三角点の起点
~プロローグ~
妖しげな色彩放つライトの下で、しなやかに、妖艶に舞う彼女の白い躰を見る度に痛んだ心は、自分達の選んだ道は間違いだったのかもしれない、という`迷い`と……小さな`後悔`のせいだったのか……。
愛している。
このひと言を誰かがあの時言えたなら、運命の指針は違った道を指し示してくれただろうか。
~キャバクラ・ローザ~
最後の客を送り出したキャバクラ[ローザ]。閉店後、店のスタッフ達が緊張した面持ちでフロアに整列していた。
「今日は、なんですか?」
「シッ」
キョトンとする新人キャバ嬢をベテランがたしなめた。
「オーナーが来るって」
別の場所から囁き声がした。
「オーナー、ステキよね」
「私はいつもオーナーの隣にいる兵藤さんの方がいいけど」
これから現れるオーナー剣崎星児とその相棒兵藤保の噂話がキャバ嬢達の間で囁かれていた。
「ねぇ、前から気になってたんだけど……、あの2人の片耳のピアスって、女性モノみたいよね」
「あ、赤い石のでしょー?」
「それ私も気になってたー」
1人のキャバ嬢がふと漏らした言葉に数人が同意した。
「そういえばオーナーも兵藤さんも、結婚してない、わよね?」
彼女達は、この店を開店当初から知る、という古株のマスターに注目する。
「ねぇねぇマスター。マスターなら、あのピアスが何か知ってるんじゃないー?」
直立不動でオーナーとその相棒が現れるのを待っていた、マスターと呼ばれた口髭の男はキャバ嬢達の猫なで声に苦笑いした。
「悪いねぇ。私もよくは知らんのだ。アレは、この店を開いた時には既に2人はしていたからなぁ」
彼はそうとしか答えられなかった。
あの赤い石のピアスは、軽々しく公言はできるものではない。あれは、あのピアスは、二人が愛した一人の踊り子のものだ。
「オーナーと兵藤さんが見えました!」
緊張した、若いボーイの声がフロアに響き渡った――。
~漆黒と紅蓮の記憶~
それは暗闇の中の紅蓮。幼い日の、朱の記憶。
夜闇の中、赤々と燃える炎が火の粉を巻き上げ冬の乾いた風に乗り、緑豊かだった森を焼き、山間の小さな村を呑み込んでゆく。
「おとーさぁん! おかーさぁぁん!!」
「たもつ! ダメだ!」
「だって……」
「ダメだ! 行ったらオレたちまで焼け死んじまう!」
「せいじはお父さんたちを助けたくないの!?」
「たすけたいよ! 助けたいけど……っ! オレたちまで焼け死んじまったらだれが父さんたちの仇をとってやれるんだよ!」
真っ暗な夜空に立ち上る紅蓮の炎。まだ幼い少年達は、自分達が生まれ育った大事な故郷が炎に呑み込まれて消えてゆくのを黙って見ている事しか出来なかった。
「お前達は先に逃げろ!」と、父は幼い彼らに火が及ばないこの場所へ逃げる事を教えてくれた。
家族。友達。故郷の美しい風景。大事な思い出。何もかも燃える。悔しさも憎しみも、全てをその目に焼き付けた。
絶対にゆるさねぇ。今に……今に見てろ!
紅い炎を瞳に映す少年は、その小さな胸に復讐と野望の誓いを刻み込んだ。
~三角点の起点~
1
雨の歓楽街の、まばゆく灯るネオンは濡れたアスファルトに反射し煌めいていた。
週末、賑わう歓楽街の雑踏の中、少女が一人、アテもなくさ迷う。
おなかすいた。
仕事を失った。
住むところを追われた。
空っぽの財布にほんの少しの着替えが入っただけのバッグを1つ……。
少女の目に映り込むネオンの光は雨に濡れた路面に反射し輝いていた。虚飾の灯りは、冷たく生気を感じない。夜のこの街を、傘も差さずに歩く少女の姿は異常だったが、彼女に声を掛ける者はいなかった。
不意に腕を掴まれた少女はグイッと人通りの少ない汚い路地裏に引き込まれた。
「……きゃっ!」
コンクリートの壁に叩き付けられた身体に恐怖という震えが走る。
「お嬢ちゃん、行くとこないのかなー?」
この場所に引き込んだ男は少女の腕を掴んだまま離さない。薄暗い中で少女は目を凝らし、この、腕を掴む男の背後に数人の男の姿を確認した。
ドクドクという激しい鼓動に心臓が壊れてしまいそうだった。叫びたくとも喉の奥が張り付いたように塞がって声がでない。ガクガクと震える少女に取り囲む男達は冷笑を浴びせた。
「こんな時間にこんなとこ1人で歩いててよぉ。襲ってくださいって言ってるみてーなもんじゃねーか」
「ヤるだけヤったら剣崎んとこにでも売り付けようぜ」
「へへへ、そうだな」
男達の不快な笑いがビルの壁に囲まれた狭い路地裏にこだまする。
「や……っ……はな……っ!」
乱暴に押し倒され、手足を押さえつけられた少女は必死に声を絞り出した。しかし、無情にもビリビリと衣服が引き裂かれ、まだ幼い躰が露になった時だった。
「悪いけど、お前らの汚い手垢が付いた女なんて、星児は買わないぜ」
暗いビルの谷間に響く、低く通る声。男達の手が止まった。
「兵藤……」
振り向いた男が舌打ちと共に吐き捨てるように呟いた。
「今ならまだセーフだ。買ってやるよ、その女」
薄暗がりの中、少女に群がる男達の背後に長身の男が立っていた。兵藤と呼ばれたその男は財布から札束を出して見せた。
「これ持ってとっとと失せろ」
「チッ」
少女を一番初めにこの路地裏に連れ込んだ、リーダー格と見られる男が兵藤の手から乱暴に札束を受け取ると、他の男達に顎を上げる仕草をした。
「お前ら、行くぞ!」
去り際、男は兵藤にケケケと笑った。
「そんな汚ぇガキ、この金額に見合うモンでもねーかもな、まいど」
取り残された少女は胸元を腕で隠し、壁を背に座り込んでいた。未だガクガクと小刻みに震え、兵藤を怯えた瞳で見上げている。兵藤は少女に近づきながら着ていたジャケットを脱ぎ、羽織らせた。
「何もしないよ」
静かな、感情の分からない低い声。だが不思議と危険な匂いがしなかった。
「立てるか?」
小さく頷いた少女に兵藤は手を差し出し、静かに立たせた。
「お前、行くとこないのか?」
少女はまた頷いた。歯の根が合わない程震える少女は声が出ないようだった。
よほど怖かったか。兵藤はまだ幼いこの少女が遭遇した恐怖を想い、肩を竦めた。
「一緒に来るか? とりあえずここにいても仕方ないだろ?」
その言葉に顔を上げた少女はかすかに驚きの色を見せていた。まだあどけないその顔を見て兵藤は考えていた。
星児はこんな時、どうするだろうな。
兵藤保の相棒で、この界隈を縄張りとする剣崎星児の事務所は歓楽街の外れにあった。
飲食店の入った古い雑居ビルの、年季の入ったエレベーターの扉が開くと、スーツ姿の厳つい男が二人、降りてきた。彼等は保に「よお」と手を挙げ、その隣にいた男物のジャケットを着た小柄な少女に目をやった。
「なんだ保、その女。まだガキじゃねーか」
「ああ……拾った」
「ひろったぁ? んじゃ後でこっちに回せよな」
ヒヒッと笑いながら言った男の言葉に、少女がビクリと震えたのが保には直ぐに分かった。
「この子はそういうんじゃねぇよ」
低く、凄みの効いた声だった。保の想いもよらない迫力に卑下た笑いを顔に貼り付けていた男達は黙った。
「……な、なんだよ、マジになってよ。わーったよ」
そう言い、フンッと彼等はエレベーターの扉の向こうに消えた。
何故かは分からない。ただ、この少女は守りたい、守らなければいけない、そんな気持ちが保の中に湧いたのだ。その気持ちが、自分でも驚くような凄みを含んだ声を口から放たせていた。
2
「珍しいな、保がガキを買って来るなんてさ」
風俗店の派手な看板ライトを映し出す窓の前に剣崎星児は立っていた。スラックスのポケットに手を突っ込み、窓の外のネオンなど見ているわけでもなさそうだが、保には背を向けたまま動かなかった。
「星児の名前が出てたからだ。アイツらのお手付きモノなんか買わされたくねぇだろ」
星児がその言葉にクッと笑う。
「だから`そうなる前`に買った……か」
「そうだよ」
文句あるか、と言いたげに保はムッとして答えた。何かを考えていた星児は少しの間を置いて、そういや、と再び口を開いた。
「源さんとこのロリパブ、昨日ガサ入ってたな。アソコのガキども、クモの子散らしたみてーにほとんど消えたらしい」
ここで初めて星児が振り向いた。窓からの、ネオンの明かりを背に立つ男の姿に少女は息を呑んだ。
仕立ての良い細身のスーツをカチリと着こなし、切れ長の目はまるで獲物を狙うかのような隙のない光を放つ。見るものを圧倒的な威圧感で黙らせる力を持っているようだった。
背筋が伸びた八頭身近い立ち姿は見上げる少女には実際の身長よりもずっと高く見えた。少女は彼のオーラに耐え兼ねジリッと後退りした。この空間を支配する緊張感に保も固唾を呑んだ。
カツカツと靴音を響かせ少女の傍にきた星児は、彼女の顎に人差し指を掛け、クイッと顔を上げさせた。
「お前、いくつだ?」
ゴクリと緊張に生唾を呑んだ少女は、覚悟を決めたように真っ直ぐに星児を見据える。
「じゅ……じゅう……はち」
尻すぼみに小さくなる声で彼女が答えた次の瞬間――星児は少女が着る、保のジャケットの合わせ部分に手を掛け、一気に全開にした。同時にボタンが弾け飛んだ。
「――……っ!?」
路地裏で乱暴された時に衣服を殆ど剥ぎ取られていた少女はジャケットの下はほぼ全裸。少女は一瞬にして白い躰を露呈させられた。
あまりのショックに声も出ない少女と、その隣で呆気に取られる保。星児は冷めた視線で彼女の躰に一瞥をくれるとジャケットから手を離した。ヨロヨロと床にへたり込んだ少女に星児は冷たく言い放った。
「18の女はそんな出来損ないみてーな躰はしてねーよ。お前、まだ14、5だろ。家出少女ってとこか」
その言葉に、少女はビクッと肩を震わせた。
警察に突き出される? 座り込んだまま怯え蒼白となった少女に、
「図星だな」
と星児は言った。少女の前に屈むと目線を合わせた。真っ直ぐに少女の瞳を見詰める目は何かを探るかのように動かない。
「処女か?」
唐突で予想だにしなかった星児の言葉に少女は目を丸くしたが、気圧され、素直に正直に頷くことしかできなかった。
「よし、分かった」
少女から視線を切った星児は立ち上がる。
「保。俺達のマンションの部屋、1つ使ってなかったよな。アソコをコイツの部屋にしてやる」
「へっ、星児!?」
いきなりの提案に保は面食らった。そんな保にお構い無しに星児は少女に語りかける。
「いいか。しばらくは俺達のとこに置いてやる。売られなくなければそれなりにこの街で生き抜く方法を考えろ。それが出来ないなら……」
一旦言葉を切った星児の瞳が険しくなった。
「家に帰れ」
少女はそのひと言を聞いた瞬間、鋭い眼光放つ目を見据えて叫んだ。
「イヤ! あんなとこ、もう帰りたくない!」
「いい声、出せるじゃねーか」
思わず声を張り上げていた少女に星児はニヤッと笑った。
「それなりの事情があるんだな。俺らだってそうだった。ただな……自分の足で生き抜く力は付けなきゃいけねぇ。俺は余計な手助けなんかしてやんねーぞ」
ぶっきらぼうな言葉だったが、そこには不思議な優しさが同居していた。
少女の心に温かい何かが拡がりポロポロと涙がこぼれた。それは、安堵か。
少女は声を上げて泣き出した。しゃくり上げ、泣き続ける彼女の頭を星児が優しく撫でる。
「いいか。とりあえずは、この街で堂々と働ける歳になるまで大人しくしていろ。それまでは俺達が守ってやるから」
星児は言いながら視線を保に投げ掛けた。
「保、分かんだろ?」
星児と保の間にあるのは、友人、兄弟、そんな単純な言葉では表現できない計り知れない深い絆だった。目を見れば、互いに言わんとする事が分かる。
「ああ……」
保は頷いた。
そう。`処女`は高く売れる。大事に育てて、ここぞ、という場面での`切り札`にする。三人の関係の始まりは、それだけだった。それだけの筈だった。
「お前、名前聞いてなかったな」
「あ、えっと……」
星児は少女の頭に手を置いたまま優しく笑った。
「ロリパブの源氏名はいらないぞ。もう捨てろ。差し支えなければ俺らには本当の名前を教えてくれねーか」
少女の顔に初めて微かな笑顔が見えた。
「……みちるです、津田、みちるです……」
「みちる……か」
みちると名乗った少女の頭をクシャッと撫でた星児はニッと笑う。
「俺は星児でアイツは保だ」
その、どこかに微かな少年のような印象を残す笑顔がみちるの小さな胸に`何か`を残した。チクリと刺すような小さな小さな痛みを残す`何か`を。
みちるは、せいじさん……と、確認するように胸の中で呟いた。