明星の下で
まだ西の空には明るさが残っているものの、既に太陽は沈んでしまっていた。あと15分もすれば東京は漆黒の闇に包まれてしまうだろう。そうなってしまったら、彩奈を攫ってしまった赤髪を見つけることはできなくなってしまう。
この事態に眼鏡(坂崎澪)は狼狽えていた。
「ど……どうしよう石見さん」
俺は急いで塔屋のドアの前に発電機を置いて塞ぐ。ジャックを追いかける前に屋上の安全を確保しなければならなかった。
「な……なにをしてるの!?」
「下の階にはまだゾンビはいるからこの扉は絶対に開けるなよ。気をつけろ」
「え……まだゾンビが?」
扉の後ろからゾンビ達のうめき声が聞こえてくる。恐怖を感じた子供達の顔が青ざめていたが、もう行かなければ間に合わない。
「俺は彩奈を探しにいく。今なら間に合う」
柵をまたぎ、急いでジャックを追いかけようとした俺の服の袖を眼鏡がグイッと掴む。
「お……お願い!もうどこにもいかないで」
「バ……バカ!時間がないんだぞ邪魔すん……」
だが彼女の目からポロポロと涙がこぼれ落ちているのを見ると、それ以上は責める言葉が出てこなかった。
「だって怖いの……もう私達だけにしないで。お願いだから……」
じっと俺の目を見つめて懇願する眼鏡の頬にはゾンビの血肉がまだついている。俺はそうっと親指で拭った。
「行っちゃうの、石見さん……」
「すぐに戻ってくるよ。それまで2人を頼むな」
涙目の眼鏡に少しだけ笑顔が戻った。そして俺の袖から手を離す。
「じゃ……じゃあ約束ね!早く戻ってきてね。約束破ったら……」
「針千本な」
俺は眼鏡に背を向けたまま右手を上げた。
そして一気に加速して隣のビルの屋上に飛び移った。そしてまた別のビルの屋上へ跳躍。赤髪のジャックがどこに逃げたにせよ、彩奈を担いでるようじゃ俺のスピードから逃げられないはずだ。
ビルの上を飛び移りながら、近隣で一番高いビルの屋上へと到達した。そこから見渡せば、静まりきった大都会が一望できる。
『どこだ!どこだ……』
どんどん辺りは暗くなっていくので焦る気持ちが強くなる。
『景色はどうでもいい。動いてる部分だけに注目しろ……。鳥に惑わされるな。動きは放物線のはずだ』
集中して見つめていると、ついに動く物体を発見できた。
「いた!」
ギリッギリのタイミングだった。
場所はこのビルから北東に5キロは離れた通りで、ビルとビルとの間を飛び跳ねるようにして動いていた。そこを赤髪は彩奈を肩に乗せ、片腕だけで抱えるようにして移動中だ。
少し遠いがまだ追いつける範疇だったので希望が持てた。
「よし……」
俺は屋上を走り抜け、200メートル近い高層ビルから一気に飛び降りる。全力で跳躍してやったので、路上に着地した時にはもう700メートルは進んでいた。あとはひたすら車道を走って奴を追いかけるのみ。
「待てぇぇっ」
走っても走っても、まだ加速できる気がする。道路に放置された車や電線が邪魔だが、それでも速度は上がっていく。ビルを飛び立って僅か1分で逃げるジャックを視界に捉えることができた。
「逃げてんじゃねえええ」
俺の声に気づき、後ろを振り返った赤髪は焦っていた。
「あ……あのガキ。もう来やがったのかぁっ!嘘だろっ」
すぐに追いつかれると悟った赤髪。ビルの間を跳躍するのをやめ、彩奈を担いだまま地上に降りた。そして意識のない彩奈を路面に座らせると、街路樹に背中をもたれさせる。
「くっ」
急なことで俺は急ブレーキをかけて止まった。俺と赤髪の距離は約20メートルだ。赤髪は俺を睨みながら、残った手で彩奈の首を掴んでいた。
「こ……これ以上、オレに寄るんじゃねえぞ化物め……。女を今すぐ死なせなくなかったら下がれ」
これ以上近づくならば彩奈の首を潰すというメッセージらしい。脅しなら良いのだが、今の奴ならやってしまうだろう。
「はぁ……はぁ……。やっぱりそうくるのかテメーはよ」
「ククク。もうちょっとだけ逃げおおせれば東京は暗闇なんだぜぇ?これぞ神のご加護ってやつだろ」
都心が漆黒の闇に包まれれば、俺がいかに速かろうが、路地裏に隠れられただけで発見できなくなってしまう……。
「これから楽しいディナーを味わえるってのに、お前みたいな化物に捕まってたまるかよ。こんないい女を手放せるかって。フヒヒヒ」
「分かってるだろうなジャック。それ以上、彩奈を傷つけたらテメーはとんでもねえ死に様になるからな」
赤髪は一瞬だけ恐怖を感じた様子だったが、すぐに余裕を取り戻す。
「へっ。へへへ……。だからお前が下がればいいんだよ。ギュウッとやっちゃうぞ?」
こんのクズめ……。頭に血が上ってしまったが、それは行き場のない怒りとなってしまう。なにしろ俺が先に動くにしても、奴が彩奈の首を潰す前に倒すのは厳しい……。
これでは逡巡せざるを得ない。
「やっぱり動けないな……。ふはは!何も考えずに追いかけやがって……。ちったぁこうなることを予想しろよぉ〜」
俺がここで動かなければ彩奈は絶対に殺される。だが万が一先に喉を潰されてしまったら彩奈はこの場で殺されることになる……。クソッ!どうすれば……。
赤髪は徐々に増長しはじめる。
「これでサヨナラってわけじゃねえから安心しろよ。彩奈を食ったら、またお前らを襲ってやるから……」
だがその時、ジャックの顔に裏拳がバシッと炸裂した。
「うがぁっ。な……なんだ」
不意に下から振り上げられた裏拳に狼狽する赤髪。その裏拳の主は彩奈だった。
「彩奈!」
彼女は意識を取り戻し、一瞬の隙をついて下から裏拳を入れたのだ。決して大きなダメージを赤髪に与えたわけではないが、絶対的に優位に立っていた赤髪を怯ますには十分だ。
「人の首に……触らないでよ……。バカゾンビ……」
「このアマ何度も何度も俺様を……。もう勘弁ならねぇ殺してやる!」
ここで赤髪は俺が目の前に迫っていたことに気づく。一瞬の隙を突かれてしいまい呆然としていた。
「あ……」
距離を詰めた俺は、奴の胸に全力で正拳突きを入れる。
「どっち向いてんだテメェは!」
「ゲェェェェッ!てめえ……」
俺の腕は奴の胸を突き抜け、ジャックの肺が飛び散る。すぐに腕を引き抜いて、今度は奴のアゴを蹴り上げた。
「ぐうっ」
ふっ飛ばされたジャックの体は30メートルは舞い上がる。そして放物線を描き落下していく。ジャックの体が地上に激突する寸前で、俺は全速力の飛び蹴りを食らわせた。
「吹っ飛べ!」
「がはぁっ」
くの字に折れ曲がったジャックの体は猛烈なスピードで車道の上で飛んでいく。100メートルほど飛んだあとに、液化アルゴンを積んだガスローリーのタンク部分に突っ込んだ。凄まじい衝撃によって分厚いタンク内の鋼鉄の壁は破壊され、中から液化アルゴンが噴き出し、猛烈に気化しはじめる。
「や……やべぇっ!」
赤髪にトドメを刺そうと追いかけていたオレだったがとっさに下がった。(下手すれば窒息し酸素欠乏症になる恐れがある。これはマジでやばい)
噴き出す液化アルゴンとともに赤髪ジャックがタンクから身を乗り出してくるのが見える。まったくしぶとい野郎だ。そしてゾンビには酸素欠乏症も関係ないのか。
「き……貴様ら……。覚えておけよ……今は諦めて闇に紛れて逃げてやる。だが絶対に復讐を……」
怒りに燃える赤髪だったが、既にその体の表面は沸騰する液体アルゴン(沸点マイナス185℃)によって凍りついていた。しかし痛覚のないゾンビには己の体が凍結していることが理解できていないらしい。
「な……なんだよこれは。妙だぜ、手が動かねえ」
ジャックが無理に指を動かそうとすると、指は折れてパラパラと地面に落ちていく。
「んなっ!俺の指がぁぁ」
目が飛び出すほど仰天したジャック。危険を感じてタンクから逃げようとするが、次に足が動かなくなる。
「な……なあオイ、兄ちゃんよ。一体、な……なにが起きているんだ。教えてくれ、このままじゃ……俺はどうなっちまうん……」
動けなくなった赤髪に、タンクから容赦なく噴き出し続ける液化アルゴンがかかっていく。溢れ出す液化アルゴンはどんどん気化し、通りが白いモヤに包まれていく。
「そ……そんな。うぎゃぁぁぁ俺の体がぁぁぁ!た……助けてぇぇぇぇ」
風が吹き、白いモヤが飛ばされてしまうと、そこには完全に凍結してしまった赤髪のジャックの姿が残されていた。腕を伸ばし液化アルゴンから逃れようとする姿勢のまま……。
俺は額の汗を拭った。どうやら勝てたらしい。これでもう恐ろしい悪魔に狙われないで済む……。俺はホッと胸を撫で下ろす。
「ふうっ……。マジでやばかった」
凍った路面を進み、ジャックの顔の覗き込むと恐怖に満ちた表情をしていた。
「しっかし断末魔な顔してんなオイ」
とは言え、このまま常温になって解凍されてしまうと赤髪は復活してしまう可能性がある。念のためにそばに寄ると、軽く蹴りを入れてやった。
パリン、ガシャン……と良い音がした。
凍結した赤髪の体は路上に倒れると腕はもげて3つに割れる。されに首に亀裂が入り胴体から切り離され、頭部だけがゴロゴロと転がっていく。それは歩道の縁石にぶつかり4つに砕けちった。念を入れて、俺は凍ったジャックの頭や胴体の欠片を適当に蹴って散らし、二度と復活できないようにしておいた。溶ければ肉片が鳥達の餌にでもなるだろう。
これで本当に終わりだ。まったく長くてシンどい戦いだった。赤髪の消滅を見届けると、俺は急いで彩奈のそばにかけよる。彼女は街路樹にもたれたまま、目を瞑って動かなかった。
「大丈夫か彩奈?赤髪ならもう死んだ。だから安心しろ」
俺の呼びかけに彩奈は反応して目をあける。だが彼女はまだ朦朧としていて、俺が誰なのかも分かってない様子だった。
「貴方は……誰?貴方もゾンビなの?」
そりゃそうだ。いきなり俺が助けに来ただなんて想像できるわけないよな。そこで俺は少しおどけてみることにした。
「ジャジャーン!石見だよ〜ん。君は俺のことを死んだと思ってたろ。実は生きてたんだぞ。驚いたか」
「まさか……。だってあの人は死んじゃったのに」
虚ろな表情でじっと俺の顔を見つめる彩奈。しかし俺の顔を見つめる内に、それが本当であることを少しずつ確信していく。すると微笑んだ彼女の目に涙が浮かんだ。
「本当に?」
俺がコクリと頷くと、ボロボロなのに彩奈は手を伸ばして俺の頬を触った。
「本当に蒼汰さんだ。良かった……生きてて」
まさかこの状況で俺の方が心配をされてしまうとは……。心配してるのは俺の方なんだぞバカヤロー。だが俺は返す言葉が出てこない。涙声で返事してもみっともないしね。
俺は彩奈の体をヒョイと抱き上げる。
「きゃっ」
「まあ……話すことは一杯あるんだけどさ。とりあえず皆のところに帰ろう。結構、待たせたから眼鏡の奴は怒ってるぞ」
やっぱりこうだよな。女子高生にお姫様だっこされるよりはするに限る。慣れない態勢に少し戸惑っていた彩奈だったが、すぐに俺の首に手を回して微笑んだ。
「たまには……抱っこされるのもいいかな」
見上げれば、紺色の夕空に輝く宵の明星が綺麗だった。ここはゾンビの彷徨く死の街だが、今だけは滅びる前の美しい世界に戻った気がする。




