少女の涙
突然現れた女は、美しい黒髪を持った耳かけショートヘアの美女だった。どうやら彼女が小杉さん達の言っていた「楓様」らしい……。
額から垂れてくる汗をハンカチで拭いながら巨漢の男は疑問をぶつけた。
「ほ……本当ですか楓様?本当にあれが大神子様の仰ってた男なんですか?」
楓という女は、このコロニーの中では相当に地位の高い人間なのだろう。何しろ偉そうな男があんな仕打ちを受けても逆らいもせず、ただただ顔を青くしているのだからな。もっともそれは奴が俺の殺気を感じ取っているからかもしれない。彼女が止めに入らなかったら、スーパーゾンビそっちのけで、このオッサンの方をボッコンボッコンにしただろう。
「そ……そんなぁ。私、あれをゾンビの王だと思って、思い切り銃口を突きつけてしまったんですがぁ……」
巨漢の男は俺をチラ見しながら、救いの言葉を求める。彼女は館内の皆にも言い聞かせるように大声で答えた。
「彼らのエネルジアを感じとれるのは婆様だけじゃない。私にもできる。っていうか……見た目で人だと分かれ!」
「な……なるほど!すごく納得……です」
俺も血まみれの佐藤さんと戦ったことあるから人のことは言えんが……マジですぐ分かれっての!
楓という女の言葉を受けて、ステージ上にいた小学生ぐらいの男の子達までも何やら言い争いをはじめる。
「ほらみろ。だから言ったろ。どうみても人間じゃんかあの人。疑うなんて酷いよね!」
「汚なっ!お前も楓様が来るまで疑ってたくせに!」
子供達だけじゃなく、全体の空気が変わった。連中から敵意が消えた感じがするし、巨漢のオッサンの表情も明らかに違っている。どうやら彼女の発言だけで誤解が解けたらしい。
しかしこうも簡単に住民たちから疑念を消してしまうとは……全く驚きだ。楓ってのは、よほど彼らから信頼されている女なんだろう。見た目は俺と同い年ぐらいなのになあ。あのつぶらな瞳で凄まれたら、荒れた心を持つバカ野郎でも従ってしまうのだろうか?……などといい加減な推理をしてみた俺だった。
だが巨漢のオッサンに対する怒りだけはまだ鎮火しちゃいない。
「や……やばいぞこれは。どうやら俺は恐ろしいことをしちゃってたらしい。それにしても……すっごい睨んでるぞ彼は……」
過ちに気づいた巨漢は、ようやく俺に向かって冷や汗をタラタラ流しながら釈明をはじめた。もっとも酷い言い訳だったが。
「あ……あはは。あ……あの銃は実は水鉄砲のおもちゃなんだ。結構リアルだろ?だから冗談なので真に受けちゃダメだねっていうね……」
『そんじゃ銃を渡してもらってオモチャかどうか試したろうかいっ!』という俺の怒りを彼はすぐに察したようで、急に跪いて真摯に謝ってくれた。
「っていうのは全部嘘だぁぁっ。申し訳ないっ!許してくれえええっ。いや許してくださいっ」
「こ……こらっ離せ!俺の足にすがりつくな!」
彼女はすがりつく巨漢を起き上がらせて奴の背中を押した。
「いいから引き上げ手伝ってこい!アンタがいるとややこしくなる」
「はっ……はいっ!失礼します」
彼女に指示され、巨漢のオッサンは大急ぎで犠牲者達が残されている穴の方に消えていった……。
「全く豹変の速い野郎だな……。もういいかアイツのことは」
これで一件落着と言いたいところだが何も解決していない。嵐の真っ只中だし、死傷者は続出……。無駄な時間を食ってしまっただけだ。
楓という女性はこちらを振り返り、髪を揺らして俺に深々と頭を下げる。
「ふうっ。すいません!せっかく助けて頂いたのに……仇で返すような真似を……」
「は……はあ。もういいよ。別に君が謝ることじゃない」
さっきまでの強烈な男口調から急変したことに、正直言って驚きを隠せない。だけど筋を通す人であることに変わりはない。初対面だけど、不思議な人徳を感じる。
顔を上げると彼女はぐっと近づいて、両手で俺の手をとる。
「でも急いでください。前衛で貴方の勇敢な友達は窮地に立っています。早くしないと彼も殺されてしまうでしょう。ここにはもう構わず進んでください」
謎めいた発言に唖然とする。彼女は一体何を言ってるんだろう?勇敢な友達ってのは、まさか佐藤さんのことか……。だが彼のことなんて彼女に何故わかる。会ったこともないはずだ。
「き……君が彼のことを知ってるはずはないだろ。だがちょっと待てよ!?なんだこのデジャヴは……。さっき大神子様に会ったときにも似たような……」
「婆様にも言われたのですか?」
ば……婆様だって!?
「じゃ……じゃあ君はあの大神子様の孫なのか」
彼女は小さく頷く。そして真っ直ぐ俺をみて答えた。
「はい。八雲楓と言います」
こ……こりゃあ驚いた。どっからどうみても普通の女じゃないと思ってたけど、あの婆さんの孫だったとは。
「まさか君もあの婆さんと同じ力を……?」
彼女に尋ねたその瞬間、大型爆弾が炸裂したかのような……途方もない轟音が起こった。即座にこの体育館が激しく揺れだす。住民たちは再度パニック状態となり、泣き叫びながら一斉にギャラリー下の壁際に逃げていく。
「きゃああああ!」
フロアの真ん中に残っているのは俺と彼女だけだ。天井を見上げながら隣にいた彼女に尋ねる。
「なんだ……!?今のは地震か!」
「違います。敵の攻撃です……」
「そ……そんなバカな……。大地全体が揺れたぞ今のは」
激しい揺れで天井から大きな照明が落下し、フロアにぶつかり割れて散っていく。住民たちは怯えて頭巾や毛布を被って必死に身を伏せている。(この地震はキングが職員宿舎をコロニー内部に衝突させた際に発生したものだった)
揺れはしばらくして止まった。だが俺の背筋に戦慄が走っている。
「これがスーパーゾンビの仕業かよ!とんでもねぇ野郎だ……!」
彼女は目を瞑ったまま集中を保っていた。その表情には……まるでミケランジェロが制作したピエタのマリアのように深い悲しみを湛えている。
「はい。敵の力は比類なきものです。既に大勢の住民の死を感じます……」
楓さんの頬を涙が伝う。
「婆様の言うとおりに体育館に避難したのは間違いではなかったけれど……。これではあまりに……酷いよ。やはり私達は滅びる運命なのかもしれない」
彼女は涙を拭った。そして微笑んだ。
「貴方には感謝しています。でも……。きっと貴方でもゾンビの王には勝てない。早くお友達を連れて早くここから逃げて。私達とともに死ぬ必要なんてないんですから」
彼女は分かってないんだろう。そんな優しい目で見つめてきたら余計に戦わざるを得なくなっちゃうことを。北風と太陽みたいなもんかな。
俺は深呼吸すると、彼女に戻るよう勧めた。
「そんなことより君の婆さんが心配してたぞ。戻ってやんなよ。ここはやっぱり危ないぜ」
「すみません。まだ私にはやることが残ってるんです……」
この時、既に南部区域は壊滅していたのである。しかし天井からの落下物を恐れて、体育館に残っていた避難民の2割ほどが外に逃げ出してしまった。そこに前衛から戻ってきた守備隊の1人(佐藤さんに言われて庁舎を脱出した人物)が現れ彼らに中に戻るよう、声を振り絞っていた。
「戻れぇ!塀が崩れてゾンビがコロニーの中に侵入してきている!体育館から出るなぁ!」
『ついにゾンビが侵入してきた』と知った住民たちは恐怖に陥った。外に出てしまった人間達は慌てて近くの建物に避難する。しかし誰もが皆どうしていいのかわからない。俺も含めてだ……。
しかしふと気づくと、楓さんはギャラリー下のある母親のもとにいた。母親は6歳ぐらいの少女を抱えているのだが、その子はピクリとも動かない。呼吸をしていないのだ。楓さんは受け渡された少女を抱きかかえ、血まみれの額に額を重ねる。しばらく無言のままだった。
目を閉じて母親に告げる。
「残念ですが……七海ちゃんはもう旅立たれてしまいました……」
「楓様なら七海を助けられませんか……!?お願いします」
彼女は首を横に振った……。当然無理だ。
母親は子供の亡骸を受け取るとそのまま崩れ落ちてしまう。そして狂ったように泣き叫んだ。
「いやぁぁぁぁあ!七海ぃぃぃぃ!」
天に帰ってしまった我が子の復活を求めて彼女はずっと泣き叫び続ける……。救いようのない光景だった。
俺は陰鬱な気分でここを出ることに決めた……。
「そろそろ行くか。まぁ……どうにかなんだろう……。たぶん」
だが立ち去ろうとした俺の腕を誰かが掴む。振り返ってみると、おさげ髪の小さな女の子がいる。少女はどこから持ってきたのか重たい斧を抱えていた。きっとゾンビ襲来に備えて体育館内に持ち込まれた武具なんだろう。それを黙って俺の前に差し出した。
「これを俺に?」
少女は顔をくしゃくしゃにして泣いている。だが泣くのを堪えて必死に思いを伝えてくる。
「うん……。きっと悪いゾンビは強いよ。これでやっつけてお兄ちゃん」
「ああ。分かったよ」
俺はその子から斧を受け取った……。斧の柄には彼女の涙がついていた。
「七海ちゃんはね。漢字だって書けたんだ。あの子は偉かったの……」
この子は死んだ子の友達だったんだな。俺は少女の頭を撫でると、斧を持って床を蹴り上げ飛んだ。そして体育館の屋根に着地する。そこからは東京第5コロニーの無残な姿が見えた。
「ちっ。マジか……」
南側の建物はほとんどが瓦礫と化しており、この体育館のそばまで瓦礫が押し寄せているのだ。
「やるじゃねえか……。ずいぶん暴れやがったもんだ」
南の方角を見渡すと、すぐに敵の姿を発見した。奴は200メートル近く離れていたここからでも一目で分かるほど巨大な体を有したゾンビ。全く驚愕ものの体格だ。何から何まで驚くことばかりだったが怯んではいられない。
「こいつは予想外だな……。あんなのでも元々は人なんか?」
おそらく奴の正体はスーパーゾンビの『キング』だろう。薄々は分かっていたが、あの体格は決定的だな。
「うわぁぁぁぁぁぁぁ!ぎゃぁぁぁぁ!」
佐藤さんの悲鳴が聞こえてくる。よく見るとキングの下で倒れているじゃないか。こいつは予定と違った。共闘するどころか彼の命がヤバいぞ。このままではすぐに殺されてしまうだろう。
「い……いかん!」
瓦礫の山に飛び移って俺は力の限りジャンプした。一瞬で勝負を決めてやる。100メートルを超えて舞い上がった俺は、十分な位置エネルギーを獲得すると一気に落下。
「くたばれぇぇぇぇぇ!キング!」
そして両手を全力で振り下ろし敵の頭部に斧を叩きつける。そのまま着地した。
「ガべバァッ!」
キングの体を縦に真っ二つにしてやったつもりだったが、手応えがない。振り返ってみればゾンビの頭部の一部を叩き割っただけだった。むしろ俺の腕の方が痺れてやがる……。
「ちっ……」
残念だが、あの子のくれた斧も使い物にならなくなってしまっている……。鉄は真っ赤に輝き発熱し、半分以上削れて失われていた。とてつもない摩擦だったようだ。俺は斧を捨てざるを得なかった。両方のこめかみを指で押すと、化物は割れた頭部をあっさりと元に戻してみせる。そして笑みを浮かべて俺を見下ろした。
「テメェかぁ赤髪と白髭をやったのはぁ〜。会えて嬉しいぜぇ」
「お前がキングか……」
暴風の吹き荒れる中、俺はたった1人でこの超一級の化物と対峙することになった。




