神技の剣、信義の目
炎は広大な穀倉地帯に燃え広がった。
突如の業炎は、明日からの崩壊を予兆させるに、残酷かつ無慈悲である。
反乱軍ダクシナ党参謀副官のユキカーラは唇を噛みしめた。
「無茶苦茶だ……。あんなことをするから帝国は民心を失う。聖旗軍はそれを理解していないのか……」
しかし、言葉に滲み出ていたのは怒りではなかったかもしれない。計略にかかったのは自分たちである。
炎は一面の夜空へ、めらめらと舌を吐き出すようにして燃え立つ。
それらの宿業を背負ったかのようにして、地平は聖旗軍の大軍の鎧甲冑が埋め尽くす。
なかば絶望してしまっているユキカーラを、妹のディリカーラが気丈な睫毛でたしなめる。
「兄上。悠長なことを言っている場合じゃない」
そのまま、彼女はダクシナ党首領のサバーセに向けて叫んだ。
「将軍! ここは私たちが食い止めます! 将軍たちは先にスルーの丘へ!」
「わかった。おい。クシータ。お前も残れ」
と、サバーセは切れ長の双眸を10歳年下の実弟に据える。
クシータは静かなるままにうなずいた。
サバーセが、白マントをひるがえしてクシータに背を向ける。護衛のジャンガルフたちを引き連れて、闇のかなたに消えていく。
クシータが残るとあらば、当然、クシータ一派とも言うべき連中も、死地にとどまるのだった。
クシータ一派……。
無欲にして、純粋だけが取り柄のクシータだからこそ、ここまで従い続けてきた。
ユキカーラ・プラティヴァ。クシータの帝都時代からの親友であり、共に、士官候補生ながら、史上初の新聞社を立ち上げた仲である。
ゆえ、王朝に目をつけられてしまったが。
クシータは腰ベルトに吊るす剣を鞘から抜いてくる。
磨き抜かれた剣は鏡となって自身の表情を映す。茶金色に長い睫毛を瞼のふちに伏せながら、クシータは己の目を覗く。
剣に映る彼の21年の生涯も、同じようにしてクシータを覗いてくる。
(あのとき……)
新聞という言論で、この世の中をよりよい方向に導こう、などと、ユキカーラを誘わなければ、彼はダクシナ党の参謀副官などになっていなかった。
ここに追い詰められることはなかった。
だが、クシータは柄を、グッ、と、握り締める。
すべてを振り払うかのようにして、剣を横に振り抜く。
戦闘に研ぎ澄まされた視線の先――、
三列横隊に連なった聖旗軍アガー師団の兵どもが、鋼の全身鎧を、明に、影に、と、炎に浮かび上げては前進してくる。
「見た分」
と、クシータの隣、イスヴァーサが革手袋の握りを、グッ、グッ、と、確かめながら、つぶやく。
「連中は1個連隊1,000人。先を急ぐには相手にしていられん」
少年のとき、剣術大会決勝でクシータと激闘を繰り広げたイスヴァーサ・オイオイオ。彼もまた聖旗軍士官候補生となり、帝都で再会した。
帝都で共に引越し屋を初めたときは、もはや、お互い、剣を握ることはないものだと思えた。
しかし、
「クシータは連隊長を狙え。俺は他の雑魚を潰していく。お前が指揮系統を潰しに行け」
イスヴァーサの目は、炎の光景を前にして、獰猛に光るのであった。
ディリカーラとチュバラン姉弟が詠唱を始めている。
だが、先に法術を繰り出してきたのはアガー師団だった。横隊のあちこちで、次から次に、雷光が灯り始めている。
イスヴァーサが剣を抜く。ユキカーラとマザフダが、詠唱している三人の前に腰を沈める。大盾に力を込める。
聖旗軍から無数の雷光が伸びてくる。
雷電が、龍のごとくに、虚空の闇を裂いてくる。
活っ、として、クシータの鳶色の瞳孔が開く。
雷光は、一瞬のうちにして手元に到達してきていた。
が、クシータは剣を斜に下ろす。雷光を剣で受け止める。押し込まれる。ブーツの両足が地に食い込む。クシータの瞼がさらに押し広がる。剣を振り上げる。雷光が弾き返される。
天高く昇り、消えていく。
イスヴァーサも、やはり弾き飛ばした。
バツンッ、
として、ユキカーラとマザフダの大盾に激突した。が、押し返した彼らの力によって、雷光は昇り龍のようにして、夜空の果てとなる。
転瞬。
クシータは剣を握り返した。
三列横隊目掛けて駆け出す。白のスカーフをなびかせる。炎に焼かれた崩壊の香りを裂いていく。
聖旗兵たちの、血なまぐさい風を、切っていく。
創立帝の血潮とうたわれし繊細な金の髪先。狂気のはずみにはためく。
アガー師団から、火炎放射の法術が襲いかかってくる。豪炎がとどろきを巻き上げてくる――、その中へ、クシータは突っ込んだ。
一閃。
振り抜く、剣。風圧が火炎を斬り裂く。自らがこじ開けた炎の道を、突き進む。
「1列目ェー! 突撃ィー!」
アガー師団から将校の声がはなたれた。聖旗兵が一斉に腰を落とす。左腕の大盾を突き出し、右手の剣を前方に突き出し、1,000人の熱波となってクシータ一人へと、怒涛に押し寄せてくる。
クシータを援護する法術が、彼の背後から繰り出されていった。ユキカーラが放った無数の電光が、バツンッ、バツンッ、と、聖旗兵に次々に襲いかかり、さらにチャバラン姉弟の姉のマーナの火炎放射が飲み込む、弟のカーヤの吹雪が凍り固める。
聖旗兵たちが、たまらず片膝立ちになって、大盾の中に体を覆う。
と。
それらの1列目をクシータは高々と飛び越えた。
共に駆けてきたイスヴァーサの剣が、厄介な法士大隊の連中を次々に斬り倒していくあいだにも、クシータは詠唱し、雷光に覆われた剣を一文字に振り抜く。
クシータの剣筋に沿って弧を描いてはなたれた雷光は、聖旗兵50人ばかりを次から次に感電の餌食にし――、
アガー師団の連隊長が激を飛ばす。
「者どもおっ! 何をやっておるかあっ! 敵はクシータ・アンサンクラーとイスヴァーサ・オイオイオぞっ! 首を取れっ! 首を討ち取って英雄になれいっ!」
勝利一点に純粋に澄み切ったクシータの瞳は、声の在り処を捉えていた。ついで高々と跳躍した。
数々の鋼色を越えていく。炎と闇の螺旋の中にあって、朱に浮かび上がっては影に吸い込まれていくかのごとくに降り立っていき、
着地するそのままに剣を振るう。一挙、3人を斬り伏せる。
「おのれえっ!」
青マントを背負った将校が、クシータ目掛けて駆け込みざまに剣を振り下ろしてくる。が、クシータはたちまち速度を上げて将校の脇を抜ける。振るう。切る。二つとなった将校の胴体が上下逆へとずれていく。
その足で、クシータは連隊長の前に躍り出ていた。
全身鎧に青マントをたなびかせ、鳥羽の装飾兜、覆面に顔を覆う上級将校。
クシータは剣に付着した血を払いつつ、業炎の夜に高々と咆哮した。
「聖なる青の高潔に営々たる連隊長とお見受けするっ! 尋常に勝負のほどをっ!」
「ぐううっ――」
一騎打ち――。
クシータの無心の眼差しに圧倒された連隊長は、呻きをこぼしつつも、意を決したかのように剣を抜いてくる。
剣術大会で名を馳せ、聖旗軍と反乱軍との数々の戦いで無類の強さを示しているクシータ・アンサンクラーが相手と言えど、聖旗軍将校たる者、差し向かいの勝負を挑まれては、剣を抜かざるを得ない。
沽券に関わるどころか、士道精神にそぐわないとして、命を繋いでも汚名が付いて回る。
「おのれえっ!」
連隊長は無我夢中といった様子で剣を大きく振りかぶる。クシータに一直線にして突進してくる。
転瞬。連隊長は剣を振り上げたまま固まった。クシータの剣先は連隊長のその首、覆面と鎧の間に突き刺さっている。
ダクシナ党2,000人の兵が駐屯していたスルーの丘も、すでに燃えていた。
夜空を当てもなく飛行していたイエ・アボラのポッドを見つけると、剣を振って呼び寄せる。ポッドを浮かせたままの高いところから、イエ・アボラが身を乗り出してくる。
「アガー師団に襲われたっ! 法士大隊に焼かれちまってあのザマだっ! 兵隊どもは戦っているんだがっ、師団のほとんどに囲まれちまっているっ! もう駄目だっ! お前らだけでも逃げろっ!」
「将軍はっ! 将軍を見かけなかったんですかっ!」
「サバーセは無事だっ! 戦うっつって暴れるサバーセをあいつの手下どもが気絶させて逃げ出したところだっ! キンドラの本営に退却するって言ってたから、お前らも逃げろっ!」
クシータの喉奥から息が吐いて出てきた。さらにその吐息は自然と震えた。壊滅寸前の窮地が、彼に若々しい唇を噛み締めさせる。
ダクシナ党の旗揚げから約1年。
エンドラセトラ南東部のアバラータ県に始まって、中央部へ駆け上がってきた破竹の勢いが、いつまでも続くとは思わなかった。だが、終わるとも思えなかった。自分たちは正しい道を走っている。だから、終わらないと思っていた。
当初は嫌がっていた反乱軍への参加だった。しかし、旧知の者たちがクシータの下に集った。そして、掴み取っていく勝利とともに、各所で起こっていた反乱勢力と合流に次ぐ合流を重ねていった。
今では、聖旗軍100万に対し、反乱軍30万。ましてやそれは南部の勢力を結集しただけ。まだまだ反乱軍は数を増やせる。
はずだった――。
スルーの丘にはサリリカ家の屋敷がある。ナーデがいる。
ナーデは藍玉色の瞳から溌剌とした夢を放って、いつの日もクシータを出迎えてくれた。
勝ち気に切れ上がった細い眉。しかし、微笑みは見た者を優しさに包みこむ。ときには黄色みがかった白灰色の髪を揺らしながらおどけてもみせた。
ナーデのいる景色には明るい風が吹いているはずだった。
スルーの丘は炎の中にある。
クシータは空中のイエ・アボラを見上げて声を放つ。
「みんなはっ!」
「うちの子分たちが探しているところだっ――」
イエ・アボラが最後まで言ったとき「あっ」と、声を上げながら、従者のマザフダがスルーの丘の空を指差した。
ポッドが2機、ふらふらとおぼつかない飛行ながらも、ゆっくりとこちらに向かって飛んでくる。
(ナーデ――)
クシータは期待する。しかし、2,000人の兵を差し置いてナーデばかりを待ちわびている自分自身を卑しくも思う。拳を握って己を責める。ポッドを待つクシータの眼差しは悲愴さばかりが増していく。
ポッドは落ちるようにして地表を削ってきながら着陸した。ぎゅうぎゅう詰めの中から飛び出てきたのは、アボラ空挺団の操縦士と機関士の他、神導士ミミダットとクシータのメイドのデナ。もう一機からはサリリカ家の主人サクティサリと妻のパーラ、
そして、
「ナーデがっ。ナーデが見つからないんだっ!」
飛び出てきたと同時に、サクティサリ・サリリカはクシータにすがりついてきた。妻のパーラはうずくまって泣きじゃくっている。
「頼むっ、クシータ殿っ、ナーデを助けてやってくれっ」
「行く必要ねえっ!」
空中からイエ・アボラが声を張り上げた。
「まだ一機残っているだろうっ! まだ探しているんだろうっ!」
しかし、イエ・アボラに空挺団の操縦士が叫ぶ。
「いやっ、団長っ、それが、ナーデさんを見つけるために残っていたんですけどっ、あいつは聖旗軍の連中がぶっ放してきた雷をかわしきれなくて、落ちちゃって、多分、もう――」
「そもそも、どうしてナーデさんを見失っているんだっ」
イスヴァーサが叫ぶと、クシータのメイドのデナがぼそぼそとつぶやいた。
「ナーデさん、デナ、遊んでた。聖旗軍、攻めてきた。ナーデさん、デナを家の屋根に乗せた。アボラ団長来るの、待ってて言った。ナーデさん、みんな連れてくる言った。ナーデさん、家の坂、走ってく。デナ、見えた」
「クシータ殿っ! 頼むっ! 頼むっ! ナーデをっ!」
サクティサリは訴えながらも膝を崩していってしまう。クシータの足にすがりつきながら涙を流し始めてしまう。
クシータはサクティサリを励ますことも慰めることも、了承することもできない。しかし、視線を持ち上げ、切り結んだ目許で丘を見据える。
「駄目よっ! クシータ様っ!」
飛び入ってきて、クシータの肩を掴んだのはディリカーラであった。
「師団のほとんどが丘を囲んでいるのよっ! 6,000から7,000はいるはずっ! いくらクシータ様だからって、一個師団とやり合えるはずないじゃないっ!」
「頼むっ! クシータ殿っ!」
「やめてくださいっ! クシータ様は私たちにはなくてはならない存在なんですっ! 失うわけにはいかないんですっ!」
「ディリカーラっ、やめろっ! 状況をわきまえろっ!」
ユキカーラがディリカーラを引き剥がしていく。ディリカーラは涙を流しながら取り乱す。行かないでっ、と、何度も叫ぶ。デナがディリカーラの頭を撫でてやると、ディリカーラはそのままデナの胸に顔を埋めて声を上げて泣き出す。
気丈なはずのディリカーラの混乱ぶりに触発され、カーヤもえぐえぐと泣いてしまっている。泣き虫の弟をいつもはたしなめている姉のマーラも、つぶらな瞳を涙で潤ませながら、ディリカーラを見つめている。
泣き声と叫び声、そして悲愴に打ちひしがられるままの無言が、クシータたちの戦いの終焉を表しているかのようであったが、ミミダット・インテルジェンティアが緑髪を手櫛で解きながらクシータに歩み寄ってき、無頓着な表情でクシータを見上げてきた。
「回復しときます?」
クシータはうなずいた。そして、決した視線をイエ・アボラに据えた。
「団長! 僕を丘まで連れて行ってください!」
クシータのその言葉にディリカーラだけは泣きわめいたが、他の皆は何も言わずにクシータをただただ見つめた。ディリカーラもクシータを止められないことをわかっているから、取り乱しているのだった。
「わかった。乗れ。お前には貸しがあるからな」
イエ・アボラがポッドから縄梯子を放り投げてくる。
空挺団の者たちが声を上げる。
「だ、団長っ! だってっ! 三人も乗ったらろくに飛べませんっ!」
「そうですよっ! 俺たちが逃げているときはまだ聖旗軍が丘のふもとだったからあれですけどっ!」
「法術の餌食になっちまいますっ!」
「お前らのポッドの浮遊石を寄越せ! それを全部燃やせばまともに飛べるだろ!」
「そんなことしたら、ポッドが壊れちまうっ!」
「いいから寄越せっ!」
イエ・アボラに大喝されて、空挺団の者たちは乗ってきたポッドの燃料蓋を開け、浮遊石に水を浴びせて冷ます。蒸気が一斉に噴き上がる中、浮遊石を取り出す。そして、コバルトブルーの岩石はすべての思いを託すようにして夜空へゆっくりと浮かんでいく。
「召喚しますわよー」
どこまでも他人事の神導士ミミダットは、緑色一色のローブの袖から召喚術書を取り出すと、術書のうちの陣形図のページを開いた。
「いでよ! 癒やしの神ジーラ!」
ミミダットの呼声を受けて、にわかに陣形図が輝き出した。
夜闇を染め上げる光とともに、異世界の風が召喚陣形から吹いてくる。ミミダットの緑髪がたなびくとともに、光を溢れこぼしながら飛び出してきたのは、青髪に白いベールの女神ジーラであった。
戦乱の闇のうち、清廉な光に包まれながら、女神ジーラは微笑を浮かべている。
「癒しのジーラ! ここにいる者たちの傷を癒やしたまえ!」
ミミダットの呼びかけに、女神ジーラは闇を撫でるようにして右手を振るった。その白い指先からは青みがかった水の飛沫が放たれる。
降り注がれる聖水によって、激闘を戦ってきたクシータたちの疲労はみるみるうちに取れていく。そうして、役目を終えた女神ジーラは陣形図へと吸い込まれていく。
何も知らないサリリカ夫妻が目の前で起こった出来事に呆然として掌を広げている。
「い、今のは……」
「ミミさん、導士。神様呼ぶ。すごい女の子」
夫妻に可愛がられているデナが教えてやると、
「えっへん」
と、この状況下にも関わらずミミダットはおどけてみせた。
サクティサリは目を丸めたまま一同を見やっていく。
「そ、そこまでとは――。や、やっぱり、あなたたちはすごい人たちだっ。クシータ殿っ! あなたならできるはずだっ。ナーデをっ。そして、このエンドラセトラをっ」
「私からもお願いします、クシータ殿。ナーデは、ナーデは、私たちの大事な大事な一人娘なんです。お願いします。勇敢なクシータ殿に創立帝様のご加護を――」
クシータは夫妻にうなずいた。そして、縄梯子に手を掛けた。
「みんなは先にキンドラの本営に向かっていて。僕もあとから追うから。必ずナーデと一緒に向かうから」
「クシータ様っ、お気をつけくださいっ」
マザフダにうなずいて返したクシータは縄梯子を登っていき、二人乗りのポッドゆえ、ふちに掴まったまま、中を覗きこむ。
イエ・アボラの座る操縦席の足下には、機関士がさらに座っている。彼の目の前には浮遊石の入った燃料室。熱すると、より浮力の高まる浮遊石の特徴を活かし、あらかじめ点火させた炎に機関士は筒で息を送る。
「クシータ、呑気に飛び回っていられねえからな。聖旗軍もそうだが、浮遊石をぶち込んでいるせいで、いつポッドがぶっ壊れるかわからねえ状態だ」
「はい」
「丘のてっぺんに着いたらお嬢ちゃんを呼べ。大声で呼べ。見つけたところを拾い上げて、こんなところからはさっさとおさらばだ」
「わかりました」
「そのあとのことはわからねえけどな」
イエ・アボラは操縦棒を前方に倒す。ポッドが前のめりにかたむく。同時に空中をすべるようにして進んでいく。
(ナーデ、頼む――)
赤々と燃え盛るスルーの丘を見つめながら、クシータは愛しい人の無事をとにかく祈るのだった。
――物語は、クシータがラプラスカ郡に追い詰められる21年前から始まる。