整理と撤退
暗くなり始めた森の周囲の騒めきは無く、それどころか村の中には誰の声も、音も、気配すら感じられない。
ただ風が流れて木々や草花を揺らす音だけが鮮明に聞こえる中、ある一つの建物だけからは声が聞こえてきていた。
「うむ、了解した。そのまま三番隊の方へと移りながら移動してくれ」
その返事と共に連絡用の刻印石を置くと、地図の上に置いた石ころを僅かに動かす。
「・・攻め込んでくる前に情報を知ることが出来て助かりましたね」
「そうじゃな。もう少し遅れていたら、それこそ手遅れになりかねんからの」
揺らめく炎に照らされる地図の上にはいくつかの石が置かれており、道場の隅でふて寝するギャザリックの寝息を聞きながら、センジュは静かに並べられた石へと思考を落とす。
「こちらに向かってくるのは、街道を直進する部隊と森の闇に隠れて移動する部隊の二つ、か。うーむ、普通過ぎて何も面白くはないのぅ」
「ここで面白さなんて求めてませんよ」
詰まらなさそうに話すセンジュに冷や汗を流すリータスは、はははと乾いた笑いを浮かべながら同じように地図へと視線を向ける。
「・・確認ですが、この一夜で終わらせるつもりは無いんですよね?」
「終わらせるのではない、終わらんのじゃ。数では圧倒的な差がついとるから、こちらに神将の一人や二人は居らんと出来はせん」
茶が入っていた湯呑を手で遊びながら話すセンジュは、どこか遠いところを見ているように見える。
「じゃから、今夜あたりは一度陣地に帰ってもらって、明日の朝早くこちらから奇襲をかけてどうにかしようというものじゃ、とあれほど説明したじゃろ? もう忘れたのかの?」
「いえ、そうではないのです。ただ、センジュ殿の様子が少し気になりまして」
どうかされたのですか、というリータスの言葉はセンジュには届いていない。手で遊ぶ湯伸びを床にコトリと置くと、センジュは静かな、それでいて低い声で呟いた。
「・・・繋がらんのじゃ」
「繋がらない、ですか?」
「目的と行動自体はある程度納得は出来るものじゃが、それで起きているこの状況が全く理解できん」
「理解できない、とは何ですか? 攻められたら逃げるのが当たり前では?」
「『攻められたら逃げる』、当たり前の行動じゃ。そこに何の違和感も何もない」
センジュが普段何を考えているのか分からないのは今に始まったことでは無い。最初に出会った時から何を考えているのか分からなかったのだから、今更そこに何かを思う事は無い、のだが。
「センジュ殿が何を不思議に思っているのかが私には全く分かりません。あなたは一体何に気が付いたというんですか?」
リータスの問い掛けに何も答えない。ゆらゆらと揺らめく明かりを眼鏡に写したまま、二つ・三つの呼吸が吐き出された後、ようやく声が発せられる。
「・・一度、話を整理でもしようか。そもそもの前提として、あ奴らはここに魔鉱石を求めてやってきおった。それもただの魔鉱石ではなく、この村において心臓ともいえる鉱石〈オリハルコン〉を求めてきた。そうじゃな?」
「はい。心臓であるオリハルコンが無くなってしまえばここで生きてく事は困難になる為、村人はどうでもいいという考え、と話し合ったはずです」
「そして今、あ奴らはここに向かって進軍が始まり、儂らは逃げた。」
「えぇ、そうですが・・何処に悩むようなところが?」
「あるに決まっとるじゃろう。何故最初からそうしなかった?」
センジュからの言葉を得て、ようやくリータスもその領域へと至る。
「あ奴らが来たのはここに魔鉱石を求めてきた。であれば、時間が経てば経つほどに追加の人材が送られてくることは容易に分かる。ましてや連絡を絶ってしまっては当たり前というモノじゃ」
「言われてみれば・・そうですね。攻められれば逃げる、これは当然の行いで、最初から攻めて来ていれば無駄に時間をかける必要はどこにもありません」
「左様。それに、攻め込んでくるにしてもこんな夜直前に来るのはいささか妙としか思えん。向こうで何かがあったからこちらへと進軍を開始した、と見るのが妥当じゃろ。薬草の件も無いとは思えんが、どうやらそれ以外にもありそうじゃ」
「そうですね。夜が明けるか明けないかの時間も待てない程に追い詰められていた、とは考えられませんから」
最初から攻めて来ていれば無駄に時間をかけることも無かった。それに向こうには神将一人と腕利きの騎士長と、訓練された部隊が居る。
小さな村の防人程度でどうにかなる存在ではないというのにも関わらず、何故彼らはそのような事をしなかったのか。
「それに加えて、この村の異変。繋がっとるように思えるんじゃが、どう繋がっとるのか一向に見えてこん。儂らにはまだ足りないものがあるかもしれん」
「まだ足りないというのですか? ・・・私たちは、一体何と戦っているんでしょうか?」
「それは・・分からん。分かるとすれば、それはただ一人じゃろうな」
「誰、でしょうか。その一人というのは」
これについては答えるまでもない。何と戦っているのか、その全貌が掴めない相手と先に戦っているものがいるではないか。
センジュが答えないのは、リータスもその事に気が付いていることを知っているからだ。
視線を落とす地図には鈍く冷たく光る石が置かれているだけ。こちらが触れない限り動くことの無いその石たちを二人はただ見つめていた。
そんな中、突如として連絡用の刻印石が鳴り響く。
「どうした?」
間髪入れずに受け取ったリータスがそう答えると、向こうの受話器から声ではない何かの音。まるで爆発音のような爆音が響き渡る。
「━━ッ! どうした、返事をしなさい!」
『━━━が、━る━━』
「うまく聞き取れない。一体何が起きた?」
ノイズのような音が言葉を妨害するせいでうまく聞き取ることが出来ない。掠れた声をつなげて、ようやく知ることが出来る、その言葉は。
『化け物が・・神将が攻め込んでくる!』
◇◇◇
センジュがリータスと話している時間から少し戻り、こちらは未だに周囲が燃えているチャック達の本陣だ。
「貴様、そこで何をしている」
ワントーン低い声は転んで顔を上げないリウの耳へと否応なしに突き刺さる。全身に逆立った鳥肌が全力で危険信号を伝えてくるが、指先の末端に至るほどの震えが危険信号を圧し潰していた。
「・・ぁ、ぅあ」
こういう時何と言えばいいのか、それすらも分からないまま震える喉から声とも呼べない声が漏れ出した。
「答えられんというのか、貴様ァ!」
倒れているリウを上から踏みつけたチャックは、そのまま何度か蹴り飛ばした後、栗毛の髪を掴んで外へと引き摺りだした。
「い、痛いイタイ・・いッ━━」
階段前まで連れて来られると、ブチブチという髪がちぎれる音が響くと同時、腹部に嗚咽を伴わせる強烈な衝撃が腹部から背中へと駆け抜けた。
受け流す技術をもたないリウはそのまま階段を転げ落ちていき、チャックに付いてきていた騎士たちの中央へと叩き落とされた。
階段を転がった際口の中を切ったらしく血の味がする中、あまりの衝撃に堪えきれなかった体はその場に吐瀉物を吐き出してしまう。
「か・・。はぁ・・ぉえ」
ボサボサに振りほどかれた前髪の隙間から見上げるチャックの姿が、この世の物とは思えない程禍々しく瞳に映る。人間がこの世で最も嫌われるべきだとは何度も聞いてきた事であり、そのような言葉から抱く感情が理解できなかったリウは、ここに来てその感情とやらを鮮烈に思い知ることとなった。
「答えろ。何をしていた?」
コツコツと階段を降りる音が聞こえる度に体が跳ね上がる。これは言い知れぬ恐怖の対象が、明確に歩み寄ってくるものだ。
殺さなければいけないという恐怖観念に囚われる者が大勢いたという話を、今ならば諸手を上げて共感することが出来るだろう。
「お、・・お前、は何が━━」
「お前だと?」
苦しみながらも絞り出したリウの声に片眉が明確に吊り上がる。そして、チャックの振り上げた右足が、再びリウの腹部へと突き刺さった。
「チャック様だろう!平民風情が図に乗るのも大概にしろ!」
「がぁッ!」
「心があるかだと!? あるに決まっているだろう! だからこそこうして貴様に苛立っているんではないか!」
荒立つ波が切り立った崖にぶつかるように、幾度となくチャックは蹲るリウを蹴り続けた。
蹴りつかれたチャックの呼吸が乱れる頃には、リウはピクリとも動くことが出来ないままその場に倒れこんでいた。
唯一動く場所と言えば、疲弊した体と心の思いとは逆に、見たくもないチャックの姿を捉え続ける目だけだった。
「はぁ、はぁ・・どうやら口を割る気は無いらしい。まぁ、誰が原因かは大体予想できているがな」
しこたま蹴り飛ばしたチャックは上下に揺れる肩を落ち着かせながらリウから離れ、近くに居た騎士に静かに耳内をする。
「━━殺せ。大事の前の小事でも油断はできんからな」
「御意」
離れていくチャックとは反対に、耳打ちされた騎士は銀色に光輝く剣を抜き放ちながらリウへと歩み寄る。
日はほとんど沈みかけており、今現在周囲を照らしているのは紫色の炎だ。綺麗に研がれた剣に映る幻想的な炎色の何ときれいな事だろう。
あらゆる物事を静観するにまで達したリウの今現在の精神では、目前に迫る死ですらも他人事に感じられてしまう。億劫だとか、趣味じゃないとかではなく、本当に何もできないのだ。
動かぬ体と思考は全てを停止させ、時間のようにただ流れて訪れるだけのそれを受け入れようとするリウは静かに目を閉じる。
だからこそ、鼓膜を震わすその叫び声は不思議と体へと染み渡る。
「あああぁぁぁぁああっ!」
誰かの叫び声が響き渡り、何処からともなくボールのように飛んできた騎士が、今まさに切りかかろうとした騎士を吹き飛ばした。
一体何が起きているのか。状況を理解できるだけの余力がほとんどなく、気が付けば力なく倒れるリウを誰かが抱えている事に気が付いたのも、少々の間を要した。
鉄と土埃の匂い、柔らかな感触。忘れるわけがない、彼女は自分の数少ない親友なのだから。
「・・・トー、・・ル?」
「良かった・・良かった・・・」
僅かに残った意識でその者の名前を告げると、嬉しそうに抱きしめてきた。
余程嬉しかったのか、抱きかかえるトールの力は強く、もしかしたらトールのせいで意識が飛んでしまうかもしれない。
「トール、苦しいよ」
「・・ごめん。私が守らなきゃいけなかったのに、こんな・・・こんな!」
ぼんやりとした輪郭がだんだんと明確になるにつれ、抱えるトールの姿が視界にハッキリと映り始める。
顔の数カ所は所々内出血したらしく青く変色し、よくよく見ればトールの服には至る所に赤黒い血の跡が付いていた。
「トール、その怪我・・」
「私は慣れてるから大したことない。それよりもリウが━━」
「まったく、面倒事ばかりが重なるな。実に苛立たしい事この上ない」
二人の再会を割ったのは言うまでもない、チャックだ。
何処かに行ったはずのチャックは、騎士が吹き飛んだことで再びこちらへと戻ってきていたのだ。吹き飛んだ騎士には目もくれず、ボロボロの二人を見下げて鼻で笑う。
「ふん。ネルとかいう神将の部下だというから慎重になったものを・・。蓋を開ければ使えない役立たずの集まりだったか。お前ら然り、あの女然り」
「黙れ! お前ごときが姉さんを侮辱するな!」
「威勢が良いのは口だけだな。偉そうな事を言う割には弱くて、くだらない程にちっぽけだ。そんな奴らに言われる側としてはどんな気分だ? ━━ネル」
チャックの言葉と、カランコロンという下駄の足音が聞こえたのは同時だった。
本来ならば安心するはずのその足音は、今はただただ戦慄するほかにない。
「何も。弱いだけの奴の言葉には何の力も宿りませんので」
ボロボロの和服と胸元から覗く薄汚れたサラシ、ボサツいた黒髪と生き物のように周囲を漂う黒煙。
何処からどう見ても自分たちの直接の上司であるネル・ガルド本人だった。
「まだ仕留められてなかったのか。本当に役立たずだな、お前等は」
「すいません。ですが、それも、もう終わり、ですので」
ネルの手の動きに合わせて動く黒煙は、モゾりと生き物のようだ。
━━夢幻姫 通称〈煙姫〉
ネルは数多くの異名を有する人物であり、今現在名乗っている二つ名はクロエから命名されたモノだ。
文字通り『煙』を扱う事から名付けられた二つ名であるが、煙の能力を扱うものは多くは無いが確かに存在する。
そしてそのほとんどが役立たずの能力であり、出来たとしても目くらまし程度が関の山である。
そんなチンケな能力ではクロエが認めるハズが無いのだが━━ネルの扱う『煙』については話が別だ。
「ッ!」
突如として勢いを増した黒煙は、リウとトールを飲み込もうと最速・最短で向かってくる。
とっさにリウを抱えて跳び上がることで黒煙の直接の攻撃を躱すことに成功はしたが、これだけでは愚策としか言いようがない。
「━━『弾けろ』」
リウたちに追いすがった煙はトールによってギリギリで躱されたものの未だに射程圏内であり、ネルからの魔法の言葉を受け取った黒煙は、バチバチと火花を散らせると間髪入れずに爆発を起こした。
焦げる髪と服、体に感じる衝撃と確かな熱量。
直撃していればリウの意識は吹き飛んだうえ、命の危機にまで及んでいただろう。そう、直撃していればの話である。
リウを抱えるトールはその身を盾とすることでリウを爆発から守った、守り切ったのだ。が、その代償は決して小さくはない。
「トール!」
体の方もようやく自由が利き始めた頃、ネルの爆撃を直に受けたトールは苦悶の表情を浮かべて倒れこんでしまった。それでも動こうとはもがきはするが、積もったダメージがトールの体から力という力を根こそぎ奪い去っていっているために、立ち上がることさえ困難だ。
「終わりだ━━」
ネルの言葉に従って動く黒煙は、二人をドーム状に包み込む。一切の光を遮断する黒煙は、再びネルの言葉を受けたことでチリチリと火花を散らす。
せめてトールだけはと上から覆いかぶさって助けようとはするが、そんなものは焼け石に水。いや、それにすらならないかもしれない。
「━━『弾けろ』」
刹那━━地響きを伴う衝撃が周囲を駆け巡る。まともに立つことが出来ていたのはネルただ一人で、チャックや騎士たちは衝撃に圧されて軒並み転んでいた。
あまりの衝撃に地面は蜘蛛の巣上にひびが入り、焦げた匂いが鼻孔をくすぐる爆炎の匂いと、命という命を軒並み吹き飛ばした煙のその奥には、揺らめく紫の炎が微かに灯っていた。
「チッ・・・霊獣か」
憎たらし気に舌を打つネルの言葉に反応し、馬の泣き声が一つ木霊する。ビリビリと肌を打つその泣き声に黒煙が吹き飛ばされ、蜘蛛の巣状のひび割れの上に居るのはリウとトール、そして赤い毛並みと紫炎の鬣をなびかせる一匹の馬。
姿を確認するや否や動かした黒煙は、赤い馬が纏う紫の炎とぶつかり合い、周囲に先ほどと同等の衝撃をまき散らす。
「ヒヒィィィィィン!!」
到底生き物の泣き声とは言えないその声に、思わず片目をつぶるネルは僅かに油断してしまった。
その瞬間、全身に纏う炎を強烈に発火させて周囲の景色を飲み込むほどの極光を発現させると、トールは最後の力を振り絞ってリウと一緒に赤い馬へと跨った。
跨ったとは言うが二人とも殆どまともに動くことが出来ないので、言い表すとすればベランダの手すりに干された布団のような格好だ。
目を覆う光はだんだんと収縮していって、光が消えた頃には二人を乗せた赤い馬━━レイバは暗くなった夜の森の中へと走って消えていた。
「・・・まぁいい。皆殺しの予定は変わらん。ネル、お前はこのまま先遣部隊に追いついて蹂躙を開始ししろ」
「了解しました」
服の汚れを払いながら命令を下し、ネルもまた何も言い返すことなくその言葉に従い、動く。
国を潰せる戦力が、ついに重い腰を上げて動き出したのだ。




