芽衣の接近
勝負はキング優勢に傾き、コロニー全滅の恐怖が現実のものとなろうとしている……。南部区域は既に壊滅し、コロニーの人口は半減してしまっていた。その上、コロニー内部には千を超えるゾンビがなだれ込み、運動場に残っていた住民たちも次々に襲われていく。このままでは時間の問題である。
この状況を2人の神子も感じ取っていた。
沈痛な面持ちを浮かべて正座していた楓さんは、立ち上がり部屋の隅に置いてあった箱から防衛用の短剣を取り出す。
『不浄の者などに殺されるぐらいならばいっそ……』
そして柄を握ると自分の首に向ける。皆と運命を共にする覚悟だった彼女は、今がその時と判断したのだ。
「婆様。私は先に行きます……」
しかし大神子はそれを制す。例えゾンビ達に皆殺しにされる運命だったとしても、孫娘の自殺など誰が見たいものか……と。
「老い先短い婆の前でそんなバカなことを考えるでない……。例え私が死んでも、例えこのコロニーが滅ぶことになろうとも、お前だけは彼らとともに逃げるんじゃ。それがお前の務め」
大神子の孫娘を思う気持ちは、俺なんかには想像もつかないほど深いものなのだろう。
ただ少しばかり大神子の会話に不可解な部分もある。彼女の言う「彼ら」とは恐らく俺と佐藤さんのことだろう。しかし佐藤さんは瀕死で動くこともできない。そして俺はキングと戦っている真っ最中である。何故に大神子が俺たちが楓さんを連れて逃げることができると考えているのか?それはまだ謎だった……。
単に孫を説得するために、希望的観測を持ち出したのかもしれない。
しかし楓さんは祖母のこの願いを受け入れることができない。いったん短剣を床に捨て、泣きじゃくりながら大神子の服にしがみついた。
「そんなこと……できません」
「バカ者……年老いた婆にこれ以上辛い思いをさせるでないわ」
弱々しく怒った大神子は、頭を垂れて俯く。苦しそうな表情を察した孫娘はとっさに祖母の体調を心配する。全滅を覚悟しているつもりでも、無意識に祖母の健康を気遣ってしまうのだ。
「婆様!大丈夫?胸が苦しいの?」
彼女は涙を拭うと、必死に大神子の背中をさすった。その手を通して、老婆の小さな体が震えているのが伝わってくる。大神子は震える手を伸ばし、必死に孫娘の手を掴んだ。
「すまぬ楓よ……。わ……私は大きな間違いを犯しておった……。お前は一刻も早う逃げよ。彼らとともに!」
「一体……一体どうしたの婆様!なんのことか分からない」
まだ言葉の意味を理解できない楓さんに、大神子は恐ろしい事実を伝える。
「め……芽衣じゃよ。死者の街を破壊しながらアヤツがこちらに向かっておる……。じきに到達する。奴がくれば彼らと言えど……逃げることすらできまい」
「え!」
この2人がどうして「芽衣」と呼ばれるゾンビの王の存在を知っていたのかは分からない。だが大神子は「芽衣」の異常接近を感じ取っている。驚いた楓さんは顔を上げ、祖母と同様に意識を集中させる。すると彼女にも、キングとは異なるゾンビの王を察知することができた。
「ほ……本当だ。こっちに来てる……。それも、とてつもない速さで。何故……芽衣までが……」
「ふふふ。まさか芽衣まで我らを襲いに来たとはおもわなんだのう……。到底、石見殿の手に負える敵ではあるまい。こんなことなら最初からお前だけでも連れて逃げてもらえるよう頼んでおけば良かったわい……」
しかし芽衣の接近に気づいた大神子達も、普通の人間達の動きまでは細かく把握することはできない……。彼女達はもう一つの勢力の存在に気づいていなかった。東京第5コロニーを監視する人間達の存在を。
○○○
府中のとある高層ビルの屋上には、迷彩服をまとい戦闘用ヘルメットで頭を保護した連中が陣取っている。その数は6名。彼らは長銃を所有し、食料も大量に保持している。故にゾンビであふれかえる府中で孤立したとしても、半月ほどは地上に出る必要はない。
彼らの正体は東京第10コロニーと呼ばれる居住区の兵士たちである。「天原」という謎めいた最高指揮官の下で、活動を続けている者たちだ。どういうわけか第5コロニーの守備隊とは比較にならないほど充実した装備をしている。(普段はずっと遠方から第5コロニーを監視している部隊なのだが、ゾンビ達の動きに異変を感じ取り、1時間前からこの場所に陣取っている)
転落防止柵のそばで双眼鏡を覗き込む彼らは、スーパーゾンビと人間達との戦いをじっくりと観察している。だが戦いと呼ぶにはあまりにも一方的な惨劇だった。守備隊はあっさりと壊滅させられ、超人の佐藤さんですらマトモにダメージを与えられない……。彼らはキングがコロニーを殲滅していく様子を、真面目に……(しかし一部の者は)半ば愉快そうに観戦している。高みの見物とはこのことか。
「予想通りでしたね隊長。立川で発生していたゾンビ達の流れは、やはりスーパーゾンビ出現の前兆でした」
「ああ。しかし妙な変異体まで府中に現れるとは意外だったな。偶然コロニーに近づいた連中らしいが……よりにもよって海王に出くわすとは間抜けな奴らだよ」
隊長と呼ばれた男は、佐藤さんの敗北を確認すると、想像通りの結果にニヤリと笑みを浮かべた。
「馬鹿が。とっとと逃げれば良かったものを……」
この兵士達はスーパーゾンビや免疫獲得者についての知識を持ち合わせている。俺なんかよりよほど事情通らしい。
一方で部下の1人は海王の想像を絶する力を目にして、前に顔が青ざめている。
「正直、私は海王の奴が多摩川を越えてこなくて良かったと思っています……隊長」
「フンッ。無茶苦茶なゾンビだが海王もそこまでバカじゃなかろう……。あそこから多摩川を超えれば我々に宣戦布告するのと同じだからな」
「しかし何故に天原様は海王を放置しておくのでしょうか?執政官のお力があれば、あのような怪物とて好き放題はできないはず……」
「天原様は忙しい。そもそも執政官の庇護を拒絶した第5コロニーの連中など救う義理もない」
しかし俺が戦闘に加わり、戦いが激化するにつれ彼らに緊張が増していく。30歳手前の鈴木という男は、唖然とした表情を浮かべ、口に咥えていたタバコを床に落としてしまった。
「し……信じられん奴らだ。2キロは離れてるというのに、連中のぶつかる衝撃波がここまで届くとは……。恐ろすぎて生きた心地がしません」
鈴木の言葉を受けて、隊長も応答する。
「ま……全くだな。奴らの力がこれほど超絶的だったとは……。だがあの変異体はまだやる気なのか。一体何者だ?アイツ、ちょっとおかしいぞ」
「木下様を超える変異体でしょうか?」
「まさか……。そんなことはありえない」
隊長は双眼鏡を部下に渡す。
「本部に報告せよ。新しい変異体が出現したと!しかし未だ海王が圧倒的に優勢である」
「は!」
野外無線機を背負った通信兵が、報告を終えて受話器を置いたその時……。隊長は遠くの方に何かを発見した。
「待て!まだだ」
通信兵は急いで受話器を持ち上げた。
「どうしました!?」
「鈴木!南東方向に注視せよ」
多摩川に沿うように何かが動いている。それは府中に向かっていた。
「あの黒い雲……あれはなんだ!?さっきまで、あんなものなかったはずだ」
双眼鏡を構えた鈴木は指示された方向を確認する。
「地上まで垂れ下がってますね。竜巻が発生したようです。台風の影響でしょうか」
「規模は分かるか?お前の見立てで良い」
「目視ではなんとも言えませんが……。藤田スケールでF4を超える強力なもののように思えます」
「ずいぶん激しい動きを見せるな。まるで生命体のようだ」
体を生き物のようにくねらせて進行を続ける竜巻の姿はまさに「竜」を彷彿させるものだった。
地上に垂れ下がった真っ黒な雲は、不自然な動きをしながらさらに彼らのものへと近づいていく。信じがたいことに、途中で巻き込まれた高層ビルが崩壊していく。その様を見せつけられた隊員達は大いに動揺する。
「隊長あれは一体……!?」
「マズイな……あれは『血の旋風』だぞ。なんだって府中に向かってきやがるんだ!?」
鈴木の額から汗が流れ落ちる。強い恐怖を感じている様子だ。
「あ……あれが大崩壊の頃に米軍基地を壊滅させたという恐怖の風。まさかこの目で直に見ることになるとは……」
焦る隊長は転落防止策に小指球を叩きつける。彼にはその桁外れの竜巻に心当たりがあったのだ。
「クソッ。やはり正体は芽衣のようだな!急いで本部に連絡せよ。芽衣が第5コロニーに接近していると。早くしろ」
通信兵は急いでもう一度本部に報告する。
「本部へ緊急報告!芽衣が接近している!斥候部隊も危険にさらされている」
しかし他の部下達はどんどん迫ってくる竜巻に動揺を隠せない。
「もう駄目です隊長!一刻も早く撤退の必要があります」
「下は10万のゾンビ達で埋め尽くされているんだぞ!どこに撤退する場所があるんだ!」
想像を絶する竜巻が進行する度に街の建造物が崩壊し、上空に吸い上げられていく。そして破壊的な旋風は彼らのいるビルにどんどん近づいてくる……。
「お……おかしいぞ!何故真っ直ぐコロニーに向かわんのだ。なんだってこちらに向かってくるんだ」
「わ……分かりません。奴は気づいてるのでしょうか」
「も……もう駄目です!うわあああ」
部下達は恐怖のあまり屋上から撤退し、屋内に避難する。1人屋上に踏みとどまった隊長は風にふっ飛ばされビルの屋上から転落してしまう。
だがこの20秒後、ビルの中に避難した隊員達も死滅することになる。
○○○
酷い光景だった。
東京第5コロニー
唯一残っていた西部収容棟がキングによって破壊され、東京第5コロニーの南部地区は完全に壊滅した。今や体育館より南側には瓦礫しかない。
この時、第5コロニーに巨大な竜巻が迫っていたのだが、俺はそれどころではなかった。鏡がないので分からないが、恐らく俺の顔は真っ赤な血で染まっているだろう。血が止まらない。
まったくキングがあんな大技を使ってくるとは……想像を超えていた。触れずに建物を破壊するとは、ゾンビ如きが妙な術を使いやがる。
「グヒヒ。ずいぶん口数が減っちゃたねぇ。軽く殴ってやっただけなのに、ビビリすぎだろコイツ」
キングは腕を組んでニヤニヤしながら、俺の出方を伺っている。
「せぇな……」
朦朧としながら俺は必死に頭を回転させていた。
そもそもあの爆風の正体はなんなのだろうか。爆薬を何トン使えばあの巨大な棟を一瞬で吹き飛ばせるというのか?考えられるエネルギー源は限られている。
爆薬じゃないとすると核分裂が起きたのだろうか。鉄腕アトムじゃあるめえし……そんなわけがねぇ。じゃあ核融合反応か?いや、それこそ馬鹿げてる。だいたい奴はゾンビだぞ。
自問自答を繰り返すものの、答えは出ない。ましてや打開策などありもしない。導き出せた結論は2つ。
1つは俺の浅い物理学の知識では到底説明のつかない力だったということ。そしてもう1つはコロニーを守るのが著しく難しくなってしまったことだ。奴がその気になればいつでも残った建物を潰せるだろう。
だがそれでも戦わねばならない……。
「はぁ……はぁ……。新手が来る前に……こいつを片付けねえと……」
俺が構えたその時、キングは腰に手を当てて空を見上げはじめた。
「おいキング。どこみてやがんだ……。殴っちまうぞ」
「あ〜ぁ。もう芽衣の奴が見えてきた。こりゃグッチャグチャになっちまうぜ」
「な……なんだと!?」
慌てて後ろを振り返った。すると南側、庁舎のずっと向こうに竜巻が見える……。
「どうなってんだよ……。真っ直ぐこっちに向かって来やがるぞ」
竜巻はまだ5キロ以上離れているように見えるが、こちらに近づいていることだけは分かった。異様な速度で接近している。
「今日は芽衣のやつ……。ずいぶん気が高ぶってるらしいぜ」
接近するにつれて、竜巻の巨大さがハッキリしてきた。それは天まで伸びて、分厚い雲とつながっている。まるで旧約聖書に登場するバベルの塔だ。直径は100メートルを越えていただろう。俺にはこの世の終わりをもたらす……恐ろしい怪物に思えた。
竜巻は地上の建物を破壊し空へと巻き上げながら、猛烈な速度でこのコロニーに向かっており、その周囲を稲妻が走っている。
「まぁ〜いいやね。トドメさしてやるから、かかってきなさいヒョロ虫ちゃん」
あんなものが迫っているのに何故にキングは余裕なのか?ここでようやく俺も理解できた。
「ま……まさかあの風の渦の中に芽衣って奴がいるってのか……そんなバカな話があるかよ!」
キングは手を大きく広げて、おどけた表情をする。
「おぉ当たり!そうだよ〜ん。今頃になって分かっちゃったか?うはははは!」
嘘だろ。ゾンビが竜巻を操るってどういうことだ!?疑問は山ほどあるが、とにかくもう時間がない。2対1になってしまっては完全に勝機がなくなる。追い詰められた俺は天に向かって吼えた。
「うぉぉぉぉぉぉぉぉ!くたばれキング」
これが最後のチャンスだ。キングを一撃でうち砕く……。無理だろうがなんだろうがやってやる。俺はこんなデカいだけのゾンビに負けるはずがない。
鼻血を腕で拭うと急いで構え直す。キングは俺を睨みつけ、はじめて憎しみをむき出しにした表情を浮かべた。
「よっぽど頭が悪いみてぇだなぁこのガキは。まだ俺に敵うと思ってやがるたぁ……」
キングまでの距離は100メートルほどしかない。
「だりゃぁあっ!」
短い距離だが瓦礫の上を全力で走り、加速に加速を重ねる。とにかく残った力を振り絞ってキングに猪突猛進するのみ。同時に瓦礫を蹴って加速しはじめたキングも恐ろしいスピードで突進してきた。
「バカがぁぁ!死ねやクソガキがぁぁ」
「散りやがれキング!」
キングの右肩が動きをみせる。どうやら奴もパンチを繰り出すつもりらしい。
だがもう攻撃をかわすつもりもない。ただカタパルトから発射された戦闘機のように巨大なゾンビに突っ込んだ。
先に俺の右拳がキングの頬に決まったものの、ほぼ同時にキングの巨大な右拳が、アッパーの形で俺の顎に決まってしまう。
俺たちの衝突で生まれた2つの衝撃波が干渉しながら、いびつな形で四方へ広がっていく。衝撃波の到達とともにまだ残っていた体育館の窓ガラスも、軒並み割れてしまった。体育館から悲鳴が聞こえてくる。
衝突の瞬間から時がスローモーションのように進んでるように感じられた。
あらん限りの力で殴ったつもりだ。これでキングの頭部が爆散することを願ったが……。そうはならなかった。
敵を砕くどころか俺の体だけがふっ飛ばされてしまう。そのまま回転しながら背後の瓦礫の山に突っ込むと、瓦礫は大波のように波打って周囲に散った。
「ぐぎゃぁぁぁぁぁ」
瓦礫に埋もれるような格好になった俺は、うつ伏せになって倒れてしまう。一方キングの方は衝突地点から微動だにしていおらず、苛立たしそうに俺を睨んでいた。
「ちっ。どうしようもねえカスだな。真面目に相手すんのが馬鹿らしくなってきたぜ」
皆の命がかかってるのに……なんでこんなゾンビに勝てないんだろう俺は。悔しさのあまり、倒れたまま瓦礫のコンクリートブロックに拳を叩きつけて破壊した。
「ゲホッゲホッ……。ちょくしょう。俺は……こんな奴よりずっと強えはずなんだ。こんなはずはないんだ……」
こんなクズに俺が負けるものか。俺は血だらけのゾンビのように……ゆっくりと立ち上がった。
「はぁ……はぁ……。勝ったつもりになってんじゃないぞ……」
「死にかけの分際でしつこい野郎だねぇ。コイツのせいでまだガキの一匹も食えてねぇよ」
キングは庁舎の屋上を指さした。
「テメェのせいで時間切れだ。芽衣が来ちまったぜ」
「なっ!」
キングの指さした先。つまり庁舎の屋上に何者かが立っているのが俺にも見える……。あいつがクィーンか!
クィーン到来の少し前、佐藤さんを乗せた担架がようやく誠心寮に到着していた。寮の衛兵が、部屋の扉を開け急いで報告する。
「楓様!例の怪我人が到着しました。男の状態は想像以上に深刻です。一刻も早く下の部屋にお願い致します」
「……分かりました」
自決を覚悟していた彼女も、少し落ち着きを取り戻している。
「あまり無理をするでないぞ楓。命は最後まで大事にするものじゃからな」
「はい。婆様も……」
「私のことは心配するな。お前は振り返らずにここを脱出するが良い……」
祖母の言葉を受けて、楓さんの目から再び涙が溢れた。




