麗な顔立ちでほっそりとした体つきをしているものの、不健康なほど青白い肌に能面のような表情をしているせいで暗く近寄りがたい雰囲気を持つ彼女の名前はヘレーネ・ボルジアン。今日からこの学園の生徒になった貴族の令嬢である。
時折立ち止まっては周囲を見渡し、また歩き出す。もうすでに何回もそんな動作を繰り返している彼女は、傍から見れば何も感じていないようにしか見えないが内心とても焦っていたし困っていた。
もう一度周りを見渡せば同じような景色が続くばかりで、ここからどこに進めばいいのかさっぱりわからず彼女は小さく溜息をつく。
(はあ……完全に迷ってしまった……)
入学式を終え、普通であれば寮に向かうべきところをそうしなかったのは、いい噂を聞かないボルジアン家の一人娘であるヘレーネに向けられる冷ややかな視線とひそひそと囁かれる陰口から逃れたかったからである。
だから少しでも人気のないところへと足を進めたのはいいものの、創立以来、増築され続けたらしい校舎は利便性と合理性に欠いた複雑怪奇な構造になっており、自分がどこにいるのかさっぱりわからなくなってしまったのだ。
窓を見ればすでに夕暮れ時。
寮には門限がある。入学してそうそう規則を破るなど、ただでさえ悪目立ちしているヘレーネにとってはなんとしても避けたい事態だ。
とにかく歩くしかないと踏みだそうとしたヘレーネだったが、後ろから彼女に声をかける者がいた。
「君、どうかしたのかな」
振り向いたヘレーネは目を大きく見開く。
そこにいたのは一人の青年だった。黒い髪と黄金の瞳を持ち、背が高く凛々しい顔立ちをした美丈夫であり、威風堂々たる佇まいをしているが、その顔には気安さすら感じる笑みを浮かべている。
「失礼、ずいぶんと困っていたようだから声をかけさせてもらったのだが、君は新入生かな?」
「え、あ、は、はい、そうです。その、ま、迷子になってしまって……」
青年に見惚れていたヘレーネは我に返り、慌てて自分の状況を説明した。この歳になって迷子など恥ずかしくってたまらないが事実なので仕方がない。
しかし彼はそれを馬鹿にすることなく、なるほどと頷いた。
「ああ、この学園は広いから慣れないうちは仕方がないさ。案内しよう」
こちらへ、と言って先導する彼についていき、いくつもの角を曲がりながらしばらく歩いていると見覚えのある場所が見えてきて、ヘレーネはほっと胸を撫で下ろす。
「俺は二年のラインハルト・カルヴァルスという者だ。君は?」
「わ、私は一年のヘレーネ・ボルジアンです……あ、あの、本当に、ありがとうございました」
「なに、礼には及ばないさ。それじゃあ、俺はこれで」
「あっ……」
背を向けてそのまま去っていくラインハルトに思わず手を伸ばしそうになるヘレーネだったが、引き止めたところでどうすることもできないし、これ以上迷惑をかけるのも嫌だったので自制する。
その代わり、彼の姿が見えなくなるまでその背中を見つめ続けた。寮に帰る時も心ここにあらずという状態で、この時ばかりは周囲からの陰口など気づきもしなかった。
自分に割り当てられた部屋の扉を開ける。
この学園の寮は全て個室である。全寮制であるこの学園は基本的に貴族と平民で区別はつけないが、互いの生活環境の違いを考慮して寮室だけは金さえ積めばより良い部屋を与えられ、専属の使用人を連れてくることも許されるのだ。そうはいっても、ヘレーネにはあまり関係のない話である。寮の一階にあるヘレーネの部屋は貴族が使う部屋としては狭く、これまた貴族の令嬢としては少ない荷物があらかじめ運んでもらっていたがその荷を解くのも忘れ、ヘレーネは備え付けのベッドにごろりと体を横たえた。
目蓋を閉じて思い浮かべるのは先ほどの別れたばかりのラインハルトの姿である。
(ラインハルト・カルヴァルス……ラインハルト様……)
頬を紅色に染め、その名前を何度も心の中で復唱する。
何度も何度も。
忘れないように。色褪せないように。
しばらくそうして夢見心地を味わっていた彼女だが、突然飛び跳ねるように体を起こした。
そして、先ほどとは打って変わって青ざめた顔した彼女は震える声で呟いた。
「……どうしよう……ラインハルト様が、死んでしまうかもしれない……」