シャンディーニ、野心再び
レナティリアは祖父のロイにたずねた。
「ダクシナ家のご嫡男とご次男は、おじい様がこちらに来られたときから読み書きができていましたか?」
「はて?」
パンをちぎっていた手を止めて、ロイは記憶をたどるように頭上をあおぐ。
「どうだったけか。うーむ。いいや、んなこといちいち覚えておらんぞな」
ロイはちぎったパンを乳白色のシチューに浸し、髭むくじゃらの口を大きく開けて放り込む。ぺちゃぺちゃと咀嚼する。飲み込むと、首をかしげる。
「うーむ。悪くないんだが、ちっと、しょっぱいぞな。そう思わんかい? お主も食ってみんかい」
レナティリアは軽い吐息をつきながら、スプーンを手にした。シチューを芋ごとすくい、口に運ぶ。
あしらうような冷ややかさで首を振った。
「まったく塩辛くありません。私の口にはこれが合います。もっとも、私の作ったものが気に入らないんであれば結構。どうぞ我慢せずに、近所の方々に食事を恵んでもらってください」
「い、いや、そういう意味で言ったんじゃないぞな。いやいや、不愉快にさせてしまったなら、詫びる。すまんかった。悪かった。冗談じゃ。愛嬌ぞな。な? うん、そうじゃそうじゃ、思い出す。これがアージサカ家の味じゃ。いやあ、懐かしいのう。ああ、うまいうまい」
ダクシナ家の厚意で、レナティリアは天主塔の空き部屋を借り受けることになった。
ただ、食事は毎朝毎晩、こうして祖父宅で作ってやらなければならない。聖旗軍時代から溜め込んでいた貯蓄の有り金をすべて祖父にくれてやってしまっても良いのだが、そもそもがまず、ロイは料理もろくにできないらしい。
「そんなことよりもです。クシータ坊っちゃまです。私は驚かされました」
レナティリアは、クシータの天賦の才についてロイに話した。
すると、ロイの目つきが、唐突に生真面目な鋭さに変貌した。
パンをシチューに浸したまま、手を止め、歳月に色あせた瞳の動きも止め、白髪の眉の間に若干の皺を集めて、レナティリアの手元の辺りをじっと見つめている。
「ご嫡男のサバーセ様というお方はザーベライのようですが、そういったふしはあったのですか」
「いや」
ロイはようやく手にしていたパンを食べた。
そうして、何か言葉を発するかと思いきや、また、パンをちぎった。
黙々と食事をすすめるばかりであった。神妙にして、やけに難しそうな顔つきで黙っているのだった。
「お具合でも悪くなられましたか」
「いや」
「それではなぜ黙っておられるのです」
「まあ、ちっと……、うむ……」
こうして、レナティリアの家庭教師の日々は始まった。
クシータは、文字や言葉、基礎的な算学は天賦の才で持っているものの、エンドラセトラの歴史、王朝機構、この社会のあらましなどには無知であった。
学問の時間は、そうした教えに費やした。
おとなしく従順なクシータだが、ときに不思議な質問を寄越してくる。
「先生。どうしてエンドラセトラには奴隷がいるのですか」
彼の言う奴隷とは、召使いのノッカラや、家政婦のラソイハラ、それに兄たちにあてがわれていた従者やメイドのことを言っていた。彼らはもとからダクシナ家に仕えていた人ではない。奴隷商人から購入されたのである。
レナティリアは訝しみながら言う。
「どうしても何も、奴隷の人々がいなければ暮らしは成り立ちませんでしょう」
クシータは首をかしげる。
「何か、不服でございますか」
「だって、奴隷の人たちがやっていることは、僕たちにもできることだし、わざわざ買わなくたって、ダクシナ郡の人たちを雇えばいいんじゃないんですか。それに、ノッカラもラソイハラも、ふるさとに帰れなくて可哀想です」
レナティリアは何も答えられない。なので、こう言うしかない。
「それが運命なのです」
奴隷の出自はさまざまである。犯罪者の子であったり、奴隷と奴隷が結びついて出来た人であったり、エンドラ人との戦いに敗れ、連れ去られてきた異境の民族たち。総じて、彼らの子孫であったり。
この奴隷たちのほとんどは商人によってさばかれる。エンドラセトラでもっとも財を成している者も、奴隷商人である。
「奴隷として生まれてしまった以上、いたし方ないのです。坊ちゃまもそうでございましょう。アヤガラ一族の末裔として生まれてしまったゆえ、私から厳しい教えを受けねばならないのです」
「で、でも、サバーセ兄さんも、ドサーラ兄さんも、アージサカ先生にはこんなに厳しく……」
「人は人、己は己。坊ちゃまには坊ちゃまの生き方というのがあるのです」
クシータは押し黙るも、唇を尖らせる。
クシータが反発を見せたそんな日の午後は、レナティリアの猛授業である。檄を飛ばしてクシータを痛めつける。全力疾走、腕立て伏せ、腹筋運動、スクワット、子供には不要と思える筋肉トレーニングをこれでもかと課す。
毎度のことクシータは泣きじゃくる。ただし、どこまで行っても体力の限界を示さない。クシータぐらいの子供ならまず間違いなくぶっ倒れてしまうであろうに、クシータはレナティリアが激を飛ばすままに嫌々泣きながらも延々と続ける。
なので、ある日から木剣を取らせた。
「今日からは実戦トレーニングです」
レナティリアも、八歳の子供に対して、木剣を構える。
「か、勝てませんっ!」
クシータは騒ぎ立てたが、つぶらな瞳を涙に湿らさたのも束の間、レナティリアの木剣がクシータの肩口に叩きこまれた。
わあっ、と、泣きあげながら、もんどり打って地べたを転がりまわるクシータ。
レナティリアは冷たく言い放つ。
「坊ちゃまが私に勝てないのは百も承知。だからトレーニングするのです」
「鬼っ! 悪魔っ!」
クシータもレナティリアに慣れてきて、そういう悪態をつくようになっている。
「私が鬼ならばこういうふうに坊ちゃまを殺しますよ!」
逆手に掴んだ剣の先をクシータの頭部めがけて落としこむ。すると、クシータは瞬間的にパッと跳ね跳び、逃亡した。
(やっぱり)
木剣を捨てて、クシータは天主塔の裏口へ、短い足をせかせかと全力疾走で逃げこんでいく。
瞳孔を広げたレナティリア、地を蹴り上げて飛んでいき、瞬く間にクシータの襟首を掴み取ると、そのまま庭へと放り投げる。
「私から逃げたくば、私に勝利してから逃げなさい」
「勝てないですっ!」
「勝てない勝てないと、やってみなければわかりませんでしょう。剣を取りなさい。それとも私を怒らせたいのですか」
レナティリアの銀髪桃色がざわざわと逆立ち始める。
「や、や、やりますっ!」
あわてふためいて剣を拾い、クシータはヘッピリ腰で木剣を構える。
微笑を浮かべながら剣先を落としたレナティリア。
「その前にまず、剣の使い方から学ばなくてはいけませんね」
(クシータ坊っちゃまを聖旗軍五大将にさせたい)
この辺境の地に足を踏み入れて、レナティリアにはわずかな目的が生まれた。
すべてに打ち破れた彼女のわずかな希望――、それは自分が成し遂げられなかった夢を誰かに託すということ。
史上最年少で聖旗軍五大将になること間違いなしともてはやされたレナティリアであったが、追放され、挙げ句の果てには命まで狙われている以上、かなわぬ夢である。
(果たして今の聖旗軍にそれだけの価値があるのかどうかわからないけれども)
しかし、クシータの将来を考えてやっても、理にはかなっている。貴族階級が取り払われた今、アヤガラ王朝が誕生してからこれまでの血統主義が崩壊していくのは確実であり、個人の力量のみが認められる時代となっていくであろう。
そんなエンドラセトラで立身出世を果たすためには、行政府か国令府の試験に合格し、中央行政のトップである宰相か、地方行政のトップである相国を目指すか。
もしくは、聖旗軍将校となって、軍事役職のトップである五大将を目指すかなのであった。
(そのためにはクシータ坊っちゃまにはもっと強くなってもらわなければ。もっと、心を)