惨劇と希望
東京第5コロニーの南部区域はキングの力で壊滅し、運動場のテント村は流入してきたゾンビ達に襲われて消滅してしまった。既に200人を超える死者を出し、585人の生存者達を有していた第5コロニーも今や壊滅寸前となっている。
しかしまだ300人を超える住民たちが生き残っている。彼らは迫りくる滅亡の運命と必死に戦わなければならない。
東京第5コロニー
生存者達は主に体育館、誠心寮、講堂……この3つの建物に集中していた。だがその建物のどれもが数百体という食人鬼達に包囲されている。
刑務所を取り囲む塀が破壊されゾンビが侵入をはじめるまでは、この建物の間を生存者達が往来できていたのだが、今はもうそれすらできない。各々が孤立し、少グループごとに包囲するゾンビ集団と向き合うことになる。
しかし生存者達の避難している建物には、防衛力に差があった……。
防御力の高い体育館と誠心寮の2つはまだ安全であったのだが、それらに比べて守りの手薄な講堂に逃げ込んでしまった集団は危機に瀕している。(ここには怪我人や、ダンプカーの落下によって天井を破壊された体育館から逃げてしまった人々が集まっている)
建物の中では80人を超える生存者達が必死に入り口を封鎖するバリケードを構築していた。住民たちは必死に会議用の折りたたみテーブルなどをかき集め、針金やヒモで結び必死に扉を押さえている。例え扉を突破されても容易に侵入させないために……。
このバリケードは天井までの高さがあり、壁に密着していた。とにかく扉を塞ぐことを目的に簡易的に作られたものであり、残念ながらかなりの隙間がある。子供ならくぐり抜けられるほどの隙間があり、単独ではゾンビ達を防ぐ力に欠ける。
つまり戦国の城と同様に、内側から敵に攻撃してこそ侵入を防げる……といった代物だ。
「シャッァァ……!ジュルジュ……」
生者を匂いを嗅ぎつけたゾンビ達は、涎をたらしながら講堂に押し寄せる。とは言え鉄格子と、鉄製の扉に守られた建物なので簡単には侵入できない。
入り口の扉から最も遠く離れたステージの上に老人、子供、女性達が避難している。彼らは灯りもなく薄暗いステージの上で、じっと身を潜めている。そこには恐怖で泣きじゃくる幼子を、母親が必死にあやしている姿があった。
「うわぁぁん!怖いぃぃ!」
「よしよし……。怖くないから。ゾンビは中に入ってこれないから安心して。静かにね」
講堂の外にいるゾンビ達に子供の泣き声が聞かれないよう、母親はそっと子供の口を押さえた。無駄だと分かっているのに……。
一方、バリケードの周囲には武器を持った若者達が陣取っていた。その数は30名ほどだ。
赤い帽子を逆向き被った青年が皆に向かって叫んだ。細身で身長の高い彼は、きっと俺と同い年ぐらいだろう。
「ちくしょう。ここまで生き延びてきたのに、殺されてたまるかよ!」
彼の叫びは皆の気持ちを代弁していた。どうにかパンデミックを越えたというのに、ゾンビに喰われる最後が待っていたのではあまりに酷い運命だ……。
眼鏡をかけた壮年の男は槍を持って構える。食料事情が厳しいゆえに多少やせ衰えているが、かつてボクシングで鍛えた筋骨隆々とした体躯は健在だ。彼は、半分パニック状態に陥っていた赤い帽子の青年を宥める。
「落ち着け梶!順番に潰していきさえすればきっと追い払える」
外からは、鉄製の扉を破壊せんとする激しい衝撃音が響く。何者かが激しい攻撃を建物に加えているが分かる。
「くそ……ゾンビの分際で……。入ってきたら槍で突き刺して殺してやる」
住民達を震え上がらせた「音」の正体とは、1体の大柄なゾンビが振り下ろす斧が生み出す金属音であった。
講堂は大勢のゾンビ達に包囲されているのだが、大半は意味もなく壁を叩いているだけである。しかし入り口の扉の前にいたこの大柄なゾンビは少し様子が違っていた。
190センチを超えるこの大柄なゾンビは、扉を破壊せんと斧を叩きつけているのだ。(この斧は元々はテントで暮らしていた住民のものである)
「ウゴ……ゥジュウウ……」
そのゾンビの全身の皮膚は剥がれ落ち、見るも無残な姿をしている。服と言えるものは何も残っておらず、もはや人語を発することすらない不気味なゾンビであった。だが道具を扱えるほどの知能が残っていたのは厄介である……。
(彩奈達が言ってたようにゾンビの知性知能も様々である。ただし大半は道具を扱う知性すらなく、この大柄ゾンビレベルの知性を持つ者など滅多にいない)
バリケードを守る武装集団の中に1人だけ女性が混じっている。年齢は20代前半ぐらいだろう。金属バットを持って構えている彼女は、その無骨な格好に似合わない慈愛に満ちた意見を述べる。
「ね……ねぇ。もしかして生き残りが、この中に入りたくて必死に斧を振るってるんじゃ……」
だが赤い帽子の青年は直ちに彼女の幻想を否定した。
「バカ違う!そんな奴はもうとっくに殺されてるんだよ!奴はゾンビだ。間違いないぜ……」
「でも……助けを求めてる人なら開けてあげなきゃ……」
食い下がる彼女を眼鏡の男が制止し、下がるように命じる。
「仮にそうだとしても扉を壊そうとしてる奴なんて敵と同じだよ」
「そんなこと言わなくても!こんな時に……」
中での諍いをあざ笑うように、大柄なゾンビは笑みを浮かべて斧を扉に突き刺す。ところが頑丈な鉄製扉は多少凹むことはあっても、破壊されるには至らない。
「ど……どけ……。じゃ…まだ……」
するとこの大柄ゾンビを押しのけて、銃を持った別のゾンビが現れた。そのゾンビは後頭部を失っており、鮮血で体中血まみれになっている。つい先程死んでしまった人間の様子だ。
実はこの男、先程までコロニーの防衛任務にあたっていた瀬川という者である。流入してきたゾンビに襲われ死亡したようだが、極めて短時間でゾンビに変貌してしまった。
困ったことに、彼の知性のレベルは一般のゾンビ達と比較してかなり高かった。これは極めて稀なことだ。(もしかすると死亡直後のゾンビに、稀に発生する特別な現象なのかもしれない)
「ゲへへ……中に……たくさん……いる……」
守備隊員だったゾンビは扉の鍵を破壊すべく何度も発砲する……。そして最後の一発でついに鍵を壊し扉を開けてしまった……。後は急ごしらえのバリケードだけが最後の砦となった。
住民達は発砲音に驚き、そして絶望した。
「開けられちまったよ……。こりゃどうすりゃいいんですか」
簡易テーブルバリケードの隙間から、ゾンビ達の姿が見える。その中に同胞が混じっていることに男たちは言葉も出ない。
「み……みんな……。俺が……食べに……来た……よぉぉ……。いい匂い…だぁ……」
さっきまで仲間だった男が、もはや話も通じない血に飢えた死人に変貌している。
「な……なんてこった。瀬川の奴じゃねえか……」
「ひでぇ……瀬川!お前が開けたのかよ。みんな死んじまうじゃねえか!」
鉄製のドアが開くや否や、大柄なゾンビが行く手を遮るバリケードに向けて斧を振るい、これをゆっくりと破壊していく。その上、中に向かって押し寄せるゾンビの集団の圧力が、徐々にバリケードの限界に達しようとする。(一体のゾンビは後方からの圧力のためにバリケードに挟まれて、そのままプレスされ体を切断されていく)
もはや静観はできない。リーダー格の髭面の男が叫ぶ。(青井という名のこのリーダーは、大崩壊以前は土木作業に従事しており、身長は高くないが屈強な体つきをしている)
「くそぉ!皆でやっちまうぞ。死んでたまるかぁぁ!」
その激に若者たちは続く。
「おおおお!」
「おらぁ!」
15人の男たちが必死に槍や棒をバリケードの隙間から突き、押し寄せるゾンビ達に向かって攻撃を加える。(30人全員で攻撃するには狭すぎるだめ)
初めは動きの劣るゾンビ達に対し優勢を保っていた。ゾンビ達は次々に体を損壊し、中には動けなくなり倒れ込む者もでた。だがゾンビの圧力は全く減らない。
「はぁ……はぁ……。まだ終わんないのか」
例え前線のゾンビ達がバラバラにされていようが関係ない。人間の匂いを嗅ぎつけて外からどんどん集まってくるためだ。新たに侵入してきた小柄な老ゾンビは、人間たちのいる側に通り抜けようとバリケードの隙間に入ってしまう。
「コイツ……!くたばれゾンビめぇ!」
手を伸ばして隙間を進もうとする老ゾンビの目を、リーダー格の青井は槍で刺した。だが老ゾンビはビクともせず、槍の穗を握りしめて掴む。青井は急いで槍を引くと、ゾンビの指は落ちていく……。それでも老ゾンビは進もうとする。
指を失ったその手を動かす度に、老ゾンビの黒い血が飛び散る。青井は感染することを恐れてとっさにその身を引いた。
「ま……まるで軍隊アリだ。いくら攻撃しても引きゃしないぞコイツら!まさに地獄の亡者達だ」
押し寄せるゾンビと感染症の恐怖を前にして、若者達の表情に絶望の色が見えはじめる。
「こんなのどうすればいいんだよぉ……」
「塀さえ壊されなきゃこんなことにはならなかったんだ。ああ……」
俺と彩奈が長らく戦ってきた「ゾンビ」とはこういう存在なんだ。かつて彼女は、返り血を浴びながら徹底的にゾンビの体を砕いてみせたが、そうでもしないと止められなかったのである。だがそれは他の者たちには真似できはしない。
この程度のレベルのゾンビ達ですら……普通の人間には到底手に負えやしないのだ。
「どいてください青井さん!俺がやります!」
リーダーの体を押しのけ、赤い帽子を被った青年はバリケードの最前線に立った。そこで彼は隠し持っていたピストルを取り出し突然発射する。この勇敢な若者は、ゾンビの返り血も全く恐れず発砲を続けた。皆の尽きかけてる戦意を再び高揚させようと奮闘しているのだ。
「くらえぇぇ!死ねええ!」
彼の放った弾丸は、老ゾンビの頭に重大な損傷を与え、さらに守備隊員だったゾンビの目を貫き、大柄なゾンビの頭にも命中する。しかし……そんな程度のダメージなど死人達にとってはまるで意味がない。
「おいおい……目を潰してやったんだ……なのにこれでも駄目なんて……!」
大柄なゾンビは、頭部の損傷などものともせず斧を振り回し続ける。そしてバリケードを構築している机や椅子を破壊して、引き剥がしていく。
「全く厄介な野郎だよゾンビってのはよぉ!それ以上させるかぁぁ」
青年は急いで銃に弾を込めて、バリケードの中に手を突っ込む。そして可能なかぎり大柄ゾンビに銃を近づけて発砲した。それは再びゾンビの顔に命中したものの、伸ばした腕を大柄なゾンビに掴まれてしまった。
「うわっ!しまっ……」
「ヒシャシャシャッ」
人語を発することはないが、ゾンビのその表情は笑っているようだ。青年は急いでゾンビの腕にも発砲するが、腕を掴む力は緩むことはない。恐怖に負け、赤い帽子の青年は態度を一変させてしまった。
「や……やめてください!俺が悪かったです!いやだ……皆助けてくれぇぇ」
恥もヘッタクレもない。ただただ怖いのだ。
「や……やばいよこれ!梶の体を引っ張るんだ!向こう側に引きずりこまれちまうぞ」
住民たちは急いで勇敢な青年の体を引っ張ろうとするが、態勢が整う前に大柄なゾンビは力任せに餌(青年)を引っ張り込んだ。
「グシュシュシュ!」
「ぎゃああっ!離して!離してください!」
青年の体はバリケードの隙間を通って、そのまま死人達の蠢く世界へと引きずり込まれてしまった。
「か……梶ぃぃ!」
「大丈夫か梶!」
仲間たちが必死に青年の名前を呼ぶが、もはや彼らにできることは何もない。大柄なゾンビは青年の体に何度も斧を振るった。
「うわぁぁぁ!うぎゃぁぁぁ!」
バリケードの向こう側から、壮絶な悲鳴が聞こえてくる。仲間たちはあまりにもショックを受けてしまい、ただ呆然としてゾンビ達を攻撃することも忘れてしまう。
隙間から、数十というゾンビ達が一斉に青年の体に襲いかかっている姿が見える……。
「ぎゃあああああ!痛いぃぃ!や……やめてく………!ぐごごぁぁぁ」
いくら泣き叫んでもゾンビ達は青年を食おうとするのをやめはしない。結局、赤い帽子の青年は、ゾンビの大集団の餌食にされ、その体を無残にバラバラにされて絶命した。
その後もゾンビ達は彼の死骸に群がり、骨まで食らいつくし、後には血に塗れた帽子だけが残った……。
戦おうと意気込んでいたはずの若者たちの顔は青ざめていく。呆然としてる暇などなく、今この瞬間も必死にゾンビと戦わなければならないのだが……もはやできない。
青年の友人だった若者は泣きながら、友人の名を呼んだ。
「か……梶……。梶ぃぃぃ!糞ゾンビどもめぇぇ!」
復讐心に燃える友人だったが、ゾンビの大群がバリケードは突破してしまうと彼の怒りも吹き飛んだ……。
「うわぁぁぁ!本当に来ちゃったぁ!ゾンビ達が来たぁぁ!」
「きゃあああ!誰か助けてぇぇ」
戦いっていた住民たちも悲鳴を上げて、蜘蛛の子を散らしたように逃げていく。たった1人でも踏みとどまろうとしたリーダーは次なる犠牲者となった。
「ぎゃぁっ!誰か……腕がちぎれる……!」
同時に数百というゾンビ達が講堂への侵入を開始する……。外にはその数倍の数のゾンビ達がいるのだ……。
恐怖のゾンビ達を打ち砕き、彼らを救うことができる者は俺しかいない。だが……俺の前にはクィーンが。そして地上にはキングも残っている。
○○○
物語はもう1つの地獄……庁舎の屋上へと戻る。初めて会ったはずのクィーンが、俺達の名を知っていることに戸惑うしかなかった。
「どうしてお前が彩奈の名を……」
しかし問いかけは、壮絶な悲鳴によって遮られることになる。
「ぎゃぁぁぁぁ……たすけ……てぇぇ……」
悲鳴の主は1人や2人ではない。数十人の叫び声だ。
「これは……!?」
後ろを振り返って発信源を確認する。まず予想されたのは、もっとも生存者が集中している体育館だ。しかし微妙に方角が違っていた。
音のくる方角に意識を集中すると、体育館の隣に位置する講堂からきていることが分かった。あの建物にも大勢の人間が残っていたようだ。
その悲痛な絶叫から、恐ろしい惨劇が起きているのは自明のことだった。
「うぎゃぁぁぁっ!僕の足がぁぁ!誰かぁぁ」
「助けてお母さぁぁぁぁぁん!ゾンビがぁぁ私の体を……!」
どれも喉から絞り出すような……酷い泣き声ばかりだ。それも老若男女問わずで、子供の声まで混じっている。この凄絶な悲鳴は、キングの攻撃で一気に死傷者が出た時とはわけが違っていた。
その悲鳴を耳にしたキングは、退屈そうに頭をかいている。
「ゾンビ達が建物の1つに侵入したしいな。うるせぇったらありゃしねえよ……」
他人事のような奴の発言に怒りの気持ちしか湧かない。そもそも襲っているのはコイツが引き連れてきたゾンビ達なのだから。
「あの……野郎。テメェのせいだろうが……」
アイツをぶっ飛ばしてやりたかったが、今は堪えるしかない。
とにかく講堂では現在進行形でどんどん人が殺されちまっているんだ。今すぐ俺が行ってやらないと……全員ゾンビ達に食い殺されちまうだろう。
だがこの状況でどう動くべきなんだ?
2体のスーパーゾンビの存在を無視して講堂に向かったところで、奴らは大人しくここで待ちはしない。建物ごと人間達を粉々にできるほどの化物達だ。あっという間に講堂ごと破壊して……。
逡巡したその瞬間、俺の横腹に黒い革靴がめり込んでいた。クィーンが不意打ちで蹴りを放っていたのだ。俺の体は勢いよくふっ飛ばされ背中から塔屋の壁に激突する。それは頑強なコンクリート壁を凹ませるほど強い衝撃だった。
「ぐっ!テメェ!」
傷んだ腹を押さえて顔を上げると、クィーンは中段蹴りの態勢のまま笑っている。
「フヒヒ……私と海王に勝ってからでしょ?アイツらを助けにいくのはさぁー」
やはり先にコイツらを倒さないと身動きが取れないか……。一刻も早く片付けねば。
「はぁ……はぁ……。仕方ねえな。あまり乗り気しねえがやってやるよ」
しかし俺の声を遮るように、地上から海王のデカい野次が飛んできた。
「おらぁ!フラついてんじゃねえぞ糞ガキ。姫が遊べねえだろ!しっかりしろやぁ!」
「あの野郎……!テメーから先に殺って……がぁっ!」
挑発するキングの方角に顔を向けてしまったその瞬間、今度は頭に強い衝撃が走る。
一瞬の隙きを突かれる形で、側頭部に小石程度のブロック片が衝突していたのだ。
(そのまま軌道を変えたブロック片は塔屋の壁に激突し砕き、直径1メートルほどの大きなクレーターをつくった)
反射的に避けたのだが、あまりのスピードに避けきれなかった。
「ちっ……。この女……何度も何度も汚いマネしやがって」
頭から流れ落ちる血を押さえてクィーンを睨む。どうやら足下に散乱するブロックの破片を拾って投げたらしい。次から次にセコい攻撃を考えつくもんだ。
「だから余所見すんなってのゴミ。また蹴っちゃうぞバカ男」
「情けかけてやってんのにバカ女が……。そこまで死に急ぎたいなら相手してやらぁ」
もはや会話など無駄なようだ。一刻も早くこの女を殺すしかない。何故俺の名前を知っているのか?彩奈との関係はなんなのか?そんなことはどうでもいい。とにかく今すぐにコイツを殺って、それからキングを倒す。
「くたばれぇぇぇぇ!」
芽衣の首を切断すべく全力で突進した。クィーンは腰に手を当てたまま、薄笑いを浮かべているだけで全く反応しようとしない。だがもう構わない。そのまま俺は全力で手刀を振り下ろす。
しかし何かに当たったという手応えはまるでなく……クィーンの姿も消えている。俺の手刀は空気を豪快に斬っただけらしい……。
「な……!?」
気づくと奴は俺の真横に立ち、右手を伸ばして前髪を掴んでいた。
「お……お前……いつのまに」
マジで今の動きが見えなかった。一体何が起きたんだろうか?
「死にかけにしても酷いね〜。本当にやる気あんの蒼汰さん?それで本気だってんなら……とっとと死ねよ」
奴は俺の前髪を強引に引っ張り、屋上を走り出す。俺は引きずられるようにして追従するしかない。
「こっ……この!離せクソ野郎」
クィーンの冷たい手首を掴むと、奴はさらに速度を上げた。
「アハハハ!ハゲちゃったらゴメンねぇ〜。そらぁぁっ!」
奴は俺の髪を掴んだまま、片手で俺を投げ飛ばしてしまった。
「つあっ!」
大きな弧を描いて、俺の体は庁舎屋上から、塀の外に建ち並ぶ職員宿舎の屋上へと落下していく。態勢を立て直すことも叶わず、背中からコンクリートの床に衝突してしまった。しかし勢いは止まらず屋上を滑るように転がっていく。転落防止策に激突する寸前でようやく止まった。
「ぐはっ!」
前頭部に相当な痛みを感じる。こんな酷い攻撃を食らったのは初めてだ。
仰向けに倒れていた俺は、足を空に向けて伸ばして重心を移動させる。そして一気に跳ねるように起き上がった。決定的なダメージではないので、大したことはない……。
「舐めたマネしやがって……絶対ぶっ飛ばしてやる……」
しかし俺は苛立っていた。マトモに戦おうとしないクィーンに。
「なかなか頑丈な髪の毛じゃん蒼汰ちゃーん。当分ハゲる心配ないねぇ〜アハハハ!」
自身の長い金髪をかきあげながら、奴は庁舎の屋上で高笑いをしている……。
○○○
誠心寮の共同室では、大神子は最後の祈りを続けていた。だが祈りながら、彼女は不思議なことに気づく。縄から下げられた紙垂がわずかに震えはじめていたのだ。
『どうなっておる……。明らかに石見殿の体は弱っておるというのに……これは一体……』
その時、部屋の扉を叩く音がした。
「お主か。よう戻った……。もう何も言わんでも良い」
「大神子様……」
ノックの主は小杉さんだった。
戦場から撤退した小杉さんは、溢れるゾンビ達をくぐり抜け、部下達とともに誠心寮に戻ったのである。本来であればすぐに階下にいる楓さんの元に向かう必要があったのが、報告のために一旦大神子のもとにかけつけたのだ。
「申し訳ありません。私の体はゾンビの血肉で汚染されてるやもしれず、今は大神子様のもとには……」
「構わぬ。入るが良い」
小杉さんは畳の上に上がり、正座する。大神子は大麻を握ると、彼の頭の上で何度か振り、穢を祓う儀式を済ませる。
「巨大なゾンビの王の強さは……次元が違いました。石見殿がまだ生きてるのが不思議なほどの強さです。残念ながら我々の歯の立つ相手ではありませんでした。石見殿の仲間も、簡単に敗北を喫してしまったようです」
「そうか……そうじゃろうな」
大神子は小杉さんに芽衣の到来を伝えた。
「なんと……奴までも」
彼は項垂れる。
「芽衣が加勢にきたとあらば、もはや勝ち目はないでしょう。我々がマトモな援護すらできないのが……情けない限りです」
小杉さんの赤く充血した目には、涙が浮かんでいる。大神子も彼と同じ考えだった。
「2体いるのでは厳しいじゃろうな。例え1体だとしても芽衣は想像を絶する強さじゃからのう……」
しかし大神子はまだ希望を捨てていなかった。
「だが……石見殿が本気になれば芽衣とて簡単に勝てる相手ではない。彼の力はそれほどまでに凄まじい……私の想像を超えておった」
「なんと……」
小杉さんは驚きで顔を上げる。
大神子は口にはしなかったが、心の中で密かに思っていた。
『もしかすると石見殿もあの力を持っているのかもしれん……』




