最終日
完全に寝不足の頭を振って、今日という一日が始まったのだと、冷たい水を顔に浴びて重い瞼を叩き起こす。
「おはよ、ロウ。今日は大事な日なんでしょ? もう少しちゃんとしなきゃ、大変なことになるよ。」
「・・・大変なことなら昨晩の事で、おなかいっぱいだから勘弁してほしいところなんだけど。」
昨晩のことだ。あの後、キリエを見せて誤解を解くためにあの二人を連れてきたのは周知のこと。大勢いるところで見せるのはマズいと、連れてきたのは馬小屋。その中でリリアのローブを脱いだキリエの姿を見るなり、ロウの方へと二人は頭を下げてきた。
正直、腕を折られたロウ個人としてはそれだけで許せる訳はないのだが、キリエとフェザーが気にするなと言うものだから、タイミングを逃した結果ロウも許すことになったのは釈然としない。
かといって、許さないとしても特に言いたいことや、やった欲しい事などない訳で、ただの気分的な問題だからあの終わり方に不満は。
二人と別れた後部屋に戻ったロウは、リリアをフェザーに任せると血に濡れた服を脱いですぐに眠りについてしまった。それほどまでに体の疲労がたまっていたようで、こうして起きた後でもまだ疲れがたまっているように感じる。
「今日はマザールさんの所に行く日でしょ。私はあの時あれだけ啖呵切っちゃったから行けないけど、・・がんばってきてね!」
「・・・その応援が眩しいよ。」
顔を洗い終わりキリエと共にリビングの方へ行くと、すでにリウの朝食が出上がっておりいい匂いが鼻をくすぐる。
「フィオナはまだ寝てるのか。」
「うん、まだぐっすり。余程疲れてたみたいだから、起こすの躊躇っちゃって。」
そうか、とだけ口にしてそれ以上は何も言わない。フィオナが今迄置かれていた状況を知るものとして、せめて今出来ることと言ったら、こんなことぐらいしか出来ない。
下手に口を出して嫌われるような事になれば、今後頼みたいこともあるというのに、接しづらくなる事だけは避けたい。
そんなロウの考えとは別に、この中でキリエだけがフィオナに随分と気に入られていたみたいだ。
昨晩帰って来た際、キリエの後ろに隠れて姿を見せた時は驚いた。最初はあれだけ怖がられていたというのに、その日の内の短い時間で触れ合えるまでに仲を深めたのだから。
ロウとリリアが死にかけている時に、何をしたのか聞いたところ『乙女の秘密』、とだけ言われてそれ以上は何も聞けなかった。
乙女とはいったい・・・・・・、なんだ?
「さぁ、今日のお昼にはフィエルエナに向かって出発するので、準備の方はお願いしますね。皆々様!」
「俺はマザールの方に向かうから、準備の方は任せたいんだけど・・・」
「そりゃまぁ、仕方ないのう。準備の方は儂の方に任せておけ。」
「あぁ、頼む。」
今日の予定の会話はこれで完了したと、誰もが思った次の瞬間、フィルの一言で全てが覆された。
「フェザーはフィオナの服とか買ってくれるんだよね?」
各々が手にした食器やパンが止まる。マザールの事で頭が一杯になっている今のロウは、昨日の疲れも残っているためにそこまで気が付かなかった。
「そっか、フィオナの服とかいろいろ買わなくちゃいけないんだ。」
「服だけじゃなくて長い髪も少し切らなくちゃ。せっかく綺麗な顔立ちしてるのに、もったいないですよ。」
「それと下着もだよね、一つだけじゃ心もとないしさ。」
女性陣から出てくる必要なものの数に、フェザーのスプーンを持った手は止まり、顔は少し青ざめているように見える。
述べてくる品物は確かに必要なものばかりで、ロウやフェザーは言い返すことが出来ずただ頷くしかない。
疲れの色が見えているリリアについては、完全に自分の世界に引きこもってしまっており、完全に流れに身を任すようだ。
今回に至ってはそれが正解なのかも知れない。
◇◇◇ ◇◇◇
「・・・それじゃ、頼む。何もないと思うけど、外がなんか騒がしいような気がするから。」
「任しとけ。この数日、儂だけ何もしとらんからな、体が疼いてしょうがないんじゃ。問題が来いとは言わんが、来てくれても良いんじゃぞ?」
「止めてくださいよ、何もないに越したことは無いです。昨日みたいなのは、本当に勘弁して欲しいので。」
男衆三人がいるのは玄関前。あんまり遅くなると大変なので、少し早めに屋敷の方へと向かおうという算段だ。
眠りについていたフィオナはロウが出かける直前に目を覚ましたようで、フィルが叫び声で知らせてきた。下手に近づくのは止めておこうという男衆は、こうしてロウの出発を見送りに来たという訳だ。
「しかし、ロウも大変ですね。昨日の今日で、今度は一人で向かおうというのですから。」
「今回ばかりはしょうがない。道のりはそこまで遠くないから、買い込むものはフィオナのものが主になる。今いるメンツの中で一番信頼されてんのがキリエである限り、あの二人の行動は一緒にするしかないからな。」
「そうなれば自然とマザールと面識のあるロウが自然と外れる。こっちのことはこっちで任せとけ。」
「あぁ、頼んだ。それじゃ行ってくる。」
そう告げて開いた扉から振り返ることなく出て行った。シンと静まるその場所に一つのため息を吐く声が聞こえると、二人はリビングへと戻る。
「さて、ここからどうしましょうか。任せとけと言ったはいいものの、どうなるかはあの方々の気分次第ですからね。」
「儂らは大人しくここで待つだけじゃ、何をするでもないからの。」
「結論はそうなりますか。・・・それじゃ、後は大人しく待つとしますかね。私としては、時間までここで座っているのが一番いいんですけど。」
「諦めろ。どう頑張ったところで言い分としては、あちらが正しいのでな。いつでも動ける準備だけでもしておくのが吉じゃ。」
やれやれと口にして備え付けのソファーに腰を掛けて目をつぶる。話し方や行動はいつも通りだが、マナの消費はまだ回復しきっていないようで、顔色が少し悪い。
不満を流しつつこうして無理をして出てきているということは、これからの買い出しについてくる気は十分にあるようだ。だとしたらその時まで少しでもいいから体を休めて、マナの回復に当てて欲しい。
信用が薄いとは言いつつも、こうしてリリアの事を気遣っているあたり、自分もロウと同じであまい部分があるんだなと自覚する。
それから少しの沈黙が流れ、睡魔という誘惑の姿がちらつき始めた頃、複数の足音が耳に入ってきた。
「お待たせー、ってロウは行っちゃった?」
「後は頼むと言ってな。さっきだが・・何か言う事でもあったのか?」
「いや、せっかくだから途中まで一緒に行こうと思ったんだけど・・、行っちゃったなら仕方ないか。フェザーさんたちの方は準備できてるんですか?」
「儂はいつでも行けるぞ。ああして半分寝とるんじゃから、リリアの方も問題はないじゃろう。」
そこまで話して初めてフェザーはリウたちの方へと視線を向けて、いつもと違う服装に意表をつかれた。
いつもは白を基調とした騎士服に近い服を着ていたが、今目の前にいるリウは今までとガラリと変わって黒を基調とした服を身に纏っている。
上下を黒で統一した服装で、胸元から見える薄い蒼の色合いが美しく混ざり合う。服の色がガラリと変わるだけで随分と感じる印象が変わるもんだと、頷きながら上下に首を動かした。
「いやぁ、見違えたわい。こうして見るとリウ嬢も、美人じゃったんじゃな。」
「こうして見ると、ってどういうこと? 私その言葉に喜んでいいの?」
「良いんじゃないの? だって褒められたんでしょ?」
リウの後ろからヒョッコリと顔を出したフィルもリウ同様、随分とオシャレに着こなしている。
グレーのタイツに赤いチェックのミニスカート。白のブラウスの上から羽織った黒のカーディガンが少し大人びた雰囲気を見せてくるが、当の本人が年相応の振舞なので、実際に効果があるかどうかは怪しいところだ。
「フィオナもおいでよ、いつまでもそこにいたんじゃ出かけられないよ!」
無邪気な年下と言うのは無条件で甘えさせてしまう力でも持っているのか、キリエ以外が触れようとすると目に見えて怯えだしていたが、触れても大丈夫の一員にフィルが加わったことはおそらくロウは知らない。
フィルに手を引かれて現した姿は見事なもので、白の長いスカートに上は濃い蒼の長袖で、僅かに見える黒の鱗が白いスカートと対照的となってこちらもまた非常に美しい。
比較的感情の変化が乏しいフィオナだが、今はなんとなく顔が赤らんでいる気がする。
そんなフィオナの背中を押しながら最後に出てきたのはキリエだ。全体的に白でまとめてあり、薄く足の線が見えるようなスカートを穿き、上には薄いピンクのジャケットを羽織っている。
リリアの作成したグレーのローブがその服装と非常にマッチしており、図らずもフェザーをうならせた。
「見事なもんじゃ。なかなかどうして、こうも美人ぞろいじゃとなんぞ恥ずかしくなってくるのう。」
「いや全く持ってその通りですよ。けれど、これは順番が悪いですね。こうして見ると、最初に出てきた方は少し物足りなく感じてしまいますよ。」
「ねぇ、それ私の事?」
いつの間にか起きていたリリアが最後にまとめてそう評価し、下された言葉に納得がいかないリウはリリアの問い詰めようとするが、立ち上がったフェザーに遮られる。
「さて、役者もそろった事じゃし動くとするかの。」
「待ってまだ聞きたいことが・・・」
「行こう! こっちだよ、フィオナ!」
納得のいかないリウはただ茫然と立ち尽くし、誰も彼もが次々と部屋を出て行く中、一瞬目が合ったリリアに鼻で笑われた(ように感じた)リウは涙を浮かべながら声を荒げた。
「お前、いつか、ぶっ飛ばす!」
片言の叫び声を聞き届けたフェザーは、そんなリウの夢が叶いますようにとそっと一緒に祈っていたのだった。
◇◇◇ ◇◇◇
最後になる部屋から出たロウは、何処によることも無く真っすぐに下層まで下り、相棒であるレイバを迎えてそのまま引き連れて門の外に出る。
門を超えたあたりで一旦立ち止まり、周囲を見回した後すぐ隣にある木箱に向けて声を発した。
「・・・何してんだ、お前。」
「ほほほ、ばれとったか。まずはさすがじゃと言っておこうかの。」
「何がさすがだ。こんなところに一つだけ木箱が置いてあるなんて、違和感以外の何物でもないだろうが。」
門の隣に一つだけ置いてあった木箱の蓋を開けて出てきたのは、亀の甲羅を背負って長いひげを生やしたセンジュが出てきた。
お馴染みとなっている浮かぶ座布団もその木箱の中から出てきて、ピョイと身軽に乗り込み座る。
「だからと言ってこの木箱の中に、儂が入っていることなど分かるはずないじゃろう。」
「・・・昨日の晩から後付けられてんのに、気が付かないと思ったか?」
「ほう。」
「まさかまだいるとは思わなかったから、こうして出てきたことには素直に驚いてるよ。」
「それじゃったら、こうして我慢した甲斐があるもんじゃわい。」
ホホホと嬉しそうに笑う姿だけならば無害な老人でしかないのだが、この木箱の中で一晩中過ごしていたかと思うとただの馬鹿なんじゃないかと考えもする。
「これからマザールのもとに向かうんじゃろ? 儂も行くぞい。」
「何で?」
「決まっとるじゃろ、儂はお主の相棒じゃぞ? それなのに家で寝転がるなんてできやせんわい。」
「まだ相棒なんて言ってたのか。言ったろ、俺たちは協力関係だって。お前のこともよく知らないのに、行きなりそんなに距離詰められてもこっちが困る。」
「だとしたらなおさら儂の事を知ってもらうために、一緒に行かねばなるまいな。それに、お主だけではいろいろ苦労することもあるじゃろう。そもそも、マザールが今いる場所は知っとるのか?」
「この時間だ、自分の商店にいるだろ。」
ロウのその言葉を聞いたセンジュはやれやれと深いため息をついて、ロウの目線の高さまで浮かび上がって、分厚い眼鏡で隠れた瞳を向けてくる。
「あ奴は今日は一日自分の家じゃ。あ奴の商会と家の方向はここからじゃと真逆じゃぞ?」
「何であんたがそんな事知ってんだよ。」
「忘れたのか? 儂はこの国一番の情報屋じゃぞ? その程度分からんようでは、こんな商売なんぞ今まで成り立つ訳ないじゃろうに。」
捲し立てられるその言葉に言い返せない。もしセンジュの言うことが本当ならば、無駄に時間を食ってマザールと出会う前に時間になってしまう。
「どうじゃ? 儂がそばにいると、なかなか役立つじゃろう?」
「・・・分かったよ。そこまで言うなら一緒に来てくれ。今は少しの時間も惜しい。」
「ほっほ、待っとったぞその言葉。」
言葉も途中にレイバにまたがったロウは、センジュの指示を受けながら目的のマザールの屋敷を目指す。
◇◇◇ ◇◇◇
賑わう大通りを曲がった先にある、一際目を引く大きさの建物は一目でマザールの物であると認識できる。
何か特別なものが置いてあるわけではないが、住宅街の中に一つだけ大きさが違いすぎる建物であり、このあたりにマザールの屋敷があると言われればもうここしか考えられない。
「・・・ここがマザールの屋敷。」
黒い鉄でできた頑丈な門は、誰一人として入る者を許さないと言っている風だ。圧倒的な違和感を振りまくその門と、城壁と言っても過言ではないほどの高さを持つ壁に遮られて、遠くから少し見えていたマザールの屋敷の一部は何も見えない。
センジュの指示のもと、レイバを走らせること40分。裏道に裏道を重ねた結果、大通りを行くより相当早く到着することが出来た。
「うむ、我ながら見事な指示じゃ。じゃが儂指示もさることながら、主の馬『レイバ』と言ったか? 見事な馬よの。」
「だろ? 正直持て余してる感は否めないが、自慢の馬だ。」
複雑な道を行ったにも関わらず、レイバは何一つ間違えることなくかなりの速度を保ったまま走り続けた。あのホテルを出てから止まったのは、大通りに出るときの一度だけ。
見たこともない道であるハズなのに、まるで通いなれた道のようにすらすらと走る姿を隣で見ていたセンジュは、何度も驚きの声を漏らしていた。
「・・・それに、驚いたのは俺の方だ。まさかその座布団、レイバの速さについてくるとは思いもよらなかったぞ。」
「何を言うか! 儂の座布団の速度はこんなものではないぞ。本気になれば光すらも超えるぞ?」
「もうそれ座布団じゃねぇよ、別の何かだよ。」
「いつまで無駄話をしているつもりだ、貴様ら。」
その声は黒鉄の門の向こうから聞こえる。開かれた門は開閉式ではなく、まさかの左右スライド式。ガリガリと音を立てながら開くその門に呆気に取られていると、その門の先から一度見たことのある人物が現れた。
「・・・ジェリカ、だったか?」
「お前なんぞに覚えられたくなかったがな。・・来い、マザール様がお待ちだ。」
それ以上は何も言わずに背中を向けて、正面に見えるバカでかい屋敷の方へと歩き出した。
「こうして出迎えてくれたってことは、それなりに待っててくれたりしたのか?」
「黙れ。無駄口を叩く暇があるなら、足を動かせ・・・人間。」
最期の単語を口にする際、少し躊躇いのようなものを感じたが、今は何も言わずに先を歩くジェリカの後ろをついていく。
レイバを引きながら門を通り抜けて、少し歩いたときの事だった。
「・・・うっ」
目に見えないモチモチとした壁のようなものを通り抜けると、いきなり視界がぐらつき一瞬酔ったような感覚に陥ってその場に膝をついた。
荒れる呼吸に意味が分からず、今はもう感じない船酔いのような気分の悪さを飲み込んで立ち上がる。
「ロウ、どうした? 何があった?」
「・・・・いや、何でもない。」
立ち上がって深く深呼吸をして自分の状態を確かめる。これといって特に異常を感じはしないために、まだ昨日の疲れが残っているのかとそう結論付けた。
「何を遊んでいる。さっさと来い。」
「・・・・あぁ、すまん。今行く。」
跪いたロウに目もくれず、簡潔にそう伝えると再び屋敷の方に向かって進みだし、ロウの方も慌ててその後を追いかける。
屋敷の前には十人ほどの使用人と思われる魔族が並んでおり、その姿は様々だ。羽を生やした女性もいれば、触手の生えた腕を持つ者もいる。
そんな使用人の一人がロウの引く馬を小屋の方へと案内しようと手をだしてきた。今までのレイバなら暴れ倒しただろうが、それなりに経験したら学習する。
伸ばされた手を鼻で払いのけ、自分から進んで小屋の方へと歩き出したのだ。
今まで扱ってきた馬と違う行動をされ、迷ったような動きを見せたが向かう先が分からないレイバは、行先を教えろと言わんばかりに睨んでくる。
その行動を見て、まるで客を迎えるかのようにレイバを案内しはじめ、ロウは申し訳ない気持ちと成長したなといううれしい気持ちが入り混じり、何とも言えない表情だ。
そんな風に思いながらも歩く足は止めない。前を歩くジェリカを見失わないように歩き続け、頭を下げる使用人の作る道の真ん中を通って屋敷の中へと入る。
家、屋敷といった言葉より最初に出てくるのは何処かのホテルのかと錯覚しそうな内装だ。ロウ達が今まで宿泊していたホテルのような内装で、隅々まで手入れされていることが伺えた。
「ここから先はマザール様が体を休められる場所だ。もし、少しでも害をなすような行動をとれば私がバツを与える。文句は言わせないぞ。」
「まぁお邪魔してる身だから、何も言わんよ。サクッと案内よろしくな。」
「ふん。」
鼻で笑っただけでそれ以上は何も言わず、後は外と同様に沈黙が訪れる。隣を飛んでいるセンジュは何かが気になるのか、辺りをきょろきょろと見渡し始めた。
「・・・そんなに見回して、なにかあったのか?」
「あったと言えば『ある』な。・・ガナがざわついとる。」
「ガナがざわついてる、ねぇ。ざわついてると何かあるのか?」
「・・・さぁ。」
「さぁ、って。ざわついてるのなら、何かあるんじゃないのか?」
ずっこけそうになりながらも重ねて質問を重ねるロウに、センジュは首をひねって答えを探している。どうやら分からないのは本当のようだ。
「基本的にガナがざわついていいことは無いわい。外でざわつくならば、何かの災害の前触れと言う予想もたつが・・・。家の中じゃぁの。」
「家の中といっても、かなりの広さだぞ。この屋敷。」
「少し黙ったらどうだ。もう少しでマザール様のお部屋に・・・」
言葉が止まったのは、話していた相手であるロウがいきなり何かに躓き倒れたからで、話していた言葉を途中で終わらせてロウの顔を覗き見る。
「おい、どうした?」
「いって、またか。・・おい、この家なんか見えない壁かなんかあるのか? さっきから何度かぶつかってるんだけど。」
「見えない壁だと? そんなものある訳なかろうが。あまり意味のないことを言っていると罰するぞ?」
「あるじゃねぇか。ここに・・・」
座ったまま触ろうと、ロウの後方へと手を伸ばしたところで、伸びた手はただ空を切るだけで何も触れはしない。
「あれ、何で?」
「・・・遊びたいなら一人でやれ。こっちは暇じゃないんだ。」
「いや、遊んでるわけじゃ・・・・」
「ロウ、さすがに儂も擁護できんぞ?」
「えぇ・・・。・・・分かった、すまなかったよ。今度こそ何もない、大丈夫だ。」
立ち上がって服の汚れを振り払う。正直、手入れの行き届いたこの屋敷で倒れたところで、服が汚れるといったことは無さそうではあるが、一応払っておくのは癖だろう。
案内も終わりのようで、マザールの部屋の前にジェリカが立つ。ドアを数回たたいた後に軽く名前を告げるが、声は一向に帰ってこないことに違和感を覚えるが・・・。
「・・・マザール様のお許しが出た。これから面会するわけだが、粗相が内容にしろよ。」
「うむ、そこは了承しておく。ただ話に来ただけじゃからの、パパッと終わらせて帰るとするぞい。」
「お前等待てよ、何言ってんだ? 声なんて何も聞こえなかっただろ。」
二人の会話の意味が分からなかったロウは、慌て気味にそう話すが、ジェリカは意味の分からないものを見る目で睨んでくる。
「貴様、馬鹿にするのも大概にしろ? さすがの心の広い私でも、さすがにキレるぞ?」
「そんなつもりは毛頭ない。ただ気になっただけだ。」
今すぐロウに飛び掛かりそうなジェリカを手に持っている杖で押さえ、顎髭を撫でながらロウに向けて確認をとる。
「ロウ、お主本当に何も聞こえなかったのか?」
「・・あぁ、ドアを叩いて声を掛けたのに何も聞こえなかった。だっていうのに、二人はまるで聞こえているみたいに話してるから、ちょっと・・・おかしいな、と。」
「今度は何だ。」
言葉がしりすぼみになって言ったロウの言葉に、怒りを隠すことなく当たってくるジェリカは、腕を組んで足では貧乏ゆすりをしている。
目の前のジェリカの姿が見ていないのか、ロウは少し俯くと一気に表情が変わった。
「・・・・血の匂い? ・・・!」
「血!?」
不穏な言葉を呟いていきなり振り返ったロウの顔が、みるみる内に青く染まっていく。明らかに普通じゃないロウの事を案じだしたのか、それとも呆れを通り越したのかは分からない。
流石のジェリカもおかしいと気づきだし、ロウに詰め寄った。
「おい、大丈夫か? お前普通じゃないぞ、今日はもう帰れ。」
「見えてないのか、あの死体の山を!」
「死体だと? そんなものどこにも・・・」
無いだろう、そう口にしなかったのは急に襲い掛かってきた不可思議な酔う感覚だ。酒は飲んでもいないのに、急にふらつきだした頭は体の制御を放棄し、立つことが出来なくなった。
「一体、何が・・・」
急に鼻についたのは吐き気がするほどの血の匂い。背筋を舐められる気持ちの悪さが全身を襲い、振り返った先、今までロウが見ていた先にあったのは、護衛兵と思われる無数の死体がそこに転がっていた。
「これは・・・・・」
あまりに急な出来事に頭の整理が追い付かない。それはセンジュも同じようで、落下した座布団の上から見上げるようにしてその光景を眺めている。
「・・マザール!」
この中で唯一この出来事に追いついているロウがいち早くマザールの扉の前につくと、腰に下げたナイフの取っ手を掴み、ゆっくりと扉を開く。
視界の外に誰かいるかもしれないと、恐る恐る開いた扉の先では━━━━━━━
━━━━━━━全身を血で赤く染めた、無残な姿のマザールがそこにいた。




