冷たくも華麗なる鬼
昼食は広間に招かれ、クシータやバフータ、侍従長のチャンバリンとともにテーブルを囲んだ。
入り込む日差しの薄い広間は、歴代のダクシナ家当主の肖像画が壁に飾られているとともに、創立帝イスカ・ザルカダエルの彫像もあり、荘厳な気配をたずさえている。
純白のテーブルクロスが敷かれた長テーブルは凹の字に並べられており、上座に座るは口ひげのバフータであった。
「帝都育ちの可憐なるレナティリア先生に、こんな貧乏ったらしい食事しか出せないのは情けないかぎりですがな、それでもまあ、味は確かなものなんで」
「いえ。食事まで賄っていただけるなど、感謝のしきりでございます」
そうは言って恐縮したものの、差し出された食事は、豆と芋を煮込んだ、量だけは山盛りの皿一枚、あとは、祖父にも出された豆乳の土碗であった。
初日である。ダクシナ家は、新たな家庭教師に対して、精一杯の見栄もできないらしい。
レナティリアには、確かにきつい。
帝都ザルカダエルには、エンドラセトラの各地から旬の食材が溢れて入ってきていた。肉、魚、野菜、市場は活気に満ちており、貧富の差を問わず、老若男女まで、市民の舌は肥えていたものだった。
レナティリアは一礼したのち、スプーンで煮込みをすくう。口に入れてみると、やはり、甘い味付けで、うまくなかった。
「坊っちゃん。ちゃんと食べなきゃいけませんよ」
窓辺に座るクシータの後ろには、家政婦のラソイハラが控えている。クシータは嫌々そうにスプーンを取り、眉をしかめながら煮込みをすくい、ふてくされたような顔つきで咀嚼した。
どうやら、クシータの口にもダクシナ料理が合わないらしい。
バフータとチャンバリンだけは旺盛な食欲である。豆乳も豆芋の煮込みも実にうまそうにして食べている。
「ところで、レナティリア殿。クシータ坊っちゃんのお出来はいかがですかな」
チャンバリンはすでに完食していた。ナプキンで口許を拭いながら、たずねてきた。
「坊っちゃまは――」
レナティリアはスプーンを止め、言葉を選んだ。
(本人を目の前にしてあまり言いたくはないけれども)
「非常にお出来の良いご子息でございます」
「ほほう」
と、目を輝かせたのはバフータである。
「良かったではないか、クシータ。この先生は多分、アージサカ先生と違って、自分にも人にも厳しいお方で、思ったことは正直に言わないタチだ。その先生に褒められたんじゃあ、大したもんだ」
(ずいぶんとずけずけ言ってくれる人ね)
しかし、当のクシータは、しかめた顔で口を動かしているだけ。食事に悪戦苦闘のあまり聞いちゃいない。
「まあ、この三男坊は死んだ母親にどことなく似ておりましてな。次男のドサーラはわしに似てあまり出来が良くない。長男のサバーセは、顔はわしに似ているけど……。うむ、この話は終わり。噂をすれば影というやつで、話をしているとひょっこり現れそうだ。そうなってはたまらん」
そもそも、と、言って、バフータは一度終わらせようとした話を一人でぶつぶつと呟く。
「こんなべっぴんがうちに来たとなると、あやつはそれこそ火の玉のようにナウビム城にすっ飛んでくるに違いない。そうなってはいかがすべきか。あの火の玉小僧ったら、女となれば見境なくなるしな」
「ご心配に及ばず」
レナティリアが毅然として声を放つと、バフータとチャンバリンは揃って視線を向けてきた。
「私は聖旗軍で連隊長を務めていたザーベライです。私には歯が立たないでしょう」
「うむ……」
バフータはチャンバリンと目を合わせる。
「それもそうだな。さすがの火の玉小僧も、聖旗軍の将校殿にはかなわんだろう。むしろ、
こてんぱんにやっつけてもらいたものだ」
レナティリアは、高潔に研ぎ澄んだ元将校然として土碗の豆乳をゆっくりと口につけていった。
粘っこくて、苦々と甘い、まずさだった。
この世界は謎ばかりである。
ダクシナ郡の地名さえ知らなかったほどにエンドラセトラは広大であり、なおかつエンドラセトラもまた、この世界の一つの地域に過ぎないようなのだ。
レナティリアの想像につかない出来事が起きたとしても、驚きはあれ、不思議はない。
(読み書きを生まれつき備えている人間なんてどれほどいるのかしら)
少なくとも、レナティリアはクシータ以外に見かけたことはない。
(だけど、そもそも)
先天性の能力を持つ者は確かにいる。
例えば、ザーベライ。
「わかりやすく言えば、ザーベライとは、自分が持っている力を限界まで引き出すことができる人のことです」
昼食後、部屋に戻ったレナティリアは、ペンを持って一生懸命に眼差しを向けてくるクシータに説明してやる。
「私もザーベライですし、おそらく、坊っちゃまのお兄様のサバーセ様もザーベライでしょう」
「サ、サバーセ兄さんは、めちゃんこ強いですっ」
「そうでしょうね。おそらくサバーセ様は生まれつきのザーベライなのです。創立帝の血を受け継ぐ方々の中には、ときたま、そうした天才が現れます」
「じゃ、じゃあ、先生もですかっ? 僕の親戚なんですか?」
「いいえ。私には創立帝の血は一滴も入っておりません。それに、私は生まれつきのザーベライではなく、鍛錬によってザーベライとなれたのです」
人間のあらゆる能力は、制御されている。無意識のうちの自制と言っていい。
その自制を開放することによって、ザーベライと呼ばれるような超人的能力を発揮できる。
ザーベライへの開放は、地獄のような自己研鑽を必要とする。まれに単純なきっかけだけで達成する天才がいるが、レナティリアは前者であった。
剣士一族に生まれた者として、幼少児から烈しい鍛錬を強いられてきた。物心つかないうちから短剣を握りしめており、三歳年上の兄とともに血反吐を垂らさんばかりに父親にしごかれたのだ。
「坊っちゃまは私の教え子として、アージサカ流の鍛錬に励んでもらいましょう」
「サバーセ兄さんもあーじさかりゅーですか?」
「ええ。私のおじい様、ロイ・アージサカに手ほどきを受けたならば、そうでございましょう」
エンドラセトラには数えきれないほどの剣術流派がある。
しかし、衆目に胸を張って「自分は剣士だ」と宣言できるには、正当な流派から皆伝免許の印を得ていなければならない。
「これです」
と、レナティリアは自らの左手をクシータに見せた。薬指に山形線三本リングの入れ墨が入っている。
「あっ! アージサカ先生と一緒だ!」
皆伝の印である。山形線三本はアージサカ流だ。
「流派が正当であるかそうでないかは、そのときどきの皇帝陛下からお認めを頂けたかそうでないかです。皇帝陛下からお認めを頂いた剣術流派は十六派しかありません」
中でもアージサカ流は創立帝イスカ・ザルカダエルから公認された、歴史ある古い系統である。
最盛期には、アージサカ流は皆伝者三十名、門弟百五十名を抱えたそうだが、レナティリアのときには、皆伝者二名、門弟は彼女を含めてたったの三人だった。
ろくでなしの放蕩剣士、ロイのおかげであるが、それはクシータには言わなかった。
「アージサカ流は、まず、剣のイロハの前に、自分の肉体を極限まで追い込みます」
そう言って、レナティリアは腰を上げた。付いてくるようクシータに伝え、天主塔の庭先に出る。
「さきほども申しましたように、。無用な争いを避けるには、芯のある強さと、健全な賢さです。坊っちゃまには、健全な賢さを学問で、芯の強さを武芸で得てもらいましょう。ということで、今からこの庭を走って百回往復しなさい」
「ひゃっかい、ですか」
「一回の次は二回、二回の次は三回、それを百回続ければ終わりです」
庭の端から端まで、クシータを50メートルほど走らせた。
レナティリアは腕組みをしてクシータの様子を見つめる。小さい体をせかせかと動かして走るクシータは、一回目の往復を終えた時点で速度を衰えさせた。二回目の往復ではコテッと倒れた。
「もう限界なのですか、坊っちゃま」
「ひゃ、ひゃっかいもできません」
「なぜです」
「できません……」
「できるかできないかの結論を求めているのではありません。なぜ、できないのか、その理由をたずねているのです」
倒れたままのクシータはひっくひっくと嗚咽を始めた。
泣こうが喚こうが、レナティリアは突き刺す目線をクシータに据え置くだけである。可哀想だの、情けだの、そんな感情はまったく湧かない。シャンディーニと呼ばれたゆえんである。
「泣いていては何も始まりませんでしょうに。あなたはなぜ百回走れないと言い切るのです」
「ううっ。無理です!」
「無理かどうかは坊っちゃまが決めるのではありません! 私が決めるのです! さあっ、立ちなさい!」
クシータは泣きながら手をつく。涙をぬぐわないまま腰を上げる。
「泣けば済むと思うような人は、私は大嫌いです。泣けるぐらいの力があるなら走りなさい」
クシータはひっくひっくと泣きじゃくりながら走り出す。やがて、また倒れる。今度はなかなか起き上がってこないので、レナティリアは歩み寄り、襟首を掴み上げる。
「言ったでしょうに」
ギラギラと広げたままの瞳孔を、レナティリアはクシータに近寄せた。
「泣けば住むと思う輩は大嫌いだとな」
切れ上がった瞼、牙が剥き出てきそうに吊り上がった口角、この世のものとは思えぬ悪魔顔、ましてや聖旗軍時代に部下たちを鍛え抜いてきた唸り声の上官口調まで飛び出し、クシータの目は唖然と丸くなる。
レナティリアはクシータを襟首からぶん投げ捨てた。
して、咆えた。
「走れっ!」
クシータは、蒼白した顔をレナティリアに向けてきて唖然呆然としたが、「わあんっ!」と断末魔の叫びを上げると、無我夢中といった様子で走り出した。
嫁にするならシャンディーニ。
部下にするならシャンディーニ。
しかし上官だけにはしたくない。
まったくもって小唄のとおりであった。レナティリア・『シャンディーニ』・アージサカのシゴキに涙を流さなかった者はいないのではないか。
このレナティリアの恐ろしさというのは、誰彼問わずにシゴキの対象にできるということで、例え八歳の子供であろうと、容赦しないのであった。
ましてや、レナティリアは家庭教師の分際である。何も、クシータを屈強な剣士に育ててくれるようにとは依頼されていない。にも関わらず、度の過ぎたシゴキを始めようとしている。
そういう女である。
だが、頭の中は冷静であった。
(倒れたのは最初だけで、あとは嫌々ながらも走っている)
クシータは前のめりに突っかかりながらも、泣きじゃくりながらも、足だけは前に前にと踏み出していた。
(泣いているくせに息は上がっていないし。ただ単に走るのを嫌がっているというだけで)
ふと、ある一つの推理が頭をよぎった。
(お坊っちゃんはすでにザーベライなのでは)
城内のどこからか、十五時の鐘が撞かれて、レナティリアは武芸の鍛錬を切り上げた。
レナティリアが終了の声をかけると、クシータは突っ伏し倒れ、走っている最中は泣き止んでいたのに、また、えぐえぐと嗚咽を漏らし始めた。
何回往復したか、レナティリアはたずねる。
「わ、わかりません」
レナティリアは叱りつけた。
「どうして数えていないのです。すべて私に任せきりですか。自分の管理もできないなど言語道断です」
「だってえ……」
「言い訳無用。次に、だってえ、とか言うのであれば、百回を二百回、毎日走ってもらいます」
嗚咽をさらに大きくしたクシータを置き捨て、踵を返す。
(あれだけ走り回ったのに、息も切らずにちゃんと話せるなんて)
しかし、レナティリアはいっそう驚くことになる。
十五時の鐘を聞いてやってきたらしき子供――、おそらくクシータの友人らしき女の子が庭に駆け入ってきて、
「坊っちゃん! 何やってんの! 行こ!」
と、遊びに誘ってきた。
「うーん」
と、クシータの声が急に生き返ったので振り返ると、クシータはひょいと起き上がり、自分の半ズボンについていた土汚れを手で払った。
「あんまり行きたくないなあ……」
「行こうよ! 毎日遊ぶって約束したでしょっ!」
クシータは女の子に手を取られて、嫌々ながらも走り出し、そのままレナティリアの横を駆け抜けていった。
「あのお姉さんだあれ?」
「レナティリア先生だよ」
などなど、女の子と話しながらクシータは天主塔の陰へと消えていったのだが、レナティリアは驚愕するままに突っ立っている。
(あそこまでけろっとしているなんて。やっぱり、お坊っちゃんは天性のザーベライ。とっくに体力の限界を越えている)
ただし、精神は軟弱のようである。