朝
ゾンビに襲われた経緯について彩奈がそれ以上語ることはなかった。
「それで医者に行ったのか?」
彼女は服の上から肩の傷をさすり、首を横に振った。
「もう街はパニックになってたから医者にもかかれなかった。だから私はゾンビ達から逃げてこの屋上にたどり着いたの。それから高熱で1週間は苦しんでたんだ。でも結局、私は死ななかった。ゾンビにもならなかった。結局、治っちゃったのよ」
「不思議な話だ……。初めて聞いた」
「体が治った後で、何故か私の体の身体能力は凄く高くなってて……。それからはゾンビに何度噛まれても、平気な体になってたよ。なんかインフルエンザみたいな感じだね」
確かに……。これが彩奈の強さの秘密だったのか。
「君のような人は他にもいるのか?」
「さあ……。私以外にゾンビに噛まれて生き残った人を見たことがないし……」
彼女は少し寂しそうな、稚げな表情を浮かべた。辛い話をさせてしまったようだ。
「スーパーゾンビか……。ゾンビを食うだけならありがたいんだけどな。人も襲うのなら厄介だなあ」
彼女の話だけでは因果関係は不明なんだが、彼女自身はスーパーゾンビに噛まれたことが常識を超えた強さを身につけた理由だと思っているのは確かだ。ゾンビではなく、ジョーカーという個体でもなく、あくまでスーパーゾンビ。
でもスーパーゾンビ経由で感染したところで普通は死亡してゾンビになるという。でも唯一彼女だけはそうならなかった。ゾンビ感染症の致死率は100%だが、スーパーゾンビから感染した場合は100%ではないらしい。
でもそこから生き残っても彼女のような能力を得られるという保証はない。
「まだまだ話をしたいことがあるけど、今日は疲れちゃった……」
欠伸する口を手で隠す彩奈。そのまま椅子から起き上がると簡易テントを張った。
「もう寝ましょう。みんな、もう就寝の時間よ」
「え。もう寝ちゃうの」
俺は腕時計をみるが時刻はまだ午後8時だ。
「暗くなってしまうと何もできる事はないから。無駄に燃料を使用する余裕はないの」
4人たちは、2人ずつ大型のテントに入っていく。
「みんなテントで寝るの?せっかくのビルなんだし、部屋で寝たほうが良くないか。突風がきたり雷雨になったらヤバイぜ……」
すると眼鏡が突然に俺にテントの入った袋を投げつけた。
「下は真っ暗なの!暑いし。晴れてる時はここで寝たほうがマシ」
「はいはい……」
(後で正確な理由を知ったのだが、このビルはもともとホテルであり、感染者が宿泊していた形跡があるのだ。ゾンビそのものは彩奈が排除したものの、ベッドなどは警戒してまだ使用していないのである)
彼女達は予備のテントとマット等を貸してくれたのだが下はコンクリートなのでペグを刺すわけにはいかない。強風でも簡易テントが飛ばないように、重いブロックをつける。
彩奈が外のランタンの灯りを消すと、テントの中まで真っ暗になってしまった。
闇の中で俺はあれこれ考え込んだ。
消えてしまった岩井の行方とか。父島の家族は心配してるだろうかとか。これからどうなるんだろうなどと不安はつきない。だが気づけば寝てしまっていた。あまりに疲れすぎていたのだ。
そして長かった夜がようやく明けた。
テントのチャックを開ければ、今日も清々しい晴天だ。でもやっぱりここはビルの屋上。俺はやっぱりゾンビが彷徨く世界にいるのだ。
隣のテントのファスナーが開くと、パジャマ姿の彩奈が四つん這いで身を乗り出す。驚いたことにクマのぬいぐるみを抱えていた……。
「ふぁ〜ぁ。蒼汰さん、おはよう。昨日はよく眠れた?」
「おかげさんで。ぐっすり寝れたよ」
彼女は目をこすりながらニコッと笑った。
「私もそう。あんなに安心して寝れたのは……いつ以来かな」
その笑顔はあどけない子供のようだった。
しかし俺は重要な……とても重要な質問を彼女にしなければならない。困ったことに事態は深刻で、非常に切迫していた。
「あの……ところで彩奈さん」
「彩奈でいいよ」
え。そんな。急に呼び捨てだなんて……などと考えてる余裕は今の俺にはない。
「じゃ……じゃあ彩奈」
「うん」
「トイレって、俺どうしたらいいの?」
○○○
間に合って良かった。もう少しでビルの屋上から外に向かってやるところだった。彼女たちはビルの最上階のトイレだけは使用可能な状態にしてくれていたのである。ただ女子トレイで事を済ませなければならないのが複雑だけれども。
トイレを出た俺は、ほぼほぼ真っ暗な廊下に出る。ここで俺は彩奈から受けた忠告を思い出す。念のために部屋のドアを開けないこと。そして8階から下にはいかないこと。
俺は……なんとなく興味本位で廊下を進むことにした。