継母、おかんむり
パミアが気絶してしまったので、居館から衛兵たちがやって来るという騒ぎになってしまった。
当然、ファミアに知れる。
「クシータが泥蛇を育てているですって!」
侍女頭のシヌターチャはもう青ざめた顔でうなずき、身も震わせながら、その目にした光景をファミアに伝える。
「なんて、おぞましいこと……」
「昔、バーママチチャリは普通の蛇だったのですが、悪さをして風神様の逆鱗に触れたのでございます。水神様の取り成しにより、バーママチチャリは水辺に住むことを許されたのですが、そんなバーママチチャリを沼で育てているなど、風神様や水神様のお怒りを買うことになり、今年の雨季は間違いなく大嵐がカンパーニを襲うに違いありません」
「まったく! あの田舎者は何も知らないで!」
とは発狂するものの、当のファミアも泥蛇のバーママチチャリなど知らなかった。
「イファサ殿に申し立ててやりますわっ! 今すぐやめさせなさいと! 泥蛇をすべて始末しなさいと!」
カンパーニの町に伝わっている迷信など、パヌカ城からやって来たファミアはたいして信じてもいないが、忌々しいクシータのイタズラとなると、全力で阻止すべく、イファサの居室に殴りこんだ。
「あなたっ! 今すぐにクシータの悪行をやめさせなさいませっ!」
「い、いやあ……」
と、イファサは頭をぽりぽりと掻いて、シヌターチャが言うほどに迷信を恐れていない。むしろ、すでにひそかに「ウナギ」を食していた。
パミア卒倒の騒ぎが起こる前からである。
というのも、クシータが「ウナギ」を放流していた沼は、イファサが貸し与えたものであった。養殖をしたいと言って、クシータがイファサに許しを願ってきたのだった。
「バーママチチャリを? クシータ、それはいかんよ」
と、最初は渋ったものの、可愛いクシータにひたすら懇願されるので、「とりあえずは」と、マイラ・クチャイラとパッテナのメシ屋を訪ね、「ウナギ」を馳走された。
すっかり気に入ってしまった。
それにイファサはアンサンクラー郡の郡令として計算高いところもあった。アンサンクラー家は、水運サングと漁サングを支配しているものの、他の産業に限ってはアバラータ県のサングである。
飲食業などはおろか、煉瓦職人、カンパーニの一大産業である鉄産業すら、その収益の大部分がアバラータ県のサング組合、つまりはアバラータ本家に牛耳られている。
水運業が隆盛のため、なんの取り柄もなかったダクシナ家よりは上等であるが、それでも独自の産業を勃興させ、アンサンクラー家に直接的な収益をもたらしたいとは、ダクシナ家のバフータと同じように常日頃から思考している。
(こんな旨いものなら、ゆくゆくは噂を聞きつけた人々がエンドラセトラ全土からはるばるカンパーニにまでウナギを食べに来るかもしれん)
ゆえ、イファサは漁サングの組合長に話をつけて、ウナギに限らない養殖に取り組んでみるよう提案し、それがうまく行けばアディカセラを執行するつもりでいた。
また、カバヤキにするともっとうまいとクシータが言うので、マイラ・クチャイラがカバヤキのタレを製造するための研究材料、エンドラセトラ中から集めてきた珍しい穀物をパッテナのメシ屋に送り届けさせていた。
なので、
「いやあ……」
だった。
「いやあ……、じゃありませんっ! 物知りおばあさんのシヌターチャが言うには、泥蛇は風神様に嫌われて川に叩き出されたそうではありませんかっ! それを育てているだなんて、水神様のお怒りも買うことになり、今年の雨季は大嵐に間違いないとおっしゃってましたよっ!」
「いやいや、それなら、私は今回の祭礼で水神様にお願いしたし、先日はファワラの山にも行って風神様にもお願いしてきたところだ。それで、お願いした次の日やその次の日も嵐は来なかった。だから、水神様も風神様もきっとお許しくださったのだ」
「パミアが倒れてしまったそうではありませんかっ! これは水神様と風神様がお怒りだからですわっ!」
「いやいや、あれはただ単にびっくりしただけで――」
「あなたっ!」
ファミアはドレスの裾を持ち上げながら、カツカツとヒールの踵を叩き鳴らしてイファサに迫り寄ってき、目玉を剥いて小じわを浮かび上がらせた。
「あなたはクシータとパミアのどちらが大切なのですっ! クシータが泥蛇を集めていたせいでパミアが倒れてしまったことには変わりないではありませんかっ! それでもあなたはクシータの泥蛇集めを続けさせるというのですかっ!」
「いや、その、泥蛇はな、あれはウナギと言って――」
「もうよろしいですっ! はっきりしない人などこりごりですっ! パヌカ城の母上とアハラに言いつけてやりますわっ! 神に逆らうクシータなんてダクシナに叩き返してくれるよう本家の者にお頼みいたしますっ!」
ファミアは颯爽としてドレスの裾をひるがえし、イファサはあわてて呼び止める。それはならない、と。
「ならばどうするとおっしゃるのです」
「いやあ……」
「本家に言いつけてやりますっ!」
「わかったっ! ここは、その、あの、泥蛇を集めてはならぬというアディカセラを――」
「それだけでございますか」
「えっ?」
「クシータは神を冒涜したのです。それなのに、泥蛇を集めてはならぬというアディカセラだけで、どうしてクシータが反省してくれましょう。それ相応の罰を与えなければ、アンサンクラー家の跡継ぎとしていかがなものではございませんかっ!」
「そんな、罰と言っても……」
「クシータにはこの屋敷から出ていってもらいます。泥蛇くさいクシータがこの屋敷に住んでいるなど、私には耐えられません! そして、今度の雨季に大嵐でも来ようものならクシータはダクシナに帰ってもらいます!」
「それはいくらなんでも」
「そのような事態になりましたと母上とアハラには手紙を送らせていただきますわ」
ファミアはヒールの踵を叩き鳴らしながら部屋を出ていき、イファサが追いかけようとしたら、ドアをバタンと閉められた。
(これは参った……)
ファミアのクシータ嫌いもさることながら、イファサもイファサで養殖の許しを与えたことを言えないのだから、己の情けなさを恥じ入るばかりである。
尻に敷かれっぱなしのイファサがアディカセラを発令してしまったことにより、クシータの夢は潰えた。そればかりか、可愛さ余って憎さ百倍のファミアが命じたことにより、クシータやマイラ・クチャイラがバーママチチャリを放流させていた養殖沼には、大勢の奴隷たちが土を運んでやって来て、バーママチチャリごと沼を埋め立ててしまった。
一夜にして綺麗さっぱりの更地となってしまった光景に、クシータはその場に膝をついてわんわんと泣いた。デナもわんわんと泣いた。ラジャが慰めても、クシータは一日中泣きわめいていた。
憔悴しきったクシータの姿に心苦しくなったイファサであったが、やることと言えば、毎日、風神や水神の祠を訪ね、大嵐を呼び寄せてくれないよう祈るぐらいである。
さらにクシータは住まいを居館から追い出される。カンパーニの町外れ、水運サングの組合長に預けられ、大きなレンガ造りの家の一室を分け与えられた。
ただ、高名なクシータが住まうとあって、水運サングの組合長、ダーヒー・リティルビットは肥えた頬を揺らし、鼻下のチョビ髭を快活に揺らしながら、クシータを抱き上げたり、頬ずりしたり、
「いやあ、クシータ坊っちゃん、ここを第二の我が家だと思ってくだされ。あんなアバラータのヒステリーな連中がいる屋敷なんかより、ここのほうがよっぽど住み心地はいいですぞ」
と、子供がいないのもあって、クシータにぞっこんであった。
2年前にルハ・オーラ・パヌカで大立ち回りをしたレナティリアも、今回は騒動を静観している。むしろ、隠れてこそこそと養殖に取り組んでいたクシータとラジャに説教した。
「何度言ってもわからないようなら、イファサ様にお願い申し上げて坊っちゃまを帝都に連れていったって構わないのですよ」
気の毒だと思いつつも、レナティリアにしてみれば、このままクシータがアンサンクラー家から追い出されたほうがいい。
気晴らしにとチョビ髭のダーヒー・リティルビットが船着場にクシータたちを連れてき、舟に乗せてやったときも、レナティリアはくっついてきて、口うるさく言う。
「坊っちゃま。この川がどこまで続くか見てみたいと思いませんか。坊っちゃまはこの町で魚遊びをしているような人ではありません。この川はやがて大海へと注ぎ込まれ、実り豊かな西部にも、栄えある帝都にも続くのです」
川風に桃色銀髪をなびかせるレナティリアをちらと見上げるも、クシータはどんよりと肩を落とす。クシータにはレナティリアの果てしない眺望などよりも、潰れてしまった養殖沼や居館を叩き出されてしまった寂しさもさることながら、マイラ・クチャイラのオジさんに合わせる顔がないという思いでいっぱいであった。
奥さんに叱られているような情けないマイラ・クチャイラが、「ウナギ」を知ったなり、人が変わったかのように熱心なオジさんになったのをクシータは目の当たりにしている。
カバヤキのタレの研究こそ、クシータが教えてやった知識の範疇であったが、養殖用の餌を考案したのはマイラ・クチャイラである。ろくでなしと罵倒していた奥さんのパッテナも、マイラ・クチャイラに呆れつつ、「お坊っちゃん様のおかげで」ちょっとは亭主もまともになったかもしれないと、クシータに笑いかけてきたものだった。
(僕のせいで――)
詫びだけは入れておこうと思ったクシータは、ラジャやデナがいるときちんと謝れなさそうだからと考え、1人、パッテナのメシ屋を訪ねる。「ごめんください」と言うと、営業前の飯場にパッテナが現れてきたが、クシータはパッテナの顔を見たなり、ぐずぐずと泣き始めた。
「オバさん。ごめんなさい」
「どうしてですか」
パッテナはクシータの目線に膝をかがめてき、彼の金髪を撫でながら顔を覗きこんでくる。
「男の子が泣いちゃいけませんよ」
「僕の、僕のせいで、オジさんのウナギが死んじゃって、オジさんの邪魔をしちゃって……」
「お坊っちゃん様のせいなものですか」
パッテナはクシータの手を引いてかまど場を覗かせた。
「それに、ほら――」
と、パッテナに顔を上げるよう促されると、かまど場の隅では鍋いっぱいの大豆を丹念に潰していっているマイラ・クチャイラの姿があった。
「1日中、あんなことばかり。オジさんは魚獲りにも出かけないで何をやっているんでしょうね」
「なんだい」
と、マイラ・クチャイラが顔を寄越してきた。「オジさん――」とクシータがつぶやくと、マイラ・クチャイラはしばらくは無精髭の顔をぼけっとさせていたが、やがて、ずいぶんと逞しげに鼻で笑う。
クシータをよそにまた再び大豆を潰す作業にとりかかる。
「なんだい、お坊っちゃん様。そんなファリャム豆がふやけたような顔をしちゃって」
「でも、オジさん、もう、ウナギは」
「お坊っちゃん様。この前よ、米麹ってもんをなんとか作れるようになったからよ、あとは米麹とこいつが混ざったのがうまいこと腐ってくれればいいんだろ? 腐ったもんから染み出してきたのが醤油ってわけだな?」
「でも――」
「でも、でも、って、お坊っちゃん様はでもが好きだね。でもな、バーママチチャリを取って食っちゃいけねえなんていうアディカセラはねえわけだ。だったらいいじゃねえかい。カバヤキのタレでウナギを食ったって」
マイラ・クチャイラのオジさんは前歯の1本がない歯を見せてきて、クシータに笑って見せてきた。
「こちとら、お坊っちゃん様のおかげでやる気になったんだ。お坊っちゃん様にカバヤキを食べさせてやれねえなんざ、このモリの一突きマイラ・クチャイラ、男がすたるってもんよ」
子供のクシータはマイラ・クチャイラの心変わりがさほど理解できていない。ただ、大豆を潰していくオジさんがやけに格好良くは見えた。
「僕も手伝う」
と、マイラ・クチャイラに駆け寄っていき、スプーンを手にすると、オジさんに豆を潰すコツを教えてもらった。