ムーンフラワー
「おかあさん、せいぎってなんなの?」
絵本を持ちながら、子供が一人尋ねた。それを聞いて、隣に座っていた私は首を傾げた。
「正義?また難しいことを聞くね。」
「だってわかんないんだもーん。」
可愛い可愛い私の子供。手に持っている絵本をバタつかせ、ギャアギャアと騒ぐ。
………最近の絵本はこんな難しいことまで考えさせるのか。大人ですら満足に答えられないって言うのに………
どうしたものか。難しい言葉をダラダラ並べても、きっと意味が通じない。それなら簡略的に、世間一般のイメージでも教えとくかな。
「それはね、悪者を倒すことだよ。」
「悪者ってなにー?」
「人に悪いことをする人だよ。」
「悪いことってなにー?」
「……人を困らせることだよ。」
「じゃあおかあさんは悪者だ!ピーマン食べたくない!」
私は苦笑いした。確かに、嫌いな物を食べさせている私は悪者なんだろうなぁ。
「琢磨、おかあさんを困らせちゃダメだよ。」
「幸人……今帰ったの?」
ドアを開けて旦那の幸人が部屋に入ってきた。
「ごめんよ、次の店を出すに当たっての土地契約で時間がかかったんだ。……それで、琢磨。おかあさんを困らせちゃダメだよ。」
「なんでー?ピーマン食べたくない!」
「世の中、自分の好きなもので溢れているわけじゃないんだ。自分の嫌いな物とも付き合えるようにならないと厳しいんだよ。」
「うそだー!おとうさんもおかあさんもいる!好きなものばっかりだよ!」
「ふふっ、それは嬉しいなぁ。………姫子、なんでこんな会話になってるんだい?」
私は幸人に話の成り行きを説明した。
「………なるほどなぁ。」
「どう?上手い返しとか出来そう?」
私は腕を組んで唸った。
悪者を倒す以外に、簡単な正義というものが思いつかないからだ。
「………正義を簡単に教えちゃダメだよ。そんなことをすると余計に分からなくなる。」
「………?」
「子供の記憶力をなめちゃいけないってことさ。」
そう言うと、幸人は琢磨の隣に座った。
「琢磨はおかあさんが好きかい?」
「うん!大好き!」
「ふふっ、なんでだい?」
「優しい!強い!ご飯おいしい!」
「そうだよねー。じゃあなんで琢磨はおかあさんの事を悪者だなんて言ったんだい?」
「えー……だってピーマン食べたくないもんっ。」
いまだに言い張るのか……私の存在はピーマン以外なのか?
「琢磨、正義っていうのは今みたいなことを言うんだ。」
「……んん?」
「[自分にとって絶対に譲れないもの]、[自分が正しいと思えるもの]、それが正義だ。琢磨は、自分がピーマンを食べないのは正しいと思うんだろ?だから、おかあさんを悪者にした。違うかな?」
「うん!………うん?たぶん?……わかんない。」
「…………」
幸人は琢磨の目をずっと見ながら黙る。きっと、琢磨に考える時間を与えているんだ。
「……なんかちがう!見た正義となんかちがう!」
琢磨は絵本を持って暴れ始めた。
「良いんだよそれで。正義は沢山ある。だから、違くて良いんだよ。」
「???………わかんないー!ぜんぜんわかんないー!ビシュッ!ズバン!バシューン!カッコいい!ってのが良い!」
………戦隊モノがやっぱ正義の土台になっちゃうのか。
「やっぱり、人は強さに憧れるか……でもね、世の中は弱い人ばかりだ。僕のように、姫子と違って戦うことが出来ない人達ばかりなんだ。だから彼らには彼らなりの正義があって、彼らなりに生きて今を過ごしている。カッコ悪くても、自分を信じようと頑張っているんだ。」
「おとうさんはカッコ悪くないよ!」
「そうかい?それじゃあ僕は正義の味方かい?」
「うん!!」
「ふふっ、ありがとう。」
………多分、一割も琢磨に伝わっていないのだろうなぁ。でも、幸人は、子供の記憶力を信じているのだろう。成長して、いつか、幸人との会話を思い出してくれた時に、何かを理解してくれると。
「でもね、琢磨。たくさん正義があって、何が良いのか分からなくなるときがあると思うんだ。その時は、この言葉だけでも思い出してほしいな。」
「えー?なにー?」
「[自分も笑えて、他のたくさんの人も笑える。それが、カッコイイ正義だ]ってね。……琢磨の正義が、誰かの為になることを祈るよ。」
「…………?お父さんの言うことわかんないー!」
琢磨が私に泣きついてきた。
私もガッツリ泣きつきたいぐらいには混乱しているんだけどなぁ………
「………つまり、みんなで笑いあおうってことでしょ?」
「………まぁ、そう言うことでいいや。」
私と幸人は、琢磨を抱きかかえながら笑った。
「………」
私は無言で下を眺めていた。
「…………」
地面に横たわる、袈裟に両断されたヘカトンを眺めていた。
そんな私達を見下ろす、100メートルの巨体。300本の腕がまるで花びらのようで、青い夜空に咲くムーンフラワーを想起させた。儚く、散る、一年草。
長い……実に長い復讐だったと思う。こんなものを殺す為に、私は人生をかけた。正義なんてものは多分、これっぽっちも、なかったと思う。いや、大義を作って行動しようとすればできたんだ。……でもしなかった。出来なかった。そんなことをすれば、幸人の正義に反してしまうような気がしたから。
私は殺す為だけに動いた。
そこに正義はない。なぜならただの復讐だから。
殺したことに意味はない。なぜならただの復讐だから。
復讐……それだけ。それ以外の意味を求める必要はない。
「……………」
ガッ……
私は傍で、地面に突き刺さっている黒色の剣を握った。
何かをうわごとのように呟いているヘカトンに、確実なトドメをさす為だ。
引き抜き、掲げ、首元に……
「まだだ………まだ………」
……ヘカトンが呟いた。
…………まだ進もうとしている。こいつは、進もうとしているんだ。誰を踏み台にしてでも、とにかく前へ向かおうとしていた。多分これが、ヘカトンの正義だ。人を蹴落としてでも前へ進むという……大正義。
…………
……………
………………
……………私に、そんなものは、ない。
ピュッ………
黒線が空を断ち、斬り裂かれた喉から血が噴き出た。
笑えない。笑ってはいけない。こんな行為、正義じゃない。笑えない。然るべき罰を与えられなかった。笑えない………こんなの、動物でもできる。笑えない…………私の行動も、結果も、何もかもが笑えない。
グイッ………
顔についた返り血を拭う。
暖かかった。朱色を馴染ませるような、大きな粒が、袖に染み込んでいく。
………弱いな、私。正義を掲げる勇気もないなんて。
「姫子さん!だいじょ………」
イリナさん達が走ってくる。
ああ、安心させないと。笑わないと。笑わないと………
「……だいじょうぶ。」
私は笑った。
けれどきっと、ひどく歪んだ泣き顔を見せてしまったことだろう。掠れる声と共に。
闇夜に輝く水滴と氷片と……巨大な一年草。
それだけがただ、輝いていた。




