衰える神の力
この宇宙は、いくつもの世界が無限に折り重なる多重世界。
そのうちの一つ、8番世界にはあまたの神々が住まう。
日がな静寂を守る森緑に包まれて、その日も、この小さな湖は空の青を写す鏡となっている。
湖面にたゆたう白い雲と、時折吹く緩やかな風だけが時の調べ、商人の神ズールは湖のほとりにウッドハウスを建てて暮らしている。
久方ぶりの来客者のために、ベランダに木製のテーブルや椅子、茶道具や菓子を並べていると、ズールの黒いジャケットの肩に小鳥が止まった。
「なんだい。菓子をねだりに来たのかい」
ズールの問いに答えるようにして、小鳥はぴいちくぱあちくと鳴く。
しかし、森の中から、ガチャ、ガチャ、と、甲冑のこすれ合う音が聞こえてくると、小鳥は飛び立っていってしまった。
ベランダの柵の向こうに、全身を銀色の鎧に覆い、腰には剣を下げた者が現れる。
ズールは頭を下げた。
「お久しぶりでございます、イスカ様。わざわざお出でいただきかたじけのうございます。さあさあ、狭苦しい家ですがお上がりください」
「おお。かたじけない」
兜にモヒカン形状の飾りを付けて、顔には鉄仮面、ベランダに招かれた統一神イスカは、外した剣を柵に立てかけて、椅子にゆっくりと腰掛けた。
兜と鉄仮面を脱げば、イスカは、パーマがかったような縮れたブロンド色の長髪を掻きむしる。
「いくら、姿形を決められてしまっているとはいえ、毎日毎日を甲冑で生活しているのは疲れる」
「お察しします」
と、言った、ズールの衣装といえば、足首まで隠す朱子織りの幅広の黒いスカート、上衣は黒いジャケットという、イスカの重装備などお察しできるはずもない姿だ。
この商神ズールと統一神イスカ、旧知の仲ではあるが、旧友と言ったら語弊がある。
彼ら二人は神となる前――、同じ人間界に生きた同じ人間であった。
二人とも5番世界の「エンドラセトラ」という地域で生涯を送った「エンドラ人」である。
このエンドラセトラ地域を初めて統一し、初めての皇帝となったのがイスカ。
ズールはイスカが建国した王朝の一番最初の宰相なのであった。
神となった今では二人の立場は対等なのだが、人間だったときの主従関係をそのまま引っ張ってきている。
「こんな甲冑姿になってしまったのも――」
イスカはブロンドの長髪をテーブルの上に垂らしながらぼやいていた。ズールが薪コンロでポットの中の茶を沸かしている間も、グチグチと止まらない。
「エンドラ人が立てたわしの銅像が甲冑姿だったためだ。甲冑を着込んでいたのはいくさのときだけだったというのに……。即位してから一度も着なかったというのに……」
「それだけエンドラセトラの民には、連戦連勝だったイスカ様の戦いが記憶に残ったのでしょう」
ズールは、イスカの前にティーカップを差し出し、水差し式のポットから茶を注いでいく。
温かく香り立つ湯気の向こうで、イスカが恨みつらみのこもった鳶色の目をズールに向けてくる。
「お主はいいな。軽そうで」
「大した功績がなかったということです。さあさあ、どうぞ、これはジャスミンティーという代物で、先日、82番世界を覗いていたら、その世界の人間どもが嗜んでいたのです」
「ほほう」
さきほどまで文句ばかりだったくせに、茶の匂いにつられて、イスカはティーカップを鼻の先に近寄せた。
「ふむ。なかなかよい香りだ。82番世界の人間どもは、エンドラ人に負けず劣らず、趣向が多種多様だからな」
「ささ、煙草も」
ズールはイスカの手元に煙草の詰まった箱を差し出し、イスカが煙草をくわえると、マッチの火を添える。
イスカはしみじみと煙を吐いた。
「クッキーも焼いたので、召し上がってくだされ」
「かたじけない。ズールのところにはいろいろな嗜好品が揃っているゆえ、誘われるとつい甘えてしまう」
「戦われるイスカ様とは違い、私などは呼ばれることがほとんどありませんから。こうして趣味でコレクションしているぐらいしかやることがありません」
ズールも煙草を一本手に取り、テーブルを挟んでイスカの向かいに腰掛ける。
「そういえば、この前、新米の神だという者がこの家を訪ねてきたのですが――」
「あの、66番世界の者だとかいう女神だろう」
「おっと、ご存知で。イスカ様のお宅にも参られましたか」
「うむ。エンドラセトラのような人間世界からやって来た女神と言えばババアばかりだが、66番世界を支配しているのはエルフだからな。ありゃ、ベッピンだった」
ズールは煙を吹きながら、クスクスと笑う。
イスカも煙草の煙をくゆらせながらクスクスと笑い、ひとしきり笑ったあとは、渇いた喉をお茶で潤した。
目的もなく存在している神ゆえに、くだらない話でもこの上なく愉快である。ズールのように他の世界を覗き見している神は珍しいほうで、何年も神をやっていると、彼らは自分たちがなぜ神として存在しているのかも忘れてしまうほどである。
ただし、一部の神は、平穏な日常を突如としてぶち壊されるときがある。
ズールとイスカが揃ってティーカップをテーブルの上に戻したとき、ちょうど、ぶち壊された。
湖畔の穏やかな空気が、突然、ビシ……、ビシ……、と、軋みを上げ始め、「あっ」とズールは顔を上げ、イスカは眉をしかめた。
やがて、テーブルの上から屋根までの空間に小さな穴が空き、その穴は徐々に徐々に広がっていって、イスカやズールの頭をすっぽり飲み込めるほどの真っ暗な穴となった。
別世界と別世界を繋ぐための、いわゆるトンネルである。「タルミナルホール」と呼ばれている。
タルミナルホールには空間の境界をこじ開けた歪みから、閃光がバチバチと走っている。
「ついこの間も召喚されたばっかりじゃないか……、まったく……」
がっかりとため息をついたイスカは、テーブルの上に置いていた兜を手に取って被り、鉄仮面を下ろした。愚痴ばかりなのはこのせいらしい。
タルミナルホールから幼い女子の声が届いてくる。
――いでよ! とういちゅちんイスカ!――
「すまんなあ、ズール。行ってくる」
「お察しします」
タルミナルホールから激しい引力が発生し、たちまちイスカはホールの中へと飲み込まれていった。
「ふう」
一人残されたズールは、吐息をついたあとに煙草を呑み、灰皿で消した。
イスカが飲み込まれてもなお、タルミナルホールは開いたままでいて、バチバチと閃光を走らせている。
「神だというのに、こき使われるとはなあ」
ズールはイスカが戻ってきたときのために薪コンロの上にポットを置いて、茶を温め直す。
イスカを召喚したものは人間であり、俗に「導士」と呼ばれている。
彼らはこの多重世界のうちで、タルミナルホールを作成できる存在である。そして、あらゆる世界を行き交い、宇宙の中の別存在をいつでも手元に召喚できる。
ただし、なんでもかんでも召喚できるわけではない。
イスカを召喚したリリロッドという導士は、ズールを召喚することはできない。イスカを召喚する術書を持っているが、ズールを召喚する術書は持っていないためである。
「私も良からぬ輩に目を付けられてしまったら、イスカ様のようにこき使われてしまうのかな」
ズールが不安をひとり言にしたとき、タルミナルホールから風が吹き出てき、
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と、イスカが飛び出てきた。イスカはそのままの勢いでベランダにガチャッと叩きつけられる。
タルミナルホールは、ビシ……、ビシ……、と狭まっていき、やがて閉じた。
「ああ、イスカ様、ご苦労様でございます。さあさあ、お茶を沸かし直しておりましたので」
ズールがそう言いながらティーカップに再度注いでいくものの、イスカは床に倒れたまま起き上がってこない。
ズールは飛び跳ねてイスカに駆け寄った。
「ど、どうされましたかっ、イスカ様っ」
すると、イスカは右手の鉄手袋を掲げてくる。
「い、いや、別になんともないんだが……、なんともなかったわけでもなく……」
イスカはようやく床に手を突いて起き上がった。
しかし、立ち上がろうとはせず、そのまま床の上であぐらを組んで、モヒカン兜をがくっと垂らしてた。
「ど、どうされましたっ?」
「うーむ。参った。いつものようにあのじゃじゃ馬に召喚されたんだが」
イスカは事のあらましを覇気なく語る。
召喚された先は、おそらく521番世界。ここを支配しているのはドラゴンであり、タルミナルホールを出ると、目の前には城塞のように巨大なドラゴンがいた。
ドラゴンは峻険な山の頂上付近で羽ばたいており、空は分厚い雲が立ち込め、稲光が無数に走る不穏な気配であった。
――さあ! ドラゴンを倒ちゅのでちゅ! はなて、フルクルイ・ルックス!――
導士リリロッドに神技フルクルイ・ルックスを指示されたイスカは、その場で剣を振り上げ、振り下ろす。振り下ろすと同時に剣刃から放たれた光の波動は、ドラゴンの額へと直撃した。
「フルクルイ・ルックスは、レベル3500の神技だ。ドラゴンの頭など真っ二つに斬り裂くはずなのだ。なのに、斬れんかった。バチューンと光が弾けてしまった」
攻撃を額に受けてドラゴンはのたうち回ったらしいが、一発で仕留められなかったのは、最悪の結果であった。召喚された存在は、導士から指示を一度受けたあとは、問答無用でタルミナルホールに吸い込まれてしまうのである。
さらに、一度、タルミナルホールを往復した召喚物は、次に往復できるまで24時間待たなければならない。
「じゃじゃ馬娘は、わしが吸い込まれる時、わしを罵倒してきた」
――何をやってるんでちゅかっ? おバカ!――
「ま、まことでございますか……」
ズールは絶句しながら椅子に腰掛ける。
「つまり……、イスカ様は考えていたとおりの力が出なかったと」
「左様……。一体、これはどういうことであるのか……。こともあろうに、一介の神である私が、あんな六歳の女の子に罵倒されるというこんな情けないことになろうとは、一体」
ズールは眉間に皺を寄せてテーブルの一点を見つめる。
「実は、イスカ様、心当たりがなくもなく」
と、ズールは顔を上げた。
「三百年前にイスカ・ザルカダエル・アヤガラ様がエンドラセトラに建国されたアヤガラ王朝は、つい先日に滅びてしまったのです」
「なにいっ!」
イスカはにわかに立ち上がった。モヒカン兜に鉄仮面のまま、ガチャガチャとテーブルに駆け寄ってき、ガチャッと、鉄手袋の両手をテーブルの上に叩き置いた。
「まことかっ! なぜだっ! なにゆえアヤガラ王朝はっ!」
「イスカ・ザルカダエル様のご子孫にして八代目皇帝スサハーナ様は、平民出身の宰相、バラ・ヴァンガという者に帝位を譲ってしまったのです」
「ば、馬鹿な……」
ガチャンッ、と、統一神イスカは椅子に腰を落としてしまい、ズールは視線を自らの手元に落としてしまう。
なぜ、イスカ・ザルカダエルは、統一神イスカと成り得たか。
なぜ、ズール・ガンビラは、商神ズールと成り得たか。
それは、5番世界のエンドラセトラ地域の人々が、二人の功績を讃え、イスカ・ザルカダエル・アヤガラをエンドラセトラを統一した者として神格化し、ズール・ガンビラを商業を発展させた者として神格化させたからであり、それによって二人は自然的にこの世界にやって来、実体する神となった。
エンドラセトラの人々は、彼らが実体する神となったことなど知らない。しかし、人々は代々、彼らを崇拝してきたのである。
祈る人々の数が多ければ多いほど、その祈りの力が強ければ強いほど、神はその力を強大にする。
反対に少なくなれば少なくなるほど神は弱体化していき、一人もいなくなってしまえば消滅してしまう。
「なんてことだ……。新たな者が皇帝になったことで、エンドラセトラの者どもの中から私を敬う心が薄れていっているというのか……」
「残酷ではございますが、時代というものが移り変わるのは必然かもしれず、古い記憶は、やがて新しい記憶へと塗り替えられていってしまうのかもしれません」
イスカはズールの言葉に何も反応せず、ただただがくりとモヒカン兜を垂らしていた。
沈黙が続いた。
と、そのとき、誰も居ないはずの宅内から、バチンッ、と、ウッドハウスのドアが叩き開けられ、ズールとイスカはびくっと肩を震わせて腰を浮かす。
ドアを開けたのは、彼らの膝丈ぐらいしかない、神導士リリロッドであった。
「なんなんでちゅか、あのざまは」
ふわふわと丸まった緑髪の頭を震わせて、緑色の瞳をギラギラと光らせながら、花の蕾のように小さく赤い唇を尖らせて、緑一色のローブに包んだ小さい体をプリプリとさせながら、イスカの背後までやって来て、手にしていた杖でイスカの鎧の背中をガツンと叩いた。