或る青年と老人の物語
【物語を一時中断することになるが、ここで或る青年と、白髭のエースについての話をしたい。話は7月終盤に遡る。まだ白髭が怪物に食われる前の話である……】
東京港のフェリーふ頭公園の一角で、ある青年が蹲っていた。彼は樹木に背中をもたれたままピクリとも体を動かさない。呼吸すらしていなかった。ようするに死んでいたのである。
東の空から日が上って日が西の空に沈むまでその体は全く動かない。ただ木陰の下で、その死体は蹲り続ける……。しかし夜の帳が降りようとする頃、怪事が起きた。死体はわずかに動きはじめ、そして瞼を開いて目を覚ましたのである。
「う……うう。あれから……どうなったんだ?」
己の身に起きた絶望的な変化に死人はまだ気づいてはいない。生きていた頃の意識のみが、死を越えて受け継がれているためだ。しかし正確には断絶が起きているので、彼は生きていた頃の記憶と正確を受け継いだ別な存在なのだが……。
状況が掴めないままに、彼は地面に右手をついて立ち上がろうとする。しかしバランスを崩して転倒してしまった。180センチの長身で、運動神経も良かった彼にはありえないミスだ。何かがおかしい……と青年は考える。
彼は自分の右手を見ると、当然存在しているはずの前腕が失われていることに気づいた。
「ない……。ないぞ……一体なんで……」
切り口は何者かに食いちぎられたような酷い有様である。ここでようやく彼は自分の身に降りかかった災難を思い出すことができた。
「そ……そうか。俺は事故で外に放り投げられて、そのままゾンビどもに囲まれた……」
強力な食人鬼達に襲われて右腕を食われてしまった恐怖の記憶がよぎる。(この世界において腕を失うことは致命傷である)その後、どうにかフェリーふ頭公園に逃げ込めたものの、そのまま青年は絶命してしまうことになる。
だがまだ彼は絶望的な現実に気づいていない……。故に感覚の変化に戸惑うこととなる。
彼が不思議に思ったのは、右腕に痛みを感じないことだった。出血もない。幸いと言えば幸いであるが、感覚すら失われているようで気味が悪い。壊死してるのだろうか?と疑問を持った青年は恐怖で体を震わせる。
「酷い……こんなのはあんまりだ」
耐え難い恐怖を感じながら、ふと同級生のことを思い出す。島からともにやってきた仲間のことを。
「そう言えば、石見はどうした。アイツも食われちまったか!?」
彼は左手を支えにして立ち上がると、周囲を見渡した。だがここがどこなのかまるで分からない。父島出身の彼にはまるで土地勘のない場所なのだ。
ふと彼は左目の視力が失われていることに気づいてしまう。あまりのショックで再び座り込んだ。
「み……見えない!くそっ、なんでだよ……」
鏡がないので彼には自分の顔の状態が分かっていなかったのだが、既に顔面から左目は失われていたのである。
見知らぬ場所で1人、彼は絶望に打ちのめされていた……。自分が死人であることにも気づかず。
途方にくれる彼の耳に、死人達のうめき声が届いた。
「ブビュジュルルュ……」
「い……いるのか!どこだ……どこだよ!」
恐ろしいゾンビ達が近くにいるらしい……!薄暗い公園の中、複数の方角から聞こえてくるうめき声。だがどこにゾンビが潜んでいるのか見当がつかない。とりあえず急いで彼は木の後ろに身を隠した。
だが不運なことに一体のゾンビが背後から青年に迫っていたのである。
「ブジュァブブフウッ」
「う……うわっ!」
現れたのは女の死体だった。それは頭部を完全に失っており、首の切断面が剥き出しに鳴っている。(うめき声のようなものは切断面の気道から発せられている)
それは春頃に死んだらしくまだ厚着をしている。もちろん頭部が存在しない以上、普通のゾンビのように青年を噛むことはできない。それでもゾンビの本能に従って青年を吸収しようとしているのだ。その爪で青年の肉を引き裂き、それを自身の首の食道にでもいれるつもりなのである。
掴みかかってきた首無し死体と揉み合いとなり、青年は倒されてしまう。だがすぐに決着はつく。彼が左手で振り払っただけで、首無し死体はバラバラになってしまったのだ。無我夢中だったので彼は何も覚えていはいない……。
「砕けた……。な……なんで」
襲ってきた女の死骸が公園の芝生の上に散らばって、それは勝手に蠢いている。
「ぎゃあっ。ま……まだ生きてやがる!」
しかし蠢く死骸の欠片を見ている内に、青年の中から不思議と恐怖の感情が消えていく。それにかわって奇妙な臭覚が芽生えはじめた。腐乱死体の発する臭いに、何故か青年は取り憑かれていく。
『何故だ……。こんなはずはない。信じられないぐらいいい匂いがする……』
このフェリー埠頭に上陸した時、道端の死体の放つ腐乱臭で、鼻がもげそうになったことを思い出す。何故こんなに感覚が変わってしまったのか異様である。
彼は我慢ができなくなり、芝生の上に落ちていた腕を一本拾った。まだ拳を閉じたり開いたりしている。気持ち悪くておぞましい代物であるにも関わらず、それが手放せない。それを見つめている内に涎が出ていたことに気づく。
『も……もしかして俺はこんなものを食いたいってのか?そんなのはバカげてる。腐乱した汚いゾンビの腕だぞ』
自分の中のおぞましい食欲を振り払うように、ゾンビの腕を遠くに投げ捨てた。だが一旦火がついてしまった空腹感は止まらない。酷く葛藤した彼は、残された左手で頭をかきむしった。
『変だぞ。なんでゾンビの死骸なんぞを……。そんなの芝生食ってる方がまだマシなはずだろう……』
しかし気づけば無我夢中でゾンビの腐った足を拾い上げ、それに齧り付いていた。太ももを食いちぎると彼の口の周りは腐肉だらけになっている。味がどうという話じゃない。味覚なんて実質ないのである。だがどうしても食べることを抑制できない……。
ゾンビの太ももを骨ごと平らげ、不気味な食欲が収まると……彼は自分の行為にゾッとした。これでは確実にウイルスに感染してしまうだろう。いやそもそも人間の腐乱死体を食らうとはどういうことか?己の頭が狂ってしまったのか?彼の頭の中で疑問が駆け巡る。
「うげぇぇぇ……」
四つん這いの体勢になって、吐いて戻そうとしたが……出てきはしなかった。
「なんで俺はあんなものを食っちまった……。感染して死んじまうじゃないか!」
自責の念に苛まれている彼に向かって、芝生の方から誰かが声をかけた
「なんじゃあ、お前さん?ただのゾンビじゃあないな」
顔を上げると、顎に白髭を蓄えた老人が彼の方に近づいてくる。背は低く、股引にシャツを着ただけの痩せた老人である。おそらく生存者なのだろう……と青年は考えた。
本来なら生存者との再会を喜ぶべきなのだろうが、今の彼にそんな余裕など全くない。むしろ不運としか思えなかった。
「へへへ。ゾンビの体を食っちまうなんぞ、全く酔狂な奴じゃのう」
あざ笑うような老人の言葉に、彼はどうしようもないほど惨めな気持ちになる。だが見下したような口ぶりは許せない……。老人を睨んだ。
「み……見やがったのか今の俺を……」
「ああ見たさ。お前さんが襲ってきたゾンビを砕いて、食っちまったところを全部な。ウヒヒ……」
「くっ……。この爺!俺だって好きでやってんじゃねえ。笑うな……」
「ほう?ワシ相手に戦う気か?ヒヒ……ちょうどいいわい。お前さんがどの程度のものか確かめてやろう」
足下に落ちていたゾンビの腕を拾い上げると、老人はそれに齧りつく。自分と同じ行為をしただけのことなのであるが、青年は大いに怯えた。
「に……人間じゃないのかコイツは?」
「これはお前の食い扶持じゃったかな。しかしワシもちょいと腹が減ってたんでな。そんじゃあ行くぞぉ〜!」
白髭の老人は突然襲ってくる。一瞬で距離を詰めると、手刀を振り下ろす。気づけば青年に唯一残されていた左腕が失われて、切断面からどす黒い血が吹き出ている。
「が……ぐああああああああっ!なにを……」
「ケケケ……ショボい腕じゃのう。次はその長い足を叩き折ってやろう」
「や……やめろ!助けてぇぇ」
しかし彼の言葉など届かない。白髭の老人は目にも止まらぬ蹴り一発で、両足の太ももを切断してしまう。足が千切れてしまい、たまらず青年は地面に倒れ込む。もはや逃げることもできない。
『な……なんで俺の体がバラバラにされてるんだ……これから俺はずっとこうなのか……』
あまりのショックで目の前が真っ暗になってしまう青年。だが痛みが全くなかった。しかしそんなことを理解する余裕もなかった。
「ウヒヒ……こうなってはお前さんも、もう身動きもできん。ただ朽ちるのを待つだけじゃなぁ。怖いか?」
これは夢だ……それも悪夢だ。彼は夢であることを願った。全ては到底受け入れられない現実である。
「しかしこうも弱いんじゃあ話にならん。どうやらお前さんは死んだばかりと見える。新米のゾンビというやつかな」
腕と足を失ったショックが大きすぎて、青年の耳に老人の言葉など入ってこない。それでも白髭の老人は、四肢を失った青年を見下ろし、話を続ける。
「まだ自分を生者だと思っておる哀れなゾンビよ。早う気づけ。お前さんはもう死人じゃ。それも……ただの死人じゃない。あの彩奈という娘が言うておった『スーパーゾンビ』どいうやつじゃよ。喜ぶがいい」
「ゾンビ……だと?俺が?」
「そうじゃ。なまじ知恵が残っとるで悩んどるんじゃろう。他のゾンビどもはそんなこと気にせやせん。あれらは虫みたいなもんじゃからな。全く幸せな連中よ」
青年はただ紺色の空を流れる雲を見つめている。泣きたかったが、涙はまるで出てこない。
「今のお前さんは、他のゾンビどもとさほど変わりゃせん。じゃが1週間ほど餌を食い続ければワシらの仲間入りじゃ……じきに魔界の王となろうぞ」
そう言うと白髭の老人は地面に落ちた腕と足を拾い、彼の体の切断面にねじ込みはじめる。
「な……なにを……しているんだ」
「うるさい。黙って、動かしてみい」
言われるがままにすると、繋げた手足が思い通りに動きはじめる。まるで違和感もない。
「つ……つながった……」
「まだ不完全じゃよ。しかし明日になりゃ不都合はないから心配せんでええぞ」
寝そべったまま青年は目を閉じる。自分が呼吸をしていないことに気づいた。会話をする時を除けばは、肺が動いていないのだ。
「ククク……俺はあの世に来ちまったのか。地獄の一丁目ってところかな」
爺は首を横に振った。
「ヒヒヒ……残念じゃがここは現世じゃ。しかし悪くはないぞ、ワシらはほどになれば、ゾンビと言えども生きてるの大して変わらんからなぁ。言うなれば生者とゾンビの狭間にいる存在じゃな」
青年は上体を起こすと、胡座をかいた。
「爺さん。アンタは一体何者だ……」
「柿崎太郎……と言っても分かりゃせんか。そうじゃな……『白髭のエース』と名乗った方が格好がつく。彩奈が言うには……ワシは東京に5体いる強力なゾンビの一つらしい」
「意味が全然分かんねえよ」
「つまりお前は6体目じゃ。直にワシの手にも負えん化物になることじゃろう」
青年は再び起き上がって老人を睨んだ。
「こんなの死んだ内に入るもんか。俺がゾンビだって?だとしても関係ない」
「ふひひ。こいつは前向きなゾンビじゃ。こんな奴は見たことないわ」
「父島に帰るんだ……死人と化物しかいない街なんざクソ食らえだ」
「フン。死んでしまっても故郷に戻りたいか。ゾンビの分際で見上げた心意気。しかしお前さんはずっとここにいる方が良いじゃろう」
その言葉に青年は虚を突かれる。
「え……なんでだよ」
「お前さんが故郷に戻ったところで、さっきのような醜態を晒すだけ。その意味はもう分かるじゃろ?次は生者を食い殺す」
バカな……そんなはずはない。彼は心の中で必死に老人の言葉を否定する。しかし老人は鼻で笑った。
「いくら理性が効いていても無駄ってもんじゃ。生きている者の匂いを嗅ぐだけで、お前さんも腐った野獣に変わる。何しろゾンビじゃからなぁ……イヒヒヒ」
「あんな害獣どもと一緒にすんな。だって俺は今でも皆のことを……」
「頭の中で考えてるようにはいかんよ。仲間や親兄弟を殺したければ故郷に戻るがいい。ありゃぁゾンビとなったワシでも後味が悪いもんじゃぞ」
「フン……そうかい」
青年はすっくと立ち上がった。老人の忠告など聞く気はないが……さっきのことを思い出すとそれも真実であるように思える。
日は完全に沈み、空には星が輝きはじめる。東京港一帯は漆黒の闇に包まれていくが、不思議と青年は闇に恐怖を感じなくなっていた。
青年のゾンビはフラフラと歩きだす。
「おい。どこに行くつもりじゃ」
「東京見物だよ。せっかく遠いところから来たんでね」
「ヒヒヒ。街に行ったところでゾンビしかおらんぞ」
「構わねえ……」
青年ゾンビは老人のアドバイスを無視して闇の中へ消えていった。




